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黒い羽を夜気に溶かし、少年は天界の境界を越えた。
魔界へと続く裂け目は、静かに脈打つ傷口のようだった。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。重く、甘く、どこか焦げた匂いを帯びた風が頬を撫でた。
少年は深くフードを被り、羽を外套の内に隠す。瞳の光も抑え込むように、意識を沈めた。
——正体を悟られるわけにはいかない。
サリエルがかつて、牢屋の中で語っていた言葉が蘇る。
『僕を育てた人は、魔界の外れにいる。変わり者で、優しくて…でも、とても強い。』
その「育て親」に会うこと。それが、今の少年に残された唯一の導きだった。
ーーーー
魔界の空は深い紫に沈み、低く垂れこめた雲の向こうで赤い月が滲んでいる。
何度も来た場所だ。
だが、知っている魔界ではなかった。
少年の記憶にあるのは、常に戦場だった。焼け落ちる砦、裂ける大地、剣と魔力がぶつかり合う轟音。血に濡れた悪魔たちの姿。冷酷で、誇り高く、最後まで退かない戦士たち。
だが今、目の前に広がるのは、静かな街だった。
石造りの建物が整然と並び、黒と深紅を基調とした装いの悪魔たちが穏やかに行き交う。角や翼はあっても、姿はほとんど人と変わらない。子どもらしき小さな悪魔が、書物を抱えて走り去る。
笑い声さえある。
(…こんな顔をするのか。)
少年は、わずかに目を見開いた。
戦場では見なかった表情だ。
武器を持たぬ悪魔。家族と並ぶ悪魔。穏やかに談笑する悪魔。
胸の奥が、奇妙にざわつく。
自分は、彼らの“戦う姿”しか知らなかったのだと気づく。
外套のフードを深く被り直し、羽が覗いていないか確かめる。視線をさまよわせながら、通りを進んだ。
だが、灰色の丘はどちらだ?
白灰の地帯とは、どの方角だったか。
戦場へ向かう道は知っているが、生活の地理は知らない。
きょろきょろと辺りを見回す自分に気づき、内心で舌打ちする。
(落ち着け。怪しまれる。)
そのときだった。
「…大丈夫?」
不意に、柔らかな声が横からかかる。
反射的に肩が強張る。
声の主は、若い悪魔の女性だった。長い黒髪に、細く後ろへ流れる角。落ち着いたヘーゼルの瞳が、心配そうにこちらを見ている。
武装はしていない。ただの市民だ。
「さっきから、ずっと周りを見てるけど。迷った?」
少年は一瞬、言葉を失う。
戦場なら、声をかけられる前に斬り合いが始まる。
だが、ここは違う。
「…いや」
とっさに否定しかけ、やめた。
余計に不自然だ。
「…少し、道を探しています。」
「どこ?」
視線がまっすぐで、警戒よりも純粋な気遣いが勝っている。
少年は慎重に言葉を選ぶ。
「北の外れにある…“灰の庭”を知っていますか。」
女性の表情がわずかに変わった。
「灰の庭…?」
「会いたい人がいまして。」
数秒の沈黙。
やがて彼女は小さく息をついた。
「白灰の丘を越えた先よ。ここからなら北門を出て、まっすぐ。灰が強くなるから、すぐ分かる。」
そして、少しだけ首を傾げる。
「あそこに行くなんて、珍しいね。」
探るような響きはない。ただの疑問。
少年は視線を逸らす。
「…約束があるので。」
短く、それだけ答える。
女性はそれ以上踏み込まなかった。
「気をつけて。悪い人ではないんだけど、少し気難しくて有名だから。」
「…ありがとうございます。」
かすれた声でそう言うと、女性は微笑んだ。
「どういたしまして。旅人さん。」
ーーーー
北門を抜けると、街の喧騒は遠ざかる。
足元の石畳はやがて灰に覆われ、空気が静まり返る。風が舞い上げるのは細かな白灰。遠くに、淡く霞む丘が見える。
(あれか…)
歩みながら、少年はふと思う。
戦場で剣を交えた悪魔たちにも、ああして日常があったのだろうか。
守る者がいて、帰る家があったのだろうか。
胸の奥に残る怒りが、わずかに形を変える。
復讐だけではない感情が、静かに芽生え始めていた。
「…サリエル。」
小さく名を呼ぶ。
お前が見ていた魔界は、こういう世界だったのか。
灰の丘が近づく。
その先に、屋敷の影がかすかに見えた。
外套の内で、黒い羽が静かに震える。
少年は深く息を吸い、灰の風の中へと足を踏み入れた。