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灰は、音を吸い込む。
白灰の丘を越えた先にあったのは、静まり返った屋敷だった。
黒と銀で構築された重厚な建物。蔦の代わりに灰が絡みつき、庭には花の代わりに、白く朽ちた枝が規則正しく並んでいる。
——灰の庭。
門を押すと、きぃ、と乾いた音が鳴った。
胸が、ひどく騒ぐ。
(…ここにいる。)
サリエルが語った“育て親”。
優しくて、とても強い。
そして——気難しい。
少年は外套の奥で拳を握り、玄関扉の前に立った。
一度、呼吸を整える。
そして、扉を叩いた。
——コン、コン。
灰の風が吹き抜ける。返事はない。
もう一度、今度は少し強く。
——コン、コン、コン。
沈黙。
やはり留守か、と一瞬よぎった、その時。
「…帰れ。」
低く、冷えた声が、内側から響いた。
扉越しでも分かる。
圧のある声だ。静かなのに、拒絶の意志が鋭い。
少年の喉が、わずかに鳴る。
「…帰れと言われて、帰るわけにはいきません。」
短い沈黙ののち、扉の向こうで足音が止まった気配がした。
「…誰の差し金だ。」
「違います。」
「ここを知る者は限られている。」
声は淡々としているが、内に刃を含んでいる。
少年は、ゆっくりとフードに手をかけた。
「私は——」
その瞬間。
扉が、内側から一気に開かれた。
強い魔力が吹き荒れる。灰が舞い上がり、空気が震える。
目の前に立っていたのは、一人の男だった。
短くぼさぼさの漆黒の髪。やつれた体つきが、長く戦い続けてきたことを物語る。黒曜石のように深く冷たい瞳。整った顔立ちだが、その眼差しは凍るほど鋭い。背には大きな黒翼が折り畳まれている。
威圧だけで膝を折らせるような存在感。
少年は反射的に身構える。
だが、剣には手をかけない。
男の視線が、彼を射抜く。
「…天の匂いがする。」
空気が、張り詰める。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで男の手が伸び、少年の喉元を掴み、壁へと押しつけた。
「誰だ。」
低い声。
殺気ではない。だが、少しでも答えを誤れば終わると分かる圧。
息が詰まりながらも、少年は男を見返した。
逃げない。
そして——外套をぬいだ。
隠していた黒い羽が、灰の風の中に広がる。
男の瞳が、わずかに揺れた。
「…その羽…。」
「あなたに、伝言があります。」
喉を締め上げられながら、それでも言葉を絞り出す。
「サリエルからです。」
その名が落ちた瞬間。
空気が止まった。
男の指先の力が、わずかに緩む。
「…今、何と言った。」
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「サリエル。」
はっきりと、繰り返す。
「あなたを、父と呼んでいた人です。」
男の表情が、初めて崩れた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
掴んでいた手が、ゆっくりと離れる。
少年は咳き込みながらも、膝はつかなかった。
男は数歩下がり、じっと少年を見つめる。
「…あれは、天界に堕ちたはずだ。」
「ええ。」
「生きているのか。」
問いは鋭い。だが、その奥に滲むのは恐れだ。
少年は、唇を引き結ぶ。
そして、首を横に振った。
沈黙。
風が、灰を巻き上げる。
男の翼が、わずかに震えた。
「…そうか。」
それだけだった。
叫びも、取り乱しもない。
だが、深淵の黒い瞳の奥で、何かが静かに崩れたのを少年は見た。
長い沈黙の後、男は背を向ける。
「…入れ。」
低い声。
拒絶はないが、温かさもない。
「話を聞こう。ただし——」
振り返る。その視線は、再び鋭さを取り戻していた。
「つまらぬ嘘を吐けば、殺す。」
気難しい——どころではない。
試されている。
少年は真っ直ぐに立つ。
「構いません。」
男の瞳が細められる。
「…名は。」
一瞬、迷う。
だが、ここで偽る意味はない。
「アゼリアです。」
男の視線が、少年の羽に落ちる。
「…なるほど。」
わずかに、ほんのわずかに。
その目に、理解の色が宿る。
「俺は——」
男は静かに名乗った。
「 ヴェルサファー・ルシオン」
灰の庭の奥で、扉が静かに閉まる。
二人の間に横たわるのは、失われた命と、まだ語られていない真実。
そして——
サリエルを繋ぐ、たった一本の細い縁だった。