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年が明けて最初の水曜日、ほぼ二週間ぶりに土屋家を訪ねた。
理玖と最後に会ったのはS市に行った日だ。その後彼と会うタイミングとしては初詣があった。実際、二人で初詣に行こうと理玖から誘われたが、なんだかんだと互いにそれぞれ予定が立て込んでしまったためにタイミングが合わず、結局彼と会うのはこの日までお預けとなった。
玄関先で友恵に挨拶して、階段下で別れた。その後は一人で二階への階段を登る。
理玖とは会わない間もメッセージのやり取りや、電話で話したりしていた。けれど恋人同士となって以来、顔を合わせるのは初めてだと思うと少し緊張する。彼の部屋の前で足を止め、どきどきしながらドアをノックした。
「いらっしゃい」
ほとんど待つことなく理玖が顔を出した。
「冬休みの宿題、今全部終わった所なんだ。分からない所は残してあるから、見てもらえる?」
甘ったるい出迎え方を期待していたわけではないが、彼の様子が今までとあまり変わりなく、思いの外普通だったことに、肩透かしを喰った気分になった。久しぶりに会うことに緊張し、胸を高鳴らせていたのは自分だけだったのかと、浮ついていたことを恥ずかしく思う。今日は家庭教師として来ているのだからと気を取り直して、私は彼の部屋に足を踏み入れた。
背後でドアが閉まった。
理玖は私の傍を通り抜けて机の方へと向かい、そのまますとんと椅子に座る。
その後を追うようにして彼の隣の椅子に向かい、私も腰を下ろす。彼はTPOを弁えているだけなのだと思いながらも、平然として見えるその様子にやっぱりもやもやしてしまう。
それを振り払いながら机の上をふと見ると、ところどころ付箋を貼った教科書や問題集が広げられていた。
「付箋の部分が分からなかったところ?」
その部分をもっとよく見ようとして、身を乗り出した時だった。理玖に唇を塞がれた。
驚いて反射的に理玖の胸を押し返そうとしたが、呆気なく両手をつかまれてしまう。回転式の椅子が動き、体が理玖の方を向いた。
彼は私の心を溶かすようなキスを続ける。
「んんっ……」
先程のもやもやした感情などもう思い出せないほど、彼のキスは甘すぎた。抵抗するどころか、自ら唇を緩めて彼のキスを受け入れる。いつ何時友恵が二階に上がって来るかもしれないと気が気でないくせに、彼のキスから逃れられない。
ようやく唇を離した理玖は私の背に腕を回し、くすっと笑う。
「まど香さん、隙がありすぎだよ」
「そんなこと言われても困る」
頬が火照る。赤くなっているのもバレバレだろう。
「あぁっ、もうっ!今日まですごく長かった」
「大げさね」
ふふっと笑う私に、理玖は不貞腐れた顔を見せる。
「大げさじゃないよ。本当なら毎日だって会いたいのに」
私はなだめるように、柔らかな理玖の髪の毛を指で梳く。
彼は私の肩に顎を乗せてつぶやいた。
「まど香さんの就職先、もう変更はできないんだよね」
「それはできないし、できたとしてもしないわ。私にとってその会社が第一希望だったから、断ることはあり得ないの」
「そうだよね、こんなこと言うべきじゃなかった。ごめん、今のは忘れて」
「うん……」
本当は私だって毎日会いたいし、飽きるくらい触れ合いたい。けれど、そういう環境にない私たちにそれは難しい。それどころか、春からはこんな風にも会えなくなるのだと思うと、まだ先のことだというのに寂しくて悲しい気持ちになる。それを紛らわせるように、私はあえて明るい口調で彼を促した。
「さ。まずは勉強を始めましょ」
理玖は私をぎゅっと抱き締めてから、仕方なさそうにのろのろと腕を離す。
「まど香さんに勉強を見てもらえるのも、あと少しだもんね。最後の最後に有終の美を飾って、親だけじゃなく、まど香さんにも安心してもらえるように頑張らないとね。そう言えば今回の冬休みの宿題の範囲って、三学期の期末テストの範囲と被るらしいんだ」
「そうなの?それなら、しっかりとやらなきゃね。できればもう一度見直して、復習しておくといいかもしれないわね」
「うん。そうする」
理玖は真面目な顔で頷いて机に向かった。分からないからと解答欄を空欄にしていた問題を、私の説明を聞きながら丁寧に解いていく。すべての解答欄を埋め終えて、やれやれと言うように彼はふうっと息を吐いた。
「終わったぁ。……あぁ、ちょうど時間だね。ありがとうございました」
「お疲れ様でした」
理玖に労いの言葉をかけてから筆記用具を片づけて、私はカバンを持って立ち上がる。
「それじゃあ、帰るね」
「駅まで送ってくよ」
「まだ暗くないし、大丈夫よ」
「もう少し一緒にいたいんだよ。だめって言われても着いて行くけどね」
理玖の上目遣いと甘い声に抵抗できるわけがない。私はこくりと頷いた。
階下に降り、リビングにいた友恵に挨拶する。
その横から理玖が言った。
「コンビニに行きがてら、先生を送って来るよ」
「そう?じゃあ、帰りにスーパーで買って来てほしいものがあるの」
友恵はいったん奥に引っ込み、出てきた時にはメモ用紙を手にしていた。それを理玖に手渡す。
「お願いね」
「了解」
短い受け答えの後、廊下に突っ立ったままだった私に友恵は微笑みかける。
「まど香先生、また来週お待ちしていますね」
「はい。また、よろしくお願いします」
「先生、行こう」
理玖の声に促されて、私は今ひとたび友恵に会釈をしてから玄関に向かった。
土屋家を後にした私たちはつかず離れずの距離を保ちながら、駅への道を並んで歩く。
「俺たちって付き合ってるわけだから、例えば今度の週末なんかにも会いたいな」
「今度の週末じゃないほうがいいかなぁ」
「何か予定があるの?」
「予定っていうか、実は卒論の締め切りが来週の水曜日でね。もう少しで終わりそうで、この週末にラストスパートかけようかと思っているの」
「そうだったんだ。それなら今日、もしかして無理して来てくれたの?」
理玖に心配そうに顔をのぞき込まれて、私は首を横に振った。
「無理なんてしていないわ。もう少しで終わりそうって、さっき言ったでしょ?それに、あの、会いたかったから……」
最後のセリフを言ってから、急に恥ずかしくなる。寒いのに、頬だけがやけに熱い。
「なんでこのタイミングで、そういう可愛いこと言うかな……」
押し殺したような声でつぶやいたかと思ったら、理玖は私の手を握った。
「電車、一本だけ遅らせちゃ、だめ?まだ帰したくない」
熱を持った理玖の瞳に見つめられて、どきどきする。
「でも、お使いは?お母様、待ってるんじゃないの?」
「そんなの気にしなくていいから。もうちょっとだけ。ね?」
彼と会えるのは一週間先後だ。できる限り少しでも多くの時間を一緒にいたいと思うのは、もちろん私も同じだ。
「……理玖君の用事が大丈夫なら」
「それならあの公園に行こう」
ちょうど見えてきた駅近くの公園の中に、理玖は私の手を引きながら入っていく。
すぐの所にあるベンチに向かうのかと思ったが、彼はそこを通り過ぎて、さらに先に葉が落ちてすかすかの木立の方へと歩いて行く。
東屋があった。誰もいないことを確かめて中に入る。
理玖は私を自分の方へ引き寄せながら、ベンチに腰を下ろす。
そのまま抱き締められて動けなくなった。
「理玖君、誰かに見られたら困るわ……」
「この場所は高い位置にあるし、壁もあるから、周りからは見えにくいよ。それに、誰かいるって分かってて、わざわざ寄って来る人なんかいないよ」
「でも……」
「心配性だなぁ。俺なんか、見せつけてやってもいいって思ってるのに」
耳元で話す理玖の息がくすぐったい。首をすくめる私の肩先に理玖が額を乗せる。
「まど香さん、好きだよ。大好き。大好きすぎてたまらない」
「どうしたの、急に」
「今まで言い足りてなかった分、たくさん言っておこうと思って。それでまど香さんを洗脳して、俺と離れていても大丈夫な状態にするんだ」
「何、それ」
「洗脳」の言葉が思いがけなくて、つい笑ってしまう。
理玖は顔を上げて、くすくす笑いをやめない私をじとっとした目で見た。長めのため息をついてから言う。
「S市との距離なんて問題じゃないって言ったのはほんとだけど、やっぱりすぐに会えない距離なのは不安なんだ。まど香さんは魅力的だから、きっと狙う男も出てくると思うし。そういう時に、まど香さんの心がぐらつかないようにしておかないとさ」
不安を素直に口にする彼のことがひどく愛おしい。私は彼の頬を両手で包み込み、その目を覗き込んだ。
「大丈夫よ。心配しないで。理玖君以外の人に気持ちが揺れることは絶対にないから」
「本当かなぁ」
「本当よ。だって、私のちょっとした変化に気づいて優しく癒してくれる人、理玖君しかいないもの」
理玖の顔から徐々に不安の色が消えていく。
「できることなら、今すぐにでもまど香さんの全部、俺の物にしたいよ」
言うなり、理玖は私の唇に噛みつくようなキスをする。
今までにはなかった激しいキスに驚きながらも、私は彼の首に腕を回して応えた。
ひとしきり互いを貪るような口づけを交わし合っていたが、遠くに聞こえたクラクションの音にはっとして、私たちは名残を惜しむように唇を離す。
呼吸を整えている私に、理玖がきっぱりとした声で言う。
「決めた」
「何を?」
「俺、まど香さんを追いかける」
「ん?」
その意味を問うように私は理玖を見上げた。
「S市の大学に入れるように、もっと勉強を頑張る。そうすれば、一年間だけ我慢しさえすれば、あとはまど香さんから離れなくてすむもんね」
呆気に取られて私は瞬きを繰り返した。
「そんな理由で進路を考えるなんて、浅はかよ」
「そんなことないよ。だって、俺にとっては大事な理由の一つなんだから。まど香さんがS市の会社を希望してることを知ってから、実は色々と調べたんだ。その中で、いいなって思う大学がS市にあってね。それがT大学。それまでは進路なんてぼんやりとしか考えてなかったんだけど、まど香さんのおかげで目標がはっきりしたんだ」
いい影響を与えたと思っていいのだろうかと、やや不安に思いながら曖昧に笑う。
「しっかり考えた結果だっていうならいいと思うけど……」
「まど香さんの就職が、進路をちゃんと考えるきっかけになったっていうことだよ。だから、そんな顔をしないで」
理玖に頬を撫でられて、私はようやく表情を緩めた。
彼は決意を固めたような力強い声で言う。
「俺、死ぬ気で勉強頑張るよ」
その言い方がおかしくて、口元が綻ぶ。
「分かった。応援するわ。それで、理玖君が近くに来てくれる日を待ってる」
言い終えた途端、理玖は私の耳をかぷっと唇で挟み込んだ。
「あぁんっ!」
突然のことに驚くと同時に、ぞくりとしておかしな声をあげてしまった。周りに人がいたりはしなかったかと、恥ずかしくて顔が一気に熱くなる。
「ちょっと!何するのよ」
理玖から逃げようとしたが、彼の手にがっちりと体がホールドされていて、身動きできない。
「ごめんなさい。でももう少し、触れさせてよ」
私の耳を咥えたままで話す理玖の声と吐息が、全身を刺激する。もどかしいような気分になるのを止めようとして、私はかすれ声で理玖に訴えた。
「だめだってば。もう駅に行かないといけない時間だから……」
「駅」「時間」の言葉に、彼は渋々とようやく私を離した。
「仕方ないなぁ。また一週間、触れるどころか顔も見られないんだね。長いなぁ」
「ごめんね」
「いや、仕方ないよ。まど香さんも頑張ってるんだもんね。俺もあなたを恋しがってばかりいちゃだめだな。引き留めてごめん」
「うぅん。あの、少しでも長く一緒にいられて嬉しかったから……」
私は理玖の頬にそっとキスをした。
彼の目が見開かれた。しかしすぐに、呆れと喜びが入り混じったような笑顔になる。
「帰り際にそういう可愛いことするのは、今後禁止ね。そんなことされたら、離したくなくなるんだから」
理玖はお返しとばかりに私の頬を両手で挟み込み、はむっと噛みつくようなキスをした。唇を離してにっと笑う。
「来月の俺の誕生日、プレゼントはまど香さんね。その辺りはテスト期間だから、誕生日デートはテストが終わってからにしようね」
誕生日のプレゼントは私って……?
その意味をどう捉えたらいいのかと、どきどきしてしまう。以前理玖が言っていた「健全な男子高校生だから」という言葉がなぜかふと思い浮かび、彼のキスに与えられたもどかしさとが繋がって、妄想がその先に進みそうになった。しかしそこに理玖の声がきこえてはっとする。
「あ、もしかして今イケナイこと考えてる?」
私の表情を見て、理玖がにやにや笑っている。
「な、何も考えていないわよ。え、えぇと、早くいかなきゃ」
私は理玖から目を逸らし、膨らみかけた妄想を振り払いながら慌ただしく立ち上がった。