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夏が過ぎ、少し冷たい風が吹くようになった。
入社2年目の可憐ちゃんと小熊くんは、ちょっとずつ社会人らしくなってきた。
あの小熊くんが感情的な事を言わなくなり、まずは相手の話を聞いて一拍おいてからものを言うようになった。
こうしてみると高田は本当にすごい。一体どんな魔法を使ったんだろう。
「ねえ、一華さん」
可憐ちゃんがコソコソと話しかける。
「何?」
「あの・・・」
そう言ったきり言葉が止った。
「どうしたの?」
「実は・・・」
よほど言いにくい事のようだ。
でもこのままではらちがあかない。
「どうしたの?可憐ちゃんらしくないでしょう」
いつもはっきりとものを言ってくれる可憐ちゃんが今日はおかしい。
「・・・三和物産って、小熊の担当ですよね?」
「うん。5年ほど前からの新しい取引先。当初から私が担当していたけれど、今は小熊くんに引き継いだの。それがどうかした?」
「実は・・・昨日一華さんに頼まれた三和商事あての見積もりを、三和物産に送ってしまって・・・」
「えええ?」
それは・・・まずいわね。
「あれってうちからの仕入れ価格も全部書いてあるんだったわよねえ」
「ええ」
三和商事は古くからつきあいのある取引先、仕入れ値だって三和物産に比べたらかなり低く設定している。
***
「見られたらまずいわね」
「やっぱり。どうしましょう一華さん」
可憐ちゃんが半べそをかいている。
困ったわねえ。
「もう先方には着いたの?」
「たぶん今日の昼には着くと思います」
うーん。
こんなとき、社会人としての正しい行動は下手に隠そうとせずに、すべてを上司に話す事。
私にだってわかっている。でも、可憐ちゃんがかわいそうで、できなかった。
それに、三和物産は去年まで私が担当していた会社。
担当者だって気心が知れている。今ならなんとかなるかも。そう考えてしまった。
「わかった。三和物産の担当に連絡してみるから。可憐ちゃんはもう一度三和商事に見積もりを送ってくれる?」
「はい。一華さん、ありがとうございます」
うれしそうに駆けていく可憐ちゃん。
私はすぐに三和物産に電話をし、今日届いた郵送物を回収に行くと伝えた。
何年も一緒に仕事をしてきた担当者は、快く了解してくれ回収する事ができた。
ただ1つ気になったのは、郵送物が開封されてしまっていた事。
「会社に届いた時点ですべて中身を確認するので」と言われ仕方ないと思ったけれど、一抹の不安が残った。
***
それから10日後、事件が起きた。
「鈴木、ちょっと来て」
高田に呼ばれ、会議室に入った。
すでに小熊くんが座っていた。
「どうしたの?何かあった?」
張り詰めたような空気に、不安がよぎる。
「お前、三和物産の担当に何か言ったの?」
「ええ?」
それはどういう意味?
キョトンと見つめ返した。
「今日、三和物産に商談に行ったんです。今まで通りの金額で話をして見積もりをって話になったところで、単価を下げろって言い出したんです」
「えええ?」
「僕も最初は、新人だから足元を見られてるんだと突っぱねました。でも、こんな物を出してきたんですよ」
そう言って机に投げ出された紙。
それは、先日誤郵送してしまった見積もり書のコピー。
ああー、マズイ。
「三和商事は鈴木の担当だから、この見積もりはお前が作ったんだよな?」
「ああ、うん」
後は自分で話せというように、高田は黙った。
はあー、困った。
黙っているわけにはいかない。
でも・・・。
「チーフッ」
小熊くんが声を上げた。
「わかった、話すから」
私は姿勢を正し、2人を見た。
「実は10日ほど前に、見積書を謝って郵送してしまったの。三和商事宛ての物を三和物産に」
「それで?」
高田の声が冷たい。
「去年まで私が担当だったから相手の担当者もわかるし、直接連絡を取ってすぐに回収させてもらったんだけれど・・・」
「すでにコピーをとられていた」
「うん。ごめん」
完全に私のミスだ。
開封されていた時点で、こんな展開は予測しておくべきだった。
「お前が自分で発送したのか?」
「う、うん」
高田の目が見れなくて、視線を外した。
ピピピ。
電話を掛ける音。
「ああ、営業の高田です。萩本さんと川上さんに会議室まで来てもらってください」
ええ?
川上さんは事務の責任者。勤務年数も長いお局様で、可憐ちゃんの指導係でもある人。
すごく、マズイ展開だよね。
「高田課長・・・」
なんとか穏便に済ませられないのって目で訴えてみたけれど
「ダメだ」
声にならない声で、唇だけが動いた。
***
可憐ちゃんと川上さんが会議室に入り、
「萩本さん、三和物産の誤郵送について説明してもらえる?」
高田が口にした途端、可憐ちゃんの顔が青ざめた。
黙り込む可憐ちゃん。
「萩本さん、正直に話なさい」
川上さんに言われ、可憐ちゃんは声を詰まらせながら経緯を説明した。
川上さんの頬はピクピクと引きつり、高田は何も言わずに聞いていた。
ただ、可憐ちゃんの同期であり三和物産の担当でもある小熊くんは
「お前ふざけるなよ。こんな物見せられたら、こっちは仕事にならないんだよ。一体どうしてくれるんだっ」
感情にまかせて怒鳴っている。
いつもなら止めそうな高田も、止める気配がない。
「迷惑を掛けてすみません。これからは、郵送物の二重チェックを徹底します。本当に申し訳ありませんでした」
川上さんが立ち上がり高田に頭を下げた。
「いや、一番の問題は鈴木だと思うし。責任はこっちにもあるから」
川上さんと高田が大人の会話をしている間、私は消えてなくなりたい気持ちだった。
恥ずかしくて、情けない。新人でもない私が、みんなの足を引っ張っているなんて。
***
一通りの話が終わると、泣きはらした顔の可憐ちゃんと川上さんが会議室を出て行った。
「小熊、三和物産の見積もりを作り直してくれ。単価は三和商事に合わせていい」
「いいんですか?」
確かに、それでは利益が出ないはず。
「そのかわり、ロットを増やしてくれ」
「はい」
そうか、三和商事は古くからの取引先って事で単価が抑えられていただけではない。
一度の入荷数が多いから、薄利でも利益が出るようになっていたんだ。
もし同じ単価を望むなら、入荷数も増やせって交渉する気なのね。さすが。
「明日にでも俺が直接行くから、アポをとっておいてくれ」
「はい」
小熊くんも少し安心した表情で出て行った。
「さあ、後はお前だな」
「・・・すみません」
何を言われても、それ以外の言葉が出てこない。
「鈴木はいつになったら成長するのかなあ」
「・・・ごめんなさい」
「このまま隠し通せば、なかった事にできると思った?」
「・・・」
「それが本当に、萩本さんのためになるとでも?」
「・・・ごめん」
「ダメな物はダメだとはっきり言えよ」
「はい」
確かにそうだね。
きっと今、可憐ちゃんは川上さんにすごく怒られているんだと思う。
あの時私が正直に話していれば、小さなミスで終わったのに。
「お前の優しさは長所だと思うけれど、それじゃあ人は育たないぞ」
「・・・」
「後はこっちでする。部長にも俺が話すから」
「でも・・・」
悪いのは私なのに、このまま逃出すのは卑怯だ。
「ただし、しっかり反省してくれ」
高田はいつも冷静で、感情的になる事の少ない人だけれど、最近は叱られてばかりだ。
「なあ鈴木」
「はい」
「頼むから、これ以上何もしないでくれ」
溜息交じりに言われた一言がどんな意味を持つのか、私にもわかっている。
高田は自分の責任にして事を終わらせようとしている。
でもね、私だってプライドはあるしバカでもない。
今回のケース、いくらロットを増やしても損出は出る。
原因が人的ミスによるものならば、責任問題にだってなる。
それがわかっていて逃出すなんて、私にはできない。
***
その日の晩、私は帰宅した兄さんを待ち構えていた。
「何だ、珍しいな」
ふん。
今は嫌みにかまっていられない。
「三和物産の件聞いた?」
「ああ、夕方営業部長と高田課長の連名で報告書が上がってきていた。それがどうかしたのか?」
「それ、私のせいなの。高田は悪くないのよ」
「ふーん」
不思議そうに私の顔を見ている。
「かなり大きな損失だし、うちの数字がもれてしまったってのも気に入らなかったが、お前だったのか」
うん。
「ごめんなさい」
「随分しおらしいなあ」
だって、私のせいで高田が叱られるのはイヤだから。
なんて口には出さない。
「問題になりそう?」
「原因が原因だから、問題にする役員もいるかもしれないな」
「そう」
それは、困った。
「兄さん、なんとか穏便に済ませられない?」
「・・・本気で言ってるか?」
「ええ」
いつも自分の素性を隠したいって言ってるくせに、困ったら兄さんに頼ろうなんて矛盾しているのはわかっている。
でも、今は他に手がない。
「いいだろう、なんとかしてやろう。でも条件がある」
「なに?」
何かとてもイヤな予感がする。
ニタッと笑った兄さん。とっても意地悪な顔。
「この間のお見合い、すすめろ」
「ええ?」
「曖昧なままなんだろ?」
「うん。まあ」
私も白川さんもお断りする事なく、かといってまた会う約束もなく今日まで来てしまった。
私としては先方から断って欲しいんだけれど。
「連絡しておくから、近いうちに会え。それが条件だ」
「それは・・・」
できれば避けたい交換条件。
「今回の件、下手すると高田課長の異動や転勤の話が出るかもしれないぞ。あいつも営業が長いからなあ」
兄さんが上手に脅してくる。
「ま、待って」
高田がいなくなるのはイヤだ。それも私のせいでなんて・・・絶対にイヤ。
「どうする?」
「わかった」
「逃げるなよ」
「わかっているわよ」
***
兄さんが尽力したせいか、三和物産の件はすんなり収まった。
誰も処分されることもなく、話題からも消えていった。
ああこれで終わった。
やっと安心したとき、
「ちょっと来い」昼休みになった途端腕をとられ、強引に連れて行かれた屋上。
目の前に、怖い顔をした高田がいた。
「何?どうしたの?」
「白々しい。自分の胸に手を当ててよく考えろ」
「高田?」
こんなに怒った姿は初めてかも。
「俺は、これ以上何もするなって言ったよな」
「う、うん。私は何も・・・」
兄さんがバラすはずないんだから、高田はただ怪しんでいるだけのはず。
知らないで通せばなんとかなる。
「本当に、何も知らないのか?」
「うん」
「嘘をつかれたら、信用できなくなるし。俺たちの関係も終わるんだぞ」
俺たちの関係って・・・恋人でもあるまいし。
「もう一度聞く、お前何をした?」
「何も・・・して・・ない」
ギロッと、高田の目が鋭くなった。
もしかして気づかれた?そんなはずはない。
でも、確証もなくこんな怒り方をする人じゃない。
「お前がそんな態度なら、俺もそのつもりで付き合うぞ」
「高田・・・」
嘘をついているのも、言いつけを守らなかったのも私。そんなことは百も承知。
でも、私のせいで誰かが処分されるなんて我慢できなかった。
「最後だ。お前、何をした?」
「私は何も・・・」
自分の声が震えているのがわかった。
親指をギュッと握りしめる。
そうしていなければ、泣きそうだった。
「もういい」
高田はプイと背を向けた。
「しばらく、仕事以外では話しかけるな」
最後まで怒ったまま、高田は消えていった。
これって絶交宣言?
この日から、高田の態度は冷たくなった。
可憐ちゃんが心配してしまうくらい、あからさまに嫌われてしまった。