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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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大正九年。
あの綴りの背の墨の字が、瞼の裏に貼りついて離れなかった。
本郷から本所へ回り、父の枕元で竹皮の包みを開いた。握り飯は、もう冷めていた。
「侯爵様が、お父さんの分もって」
父は、震える手で一つ取り、ゆっくりと噛んだ。
「……塩が、ちょうどいい」
それから、私の顔をじっと見た。
「栞。おまえ、何か抱えてる顔をしてる」
「何も」
「活字は嘘をつかん。嘘をつくのは、組む人間だ」
父の口癖だった。私は笑ってごまかして、急須に湯を注いだ。
父は、それ以上訊かなかった。二つ目の握り飯を手に取って、しげしげと眺めた。形が少しいびつで、海苔の巻き方が下手だった。
「侯爵様が、ご自分で握ったのか」
「はい」
「……そうか。大事にしてもらってるんだな」
私は、急須を持つ手を止めた。
大事にされている。その人に、私は今朝、嘘をついて出てきた。そして、その人が診せるなと言った医者のところへ行ってきた。
路地の向こうで、豆腐屋の喇叭が鳴っていた。
*
一週間が過ぎた。
「頭痛は、治ったか」
朝の厨房で、侯爵様が訊いた。鍋の中で、豆腐と葱の味噌汁が煮えている。
「はい。お薬が、よく効いて」
言ってから、しまったと思った。
侯爵様の手が、杓子を持ったまま止まった。
「薬」
「……本所の家の近くの、薬屋で。頭痛の粉薬を」
侯爵様は、しばらく鍋の湯気を見ていた。
「そうか」
味噌汁の椀が、私の前に置かれた。
いつもと同じ、温かい椀だった。それなのに、私はその朝、味噌汁の味がよくわからなかった。
「今日も、本所へ参ります」
侯爵様は、何も訊かなかった。
訊かれないことに、また一つ、救われた。救われるたびに、帯の中の嘘が、一枚ずつ重くなっていく。
本郷へ向かう市電の中で、私は吊り革につかまって、窓の外を流れる銀杏並木を見ていた。
葉の先が、少しずつ黄色くなりはじめている。
あの綴りを、見たい。
見て、何がわかるのかは、わからない。けれど、小夜子様の日記には十二月の往診があり、宇佐美先生の口は、流行性感冒としか言わなかった。その二つの間に何があるのか、確かめられるのは、紙だけだ。
問題は、どうやって見るか、だった。患者が医者の書棚に手を伸ばすわけにはいかない。
電車が本郷三丁目の停留所に着いても、私はまだ、何の策も持っていなかった。
*
宇佐美医院の待合室は、前の週より空いていた。
受付の小窓の向こうで、あの若い看護婦が、薬袋に名前を書いていた。私の顔を見ると、ぱっと笑った。
「久遠寺の奥様。お待ちしておりました」
それから、声をひそめた。
「先生、この一週間、なんだかお疲れで。毎晩遅くまで、お一人で診察室にこもっていらっしゃるんです。古い綴りなんか引っぱり出して」
「古い綴り」
「ええ。お掃除のときに、机の上にあったんです。先生、触るなって、珍しく怖いお顔で」
看護婦は、ぺろりと舌を出して、口に指を当てた。
診察室に通されると、宇佐美先生は、窓際の椅子から立ち上がって私を迎えた。
「お加減は、いかがです」
「おかげさまで。お薬が、よく効きました」
「それは何より」
先生は、いつものように口髭の下で笑った。けれど、目の下に、うっすらと隈が浮いている。蝶ネクタイが、ほんの少し曲がっていた。
私は、患者の椅子に腰を下ろした。
大きな樫の机を挟んで、先生と向かい合う形になる。
先生の肩越しに、奥の書棚が見えた。
年ごとのカルテの綴りが、背を揃えて並んでいる。大正七年。大正八年。
その隣が、空いていた。
一冊分の隙間が、黒い穴のように開いている。
私は、目だけを動かして、机の上を見た。
先生の右肘の脇に、新聞が一部、無造作に置かれていた。その下から、厚い綴りの角が、はみ出している。
扉が、叩かれた。
「先生、お電話です。小石川の、先日の急患のお宅から」
看護婦の声だった。
先生は、舌打ちを堪えるような顔をした。
「すぐ戻ります。奥様、少しお待ちを」
立ち上がる拍子に、先生の袖が、新聞の端を引っかけた。新聞が机の向こうへずれて、床に落ちる。
先生は気づかないまま、診察室を出ていった。扉が、半分開いたまま揺れていた。
*
机の上に、綴りが開いたままになっていた。
先生の側に向けて置かれている。私の側から見れば、字はすべて、逆さまだった。
私は、椅子から動かなかった。
動く必要がなかった。
活字は、裏返しの逆さまに彫られている。植字工は、組み上げた版を、逆さのまま読んで校正する。
父の店の活字棚の間で育った私には、逆さの字も、裏返しの字も、普通の字と同じに読める。
開かれていたのは、左右二枚。右の頁の上の欄に、ペン字で名前があった。
「久遠寺小夜子 二十一歳 麻布区鳥居坂町」
息を、止めた。
「一月十日 発熱 三十八度五分 咳嗽 頭痛 流行性感冒ト診ス」
「一月十二日 熱下ラズ 食欲ナシ 安静ヲ命ズ」
「一月十四日 肺炎ノ兆アリ」
「一月十八日 衰弱著シ」
「一月二十日 午前四時 死亡 流行性感冒ニ因ル肺炎」
左の頁には、処方の欄があった。解熱の散薬。咳止めの水薬。どれも、一月十日の日付で始まっている。
それで、全部だった。
十二月の往診は、どこにもなかった。
やや子の宿れること、たしかなりと知る。小夜子様の日記にあった十二月三日のお見立ても、十日に賜った薬の葡萄酒も、一行も書かれていない。
懐妊、の二文字すら、なかった。
身籠った人を診て、それをカルテに書かない医者がいるだろうか。
それに、字の調子が、揃いすぎていた。
一月十日から二十日まで、十日分の記録が、同じインクの濃さで、同じペン先の太さで、同じ傾きで並んでいる。
毎日、別々の日に書けば、インクの減り方も、筆の勢いも、少しずつ違ってくるはずだ。父の店の受注帳でさえ、日ごとに字の色が違った。
これは、一度に書いたのだ。
十日分を、ひと息に。
私は、頁の端へ目を移した。
逆さまの頁の、私から見て左上の隅。紙の欄外。
豆粒ほどの、二つの活字。
「九・三」
先週、私の名前を書きこんだ新しいカルテと、同じ刷了表示だった。
大正九年三月に刷られた紙。
そこに、大正九年一月の記録が書かれている。
一月には、まだこの世に存在しなかった紙に。
書き直したのだ。
小夜子様が亡くなったあとで。少なくとも、ふた月以上たってから。
元のカルテを捨てて、新しい紙に、十日分の嘘を、ひと息に。
藤波の、下にやどれる、小さき芽の。
小夜子様の鉛筆の字が、目の前の几帳面なペン字に重なった。
あの人が、春を待ちながら腹の子に歌を聞かせていたことを、この紙は何一つ覚えていない。覚えていないように、作り直されている。
人が一人、子と一緒に死んだのに。紙の上では、ただの風邪をこじらせた若い奥様が、十日で静かに息を引き取ったことになっている。
*
膝の上で握った手が、汗ばんでいた。
今すぐ、この頁を持って帰りたかった。けれど、持ち出せば、それは盗みだ。この人に、私が見たことを教えるのと同じだ。
目で覚える。
名前の書き方。日付の並び。インクの色。刷了表示の位置。全部、頭の中の活字棚に、一本ずつ立てていく。
廊下に、靴音が戻ってきた。
私は、目を上げようとした。
遅かった。
半開きの扉の間に、宇佐美先生が立っていた。
片手を把手にかけたまま、動かない。
その目が、私の顔から、私の目の先へ、ゆっくりと移っていく。机の上の、開いたままの綴りへ。床に落ちた新聞へ。
口髭の下の笑みが、そのままの形で、凍りついた。
先生は、後ろ手に、静かに扉を閉めた。
かちり、と掛け金の下りる音がした。
扉の向こうで、待合室の柱時計が、のんびりと時を打ちはじめた。看護婦が誰かの名前を呼ぶ声がする。
壁一枚隔てた向こうは、いつもと同じ昼下がりだった。
こちら側だけが、違っていた。
「奥様。今、何を御覧になりました」
コメント
1件
えっ…最後の「今、何を御覧になりました」のところ、心臓止まるかと思ったんですけど…!!😱💦 栞ちゃんが逆さまの字を読めるっていう伏線、めっちゃ研ぎ澄まされた展開だった…!刷了表示で「書かれた日付」が偽装って判明した瞬間、もう背筋がゾッとしたよ。カルテの中の「九・三」の活字が告げてる真実、怖すぎるよ…。 しかも宇佐美先生が静かに扉閉めて掛け金下ろすとこ、あの空気感がヤバい。この先どうなっちゃうの…続きが気になって今夜眠れない😭💕🔥