テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
掛け金の下りた診察室で、宇佐美先生の顔だけが、白く浮いて見えた。
逃げ道は、背中の窓しかない。
私は、膝の上の手をほどいた。
それから、首をかしげて、困ったように笑ってみせた。
「新聞が、落ちましたので」
「……新聞」
「拾って差し上げようかと思ったのですけれど、お医者様のお机の物に勝手に触れては、叱られるかしらと。迷っておりました」
私は立ち上がり、床の新聞を拾った。
そして、それを机の上の開いた綴りの上に、ふわりと載せた。逆さまの字が、新聞の下に消える。
「先生。大事な綴りを出しっぱなしになさって。看護婦さんに叱られますわ」
宇佐美先生は、しばらく私の顔を見ていた。
口髭の下の唇が、ゆっくりと、いつもの形に戻っていく。
「……いや、これは、うっかりした」
先生は、新聞ごと綴りを閉じて、引き出しにしまった。鍵を掛ける音が、やけに大きく響いた。
「頭痛は、もうすっかり。今日は、そのお礼に伺っただけですから」
私は、深く頭を下げた。
「もう、伺わなくても大丈夫だと思います」
掛け金を外したのは、先生だった。
扉を開け、私を廊下へ通す。その横を通り過ぎるとき、低い声が耳を掠めた。
「藤堂様の夜会では、ずいぶんと、お目がよろしかった」
私は、振り向かなかった。
待合室を抜け、硝子戸を押して、通りへ出た。秋の日差しが、目に痛いほど明るかった。
停留所まで、走らずに歩くのが、精一杯だった。
*
屋敷に戻ったのは、日が暮れてからだった。
洋館の玄関を入ると、廊下の奥の書斎の扉が、細く開いていた。電灯の光が、床に一筋、伸びている。
「入れ」
中から、声がした。
私の足音を、聞き分けているのだ。
侯爵様は、書斎の机に向かっていた。黒い三つ揃いのチョッキに、白いシャツの袖をまくっている。
私が扉を閉めると、ペンを置いた。
「本所の父上は、お変わりなかったか」
「……旦那様」
「先週、宇佐美から電話があった」
侯爵様は、平らな声で言った。
「奥様がお見えになりました。どうぞお大事に、と。わざわざ、私に」
足元の床が、ふっと遠くなった気がした。
侯爵様は、続けた。
「今日の昼過ぎにも、かかってきた。奥様は、もうこちらへはお見えにならないそうです、と」
「二度とも、真柴が電話室で取って、私に取り次いだ。……宇佐美の声が、震えていたそうだ」
真柴さんの穏やかな声で、それが侯爵様に伝えられるところを、私は思い浮かべた。
奥様が、本郷の宇佐美医院へ。
この家のことは、何でもあの人のところへ流れていく。
二人だけの秘密ということにいたしましょう。
あの人は、そう言って笑った。そして、その日のうちに、この人に電話をかけたのだ。
「ご存じ、だったのですね」
「ああ」
「なぜ、何も仰らなかったのですか」
侯爵様は、少しのあいだ黙っていた。
「君が、自分で言うのを待っていた」
*
私は、全部話した。
宇佐美先生の診察室で見た、新しいカルテの刷了表示。九・三。
今日、机の上に開かれていた、小夜子様のカルテ。一月十日から二十日まで、十日分の記録が、同じインクで、ひと息に書かれていたこと。十二月の往診も、懐妊も、葡萄酒も、一行もなかったこと。
そして、その紙の隅にも、九・三。
「大正九年三月に刷った紙に、一月の記録が書かれています。小夜子様が亡くなって、ふた月以上たってから、書き直したのです」
侯爵様は、一度も口を挟まなかった。
最後まで聞き終えると、椅子から立ち上がった。
机の右の引き出しに、小さな鍵を差しこむ。
引き出しの中には、書類の束と、封筒がいくつか重なっていた。侯爵様は、その一番上の白い封筒を、手早く脇へ寄せた。
寄せる手の陰で、封筒の表の墨の字が、一瞬だけ見えた。
最後の一字だけ。状、と読めた。
侯爵様は、その下から、折り畳んだ一枚の紙を抜き出した。
「千鶴が死んだあと、藤の間から瓶を一本、持ち出した」
紙が、机の上に広げられた。
「夜中だった。階段を下りるとき、廊下の角を、寝間着の裾が逃げていくのが見えた。……百合絵だろう。あれから一月ほど、私の顔を見るたびに目を逸らしていた」
私は、顔を上げた。
百合絵様から聞いた話を、私はこの人に一言も話していない。それでも、この人は、私が藤の間で何を聞いたのか、もうわかっているのだ。
訊く前に、侯爵様の指が、紙の上の一行を押さえた。
罫の入った用箋の上の端に、帝国大学の名が刷られていた。その下に、ペン字が並ぶ。
「検体 薬用葡萄酒残液 瓶一本 右ヲ検スルニ 亜砒酸ノ含有ヲ認ム」
日付は、大正十年九月。
千鶴さんが亡くなった、翌月だった。
「留学のときの友人に、内密に調べさせた」
侯爵様の声は、変わらず平らだった。
「妻が二人、続けて死んだ。一人目は病、二人目は事故。偶然が二つ重なっただけだと、皆が言った」
指が、亜砒酸、という字の上で、止まった。
「二つ目は、偶然とは呼ばない」
私は、紙から目を離せなかった。
葡萄酒、苦し。
小夜子様の鉛筆の字が、この几帳面なペン字の上に、重なって見えた。
「警察には」
「出さなかった」
侯爵様は、紙を見下ろしたまま言った。
「妻殺しと呼ばれている男が、自分で毒の証拠を持ちこむ。警察も、世間も、どう読むと思う」
答えられなかった。
「それに、瓶は、この家の中で毒を入れられた。外から来た者には、できない」
侯爵様は、そこで初めて、私の顔を見た。
「誰がやったのか、わからない。母か。使用人の誰かか。出入りの誰かか。わからないまま騒げば、その者は逃げる。次は、もっとうまくやる」
だから。
この家では何も食べるな。私が用意したもの以外は。
婚礼の夜の、あの言葉の意味が、ようやく、すとんと胸の底に落ちた。
*
「一年あまりだ」
侯爵様は、紙を折り畳みながら言った。
「この家の中で、誰が何をしたのか。一人で探した。何も見つからなかった。私には、紙の嘘は読めない」
折り畳んだ紙が、机の上に置かれた。
侯爵様は、その紙の上に、手袋を外した手を載せた。
「君には、読める」
灰色がかった黒い目が、まっすぐに私を見ていた。
「共に、探してくれるか」
私は、うなずいた。
声は出なかった。うなずくことしか、できなかった。
侯爵様は、チョッキの隠しから、小さな鍵を一本取り出した。洋館の厨房の鍵と、同じ形をしていた。
「合鍵だ。作らせておいた」
私の手のひらに、真鍮の冷たい重みが載せられた。
「私がいないときも、あそこの水と火なら、使っていい。あそこは、この家で、毒の入らないただ一つの場所だ」
侯爵様は、そこで少し言葉を探すように、目を伏せた。
「……君と、私の場所だ」
私は、鍵を握りしめた。
夫婦で同じものを追う相棒に、私はこの夜、なったのだと思う。
「宇佐美には、私から書面で、小夜子の診療録を渡すよう求める」
侯爵様は、机の上の暦をめくった。
「来月の十一日、上野の公会堂で、華族婦人会の慈善診療会がある。宇佐美は奉仕医の筆頭で、表彰を受けることになっている。母上が、婦人会の世話役だ」
「その場で、受け取るのですか」
「あの男は、人の目のあるところでは断らない。断れない男だ」
私は、侯爵様の横顔を見た。
この人は、宇佐美先生に冷たくしながら、ずっとこの人を見ていたのだ。
「それまでに、君は、紙の裏を取れ。その九・三とやらが、本当に三月に刷られたものだと、言い逃れのできない形で」
「……はい」
父の店の、帳面の頁が、頭に浮かんでいた。刷った仕事は、刷った店に必ず残る。
けれど、喉の奥で、言えない言葉が一つ、つかえていた。
私は、千鶴さんの友達です。
千鶴さんの手紙を持って、あなたを疑って、この家に来ました。
今なら言える。今言わなければ、もう言えなくなる。
そう思うのに、唇が動かなかった。この人がようやく開いてくれた扉を、自分の手で閉めてしまう気がした。
侯爵様は、引き出しに鍵を掛けた。
それから、私の握りしめた手の上に、自分の手を重ねた。
大きな手だった。今夜は、温かかった。
「君だけは、守る。今度こそ」
その言葉が、嘘をついている私の胸に、まっすぐ刺さった。
コメント
1件
読んだよお〜〜!!😭💕🌈 第36話、重くて甘くて切なくて最高すぎた!! 宇佐美先生の診察室の緊張感、そして帰ってきてからの侯爵様との対峙…カルテに残った「九・三」の謎、葡萄酒に仕込まれた亜砒酸、そして「共に探してくれるか」って手を差し伸べるところが胸熱すぎる…🔥💔 「君と私の場所」とかずるいって…!!最後の「君だけは守る、今度こそ」で完全にやられたよ…😭✨ 嘘をついてる罪悪感抱えながらもう共犯者になってる千代の揺れもエモいっす…!