テラーノベル
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頭の中にモヤがかかっているみたいに、掴めそうで掴めない記憶の断片を集めようと試みる。
けれど、集中できない。
「やっと、名前を呼んでくれましたね、ミア……愛しています……だから、これを握ってくれますか?」
「な⁉︎」
見下ろすように跨っていたエリオット様が、ごろんと私の横に寝そべる。
私を横向きにして背後から抱きしめると、手のひらにペンを握らせてくる。
エリオット様がペンを握った私の手を掴むと、婚姻届に記入させようとする。
「だめです!」
こんな体勢で書けませんから!
油断もすきもありませんね、というかシーツに貼り付けているなんてどうかしていますよ
破れますからね。
こんな攻防をいったいどれくらい続けるつもりなのだろう。
どうしてこうなってしまったのだろうと、あの時のことが蘇る。
そう、あれは━━。
◇ ◇ ◇
「エディ、やっぱり明日の朝に出発しない?」
「チッ、ミア、俺が朝弱いの知ってるだろ?さぁ、さっさと行くぞ」
(今、舌打ちした……?)
「ったく、なんで俺が!」
「ごめんね、エディ」
「ごちゃごちゃうるさいから、さっと乗れ」
「あ、う、うん」
「なんで俺がお前なんかと一緒に出かけないといけないんだ」と、何度も悪態をつかれていた。
この頃の私は、嫌われるのが怖くて言いたいことも言えなかった。
だから、エディの機嫌を取ろうと必死だった。
エスコートされることもなく、一人で馬車へと乗り込むと向かい側に腰を下ろした。
「わっ!」
きちんと座り終える前に馬車は動き出して、バランスを崩してよろめいたけれど、
エディは見向きもしなかった。
エディはモデア男爵家の息子だった。男爵と言えども、裕福ではなく、私たち庶民との距離も近かった。
両親は男爵家管轄の小麦畑で働いていた。私も手伝えることはなんでもした。
そのせいで、日に焼けて肌荒れもして、近所の子達からからかわれることも多かった。
そんな時、「ミアはいつもよく働くね。ミア達のおかげで小麦も僕も、すごく元気になれる。ミアは誰よりも綺麗な女の子だよ」と、励ましてくれる男の子がいた。
綺麗だなんて言われたことのなかった私は、舞い上がってしまい、嬉しいやら恥ずかしいやらで、男の子の名前を聞いたのに、吹き飛んでしまった。
かろうじて、「エ」がついたことだけは覚えていた。
立ち去る後ろ姿を見送っていると、男爵が馬車に案内していたことを覚えている。
モデア男爵は他にも所有している土地がある。男爵は自ら出向いて視察するので忙しく、それから男爵の姿を見る機会はなかった。
同時に、あの男の子も見かけなくなった。
たぶん、モデア男爵の身内なので、一緒に領地を見回っているのだろうと思った。もう一度きちんと会ってお礼が言いたいし、寂しくもあった。
それから数年後、両親が亡くなった。
モデア男爵は、長年勤めてくれた両親への感謝とお礼の気持ちも込めて、息子のエディの婚約者にならないかと打診を持ちかけてくれた。
身分のことは気にしなくていいからと。
ミアなら小麦畑にも詳しいし、二人で守ってくれたら嬉しいと。
恐縮したけれど、断る勇気もなく、お受けすることにした。
断る勇気がなかっただけではない。
男爵には三人子供がいると聞いている。もしかしたら、婚約者は、あの時庇ってくれた男の子かもしれないと、淡い期待があったからというのもある。
そして、顔合わせの日━━私の淡い初恋の思い出は、木っ端微塵に崩れ去った。
「お前が婚約者?━━貧相だな」
上から下まで舐め回すように見た後の一声がこれだった。
とてもあの頃の男の子とは思えなかった。
けれど、他の兄弟の名前には「エ」がつかないので、おそらくあの時の男の子はエディなのだろう。認めたくないけれど……。
父親が決めたから仕方なく結婚してやると、あからさまに横柄な態度に幻滅した。
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