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#ミニ知識
なつほ
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太宰はやればできる子なんだよ(何を当たり前のことを言っているのかしら)
午後の陽光が、武装探偵社の大きな窓から遠慮なく差し込み、埃の粒子が光の筋となって踊っている。
いつもなら、ソファで寝転がって健康に良い入水法を検索しているか、あるいは国木田の万年筆を隠してその怒鳴り声を楽しんでいるはずの太宰が、今日は珍しく、自分のデスクに座って大人しくペンを動かしていた。
「……太宰。貴様、熱でもあるのか」
隣のデスクで、分厚い手帳を片手に電話をかけていた国木田が、受話器を置くなり不審げな声を上げた。
「おや、失礼だね。人がせっかく、この腐敗した社会の一員として真面目に労働に従事しているというのに。私はいつだって、探偵社の屋台骨を支えるつもりで仕事をしているよ」
「その屋台骨が、白蟻に食い荒らされたような顔で言うな。……まあいい。その調子で、溜まっていた先週分の経費報告も終わらせろ」
「あァ、それは無理。それだけは、私の繊細な指先が拒絶反応を起こしているんだ。見てごらん、ペンを持つだけでこんなに震えているよ」
太宰は、包帯が巻かれた細い右手を大袈裟にぷるぷると震わせてみせた。その仕草には一切の悲壮感はなく、ただただ「やりたくない」という強固な意志だけが宿っている。
彼女が座っている椅子からは、焦茶色のゆるふわな長い髪が背もたれを伝ってさらりと流れ落ちている。その髪を、背後を通りかかった与謝野が、通りすがりに指先で梳いた。
「いいじゃないか、太宰。国木田の小言を聞くよりは、数字と睨めっこしている方がまだ健康的だよ。あんた、さっき鏡花と甘いものを食べていただろう? 血糖値が上がっているうちに、その無駄に回る頭を仕事に使っちまいな」
「与謝野先生まで……。あァ、この探偵社は私を労働の奴隷として使い潰す気だね。哀れな太宰治は、いつか書類の山に埋もれて、静かに息を引き取るんだ……」
そう言いながらも、太宰の左手は既に、次の調査資料をめくっていた。
彼女は、自分がどれほど周囲の視線を集めているかということに、驚くほど無関心だった。窓際の席で、頬杖をつきながら、琥珀色の瞳を書類の文字の上に滑らせる。その瞳に宿る知性は、時折、ゾッとするほど鋭く冷徹な光を放つが、次の瞬間にはまた、いつもの掴みどころのない霧のような眼差しに戻ってしまう。
彼女にとって、自分の肉体が女性であることも、それが世間一般でどう評価されるかも、単なる「設定」の一つに過ぎない。美しさを鼻にかけるようなナルシシズムの欠片もなく、ただ、そこに在る身体を事務的に運用している。だからこそ、その無防備な仕草や、何気ない動作が、かえって周囲に奇妙な緊張感と、それ以上の惹きつける力を与えていた。
「太宰さん、その……、インク、切れてます」
向かいのデスクから、中島敦が恐る恐る指摘した。
「おや、本当だ。道理で、いくら呪いの言葉を書き連ねても白紙のままなわけだね」
「呪いの言葉を書かないでください。……これ、僕の予備のペンです。使ってください」
「ありがとう、敦君。君は本当に、この冷酷なオフィスに咲いた一輪のひまわりだね。今度、そのひまわりの種を全部食べてあげるよ」
「食べないでください! 怖いですよ!」
そんな騒がしい日常のやり取りを繰り返しながら、太宰のペンは、不思議と淀みなく進んでいく。
彼女は、効率という言葉を嫌悪しているように見えて、その実、誰よりも最適解を導き出すのが早い。国木田が三時間かけて読み解くような暗号紛いの報告書も、彼女は鼻歌を歌いながら、ものの数分でその本質を見抜いてしまう。
それを「真面目にやっている」と呼んでいいのかは疑問だが、少なくとも、今日の彼女は、その天才的な頭脳を「サボるための策」ではなく、純粋な「事務処理」に回していた。
不意に、太宰のスマートフォンのバイブ音が、机の上で小さく、しかし執拗に跳ねた。
彼女はペンを置くことなく、視線だけを画面に向けた。
『おい、さっきの返信はどうした。無視してんじゃねえぞ』
送り主は、言うまでもなく中也だ。
太宰は、わずかに唇の端を持ち上げた。それは、恋人に対する慈しみというよりは、新しい玩具を手に入れた子供のような、あるいは、長年飼い慣らした猛獣の癖を熟知している飼い主のような、そんな笑みだった。
「国木田君、ちょっと休憩。私の大事な『犬』が、寂しくて鳴いているんだ」
「仕事中に私用携帯をいじるなと言っているだろう! あと、誰が犬だ!」
「え、中也だよ。彼、放っておくとすぐにヨコハマのどこかを破壊しちゃうからね。公共の平和を守るためにも、私が一言、躾をしてあげないといけないのさ」
太宰は、細い指先を踊らせて、短い返信を打った。
『今、国木田君に監禁されて強制労働させられてるから、助けに来るなら今だよ。もちろん、派手な手土産を持ってね』
送信ボタンを押すと同時、再びペンを握る。
「……送ったのか。本当に、中原氏がここに来たらどうするんだ」
谷崎が、青い顔をして尋ねた。
「大丈夫だよ、谷崎君。彼は今、別の抗争の火消しで忙しいはずだからね。来られないと分かっているからこそ、こうして盛大に煽るのが楽しいんじゃないか」
太宰は、琥珀色の瞳を悪戯っぽく輝かせた。
彼女は、自分の「女」という属性を、恋愛の道具として使うことには興味がない。しかし、中也という男を、いかに効率よく、いかに楽しく振り回すかという点において、その属性が時に有効に働くことは理解していた。例えば、わざと弱々しい声を出すとか、逆に、いつもより少しだけ突き放した態度を取るとか。
けれど、そんな小細工を弄さずとも、彼らは腐れ縁という名の下に、既に逃げ場のない深い場所で繋がっている。
「太宰さん、また手が止まってますよ。あと半分です」
鏡花が、太宰の横に立ってじっと書類を見つめていた。
「あァ、鏡花ちゃん。君はいつの間に、国木田君の秘書になったんだい? 私の味方はこの探偵社にはいないのかい?」
「……終わったら、あのお店の、新しいお茶、淹れる」
「……。よし、死ぬ気で終わらせよう。鏡花ちゃんに淹れてもらうお茶のためなら、この一命を捧げても惜しくないね」
太宰は再び、猛然とペンを走らせ始めた。
彼女が本気を出せば、事務作業などというものは、単なる指先の運動に過ぎない。
周囲の喧騒が、彼女の集中力という膜の外側に追いやられていく。
国木田の怒鳴り声、敦の慌てふためく足音、ナオミの楽しげな笑い声。
それらの音が、太宰の耳には、どこか遠くの国で鳴っている音楽のように聞こえていた。
彼女は、時折、ふと窓の外を眺める。
夕暮れが近づき、ヨコハマの空が紫とオレンジのグラデーションに染まり始めている。
女性の体躯となったことで、以前よりも少しだけ、世界の色彩が鮮やかに見えるような気がすることがあった。それがホルモンの影響なのか、それとも、単なる気の迷いなのかは分からない。
ただ、こうしてデスクに座り、包帯で守られた自分を抱えながら、終わりのない日常を消費していくこと。
それが、かつての暗い海に沈んでいた頃に比べれば、いくらか「マシ」な退屈であることだけは、認めざるを得なかった。
「……終わったよ。国木田君、検収したまえ」
時計の針が午後五時を回る直前。
太宰は、最後の一枚を放り投げるようにして、デスクに置いた。
国木田が、信じられないという顔で書類を手に取る。
「……、完璧だ。……太宰、貴様、本当に明日から槍でも降るんじゃないか?」
「失礼なことを言うねえ。私はいつだって、やればできる子なんだよ。……さあ、鏡花ちゃん。約束のお茶を、私に、至急! 喉が渇いて、このままじゃ干からびて入水する気力もなくなっちゃう!」
太宰は、椅子をくるりと回転させて、鏡花の方へ両手を広げた。
その仕草は、どこまでも軽やかで、先ほどまで書類の山と格闘していた影など微塵も感じさせない。
彼女は、鏡花が丁寧に淹れてくれたお茶を啜りながら、再びスマートフォンをチェックした。
『手土産だと? 貴様の葬式用の花でも買ってってやろうか。……あと、三十分で着く。下りてこい』
中也からの、二度目の返信。
太宰は、ふっと満足げに目を細めた。
「さて。じゃあ、私は一足お先に失礼しようかな。国木田君、残りの残業は君に任せたよ」
「おい! 自分の後片付けくらいしていけ!」
「嫌だよ、私の後片付けは、世の中の全ての美徳に反するからね。じゃあね、諸君。また明日、死に損なっていれば会おうじゃないか」
太宰は、トレンチコートをひらりと翻し、軽やかな足取りで探偵社の扉へと向かった。
夕焼けに染まる彼女の背中を見送りながら、敦はふと、不思議な感覚に陥った。
彼女が女性であれ、男性であれ、太宰治という人間が纏う、あの、どうしようもなく人を惹きつけ、同時に、どうしようもなく不安にさせる孤独。
それは、どんな姿に変わろうとも、決して消えることはないのだと。
探偵社の扉が閉まる。
静かになった社内で、国木田が溜息をつき、再びペンを走らせ始めた。
「……全く。あの女がいるだけで、仕事の効率が上がるのか下がるのか、さっぱり分からん」
その言葉に、与謝野が笑いながら答えた。
「いいじゃないか。退屈な日常には、あれくらいの毒が丁度いいのさ」
ヨコハマの街に、夜の帳が下りようとしていた。
ビルの下では、黒い高級車が、一台。
そこに乗り込む、砂色のコートを着た、美しい、しかし誰よりも厄介な女。
彼女たちの夜が、また新しく始まろうとしていた。