テラーノベル
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武装探偵社の事務所に、規則正しい時計の針の音だけが響いている。 つい先ほどまで、ここには人の気配があった。国木田が「太宰、たまには自分の尻くらい自分で拭け」と呆れ顔でファイルを叩きつけ、敦や鏡花が「お先に失礼します」と申し訳なさそうに会釈をして帰っていった。
最後に残った与謝野が、部屋の隅で伸びをしながら「あんまり根を詰めると、肌に悪いよ」と冗談めかして去ったあと、社内は完全な真空状態のような静寂に包まれた。 太宰は一人、自席で淡々とキーボードを叩いていた。 窓の外は、すでにヨコハマの喧騒が遠のき、深夜特有の冷たい闇が窓ガラスを伝って室内に浸食してきている。いつもなら、誰よりも早くサボる算段を立てるはずの彼女が、なぜ今夜に限って居残っているのか。それは彼女自身にも明確な説明はつかなかった。ただ、騒がしい日常の役割をすべて脱ぎ捨てたあとの、この無機質な空間が、今の自分には心地よかっただけかもしれない。
モニターの青白い光が、太宰の焦茶色のゆるふわな長い髪を青く縁取っている。彼女は琥珀色の瞳を細め、時折、包帯に守られた手首を回して、凝り固まった関節を鳴らした。画面の中では、複雑な事件の報告書が完璧な体裁で埋まっていく。彼女の明晰な頭脳にとって、事務作業そのものは苦痛ではない。むしろ、何も考えずに指先を動かせるこの時間は、脳内の複雑怪奇な回路を一時的に冷却するのに丁度よかった。
カチ、カチ、と小気味よい音が続く。 国木田なら三日はかかるであろう膨大なデータ照合も、彼女の手に掛かれば、パズルを組み立てるような遊戯に過ぎない。明日、出社してきた国木田が、机の上に置かれたこの「完璧な成果物」を見て、どんな顔をするだろう。驚きで眼鏡をずらすのか、あるいは「何か企んでいるな」と疑い深くこちらを睨むのか。その光景を想像すると、彼女の薄い唇に、皮肉ではない、ほんのわずかな、子供じみた悪戯心が浮かんだ。 最後の保存ボタンを押し、バックアップを確認する。すべての業務を終えたとき、彼女の体からは、張り詰めていた糸がふっと切れるような脱力感が襲ってきた。
「……さて。じゃあ、ぼちぼち帰るとしようかな」
独り言が、誰もいない事務所に溶けて消える。椅子を引こうとしたその瞬間、猛烈な睡魔が彼女を捕らえた。 朝に見た、あの去っていく背中の悪夢。それから一日中、探偵社の「太宰治」として軽やかに、飄々と振る舞い続けた反動だろうか。精神的な摩耗が、肉体的な疲労となって一気に押し寄せてきた。 ほんの少しだけ。 数分だけ目を閉じれば、きっとこの重たい体も軽くなる。 太宰は自分にそう言い聞かせ、デスクの上に両腕を重ねた。その上に、重たい頭を預ける。包帯の巻かれた首筋が、腕の感触をひんやりと受け止めた。 窓の外から聞こえる遠い潮騒の音が、耳の奥で心地よい子守唄のように反響し、彼女の意識は深い闇へと沈み込んでいった。
――はっ、と。 彼女が跳ねるように上体を起こしたのは、静寂の中に響く、自分の心臓の音に驚いたからかもしれない。 視界が白く濁っている。一瞬、ここがどこなのか、自分が誰なのかすら分からなかった。蛍光灯が煌々と照り続ける事務所は、夜の闇を無理やり押し返しているようで、どこか異様な空間に見えた。 太宰は慌てて、デスクの上の時計を掴んだ。
「……午前三時!?」
掠れた声が、無人の空間に響き渡る。 驚きで思考が停止しかけたが、すぐに現実が追いかけてきた。寝てしまった。しかもこんなところで。 急いでパソコンをシャットダウンし、椅子の背もたれに掛けていた砂色のトレンチコートを、引ったくるようにして羽織る。ゆるふわだったはずの髪は乱れ、頬には自分の腕の跡がうっすらと赤い筋となって残っていた。 「やばい、やばい。早く帰らなきゃ」 彼女は自分の身なりを整える余裕もなく、書類が整理されているか、窓の鍵は閉まっているか、火の気はないか、各デスクの消灯を必死に確認して回った。深夜の事務所で一人、バタバタと動き回るその姿は、いつもの飄々とした彼女からは想像もつかないほど、必死で、そしてどこか可愛らしかった。 最後にメインの扉を施錠し、警備システムをセットする。重い鉄扉が閉まる音を背に、彼女は廊下を駆け抜け、外の空気に飛び出した。
深夜三時のヨコハマは、死んだように静まり返っている。 街灯のオレンジ色の光だけが、石畳を無機質に照らしていた。太宰は足早に社員寮への道を急いだ。冷たい夜風が乱れた髪をなびかせ、彼女の頬を刺す。 ふと、ポケットの中でスマートフォンが微かに振動したような気がして、彼女は足を止めた。
「……ああ、そうだ。中也」
連絡を忘れていたどころの話ではない。本来なら昨夜のうちに何らかのやり取りを交わしているはずだった。だが、今の彼女に画面を確認する気力など残っていない。
「もういいや……。今は、寝る。死ぬほど寝る」
彼女はそう自分に言い聞かせると、スマートフォンをコートの奥深くに押し込み、再び走り出した。
寮の自室に滑り込み、鍵を閉めた瞬間、彼女はその場にへなへなと崩れ落ちそうになった。 けれど、まだやらなければならないことがある。 暗い部屋の照明をつけ、浴室へと向かう。服を脱ぎ捨て、一日中自分を縛り付けていた包帯を解いていく。解かれるたびに、締め付けられていた肌が解放され、微かな痛痒さを伴う感覚が全身を走った。 鏡の中の自分は見ない。ただ、お湯が溜まっていく音だけを聞いていた。 お湯が張られた浴槽に、ゆっくりと指先を、そして爪先を沈めていく。
「……あァ……」
思わず、肺の奥にある空気がすべて漏れ出るような吐息がこぼれた。 熱いお湯が、強張っていた四肢を、そして朝から張り詰めていた精神のささくれを、優しく撫でるようにして溶かしていく。 朝、悪夢にうなされて飛び起きた瞬間。 国木田の怒声を聞きながら、心の中で一人、孤独に震えていた瞬間。 鏡花が結んでくれた髪の温かさに、ほんの少しだけ泣きたくなった瞬間。 それらの記憶が、湯気の中に溶け出し、浴室の天井へと消えていく。 彼女は水面に浮かぶ自分の腕を見つめた。女性の身体になってから、この「お湯の熱」が、驚くほどダイレクトに心臓に届くようになった気がする。熱は、自分がまだ生きていること、そして今日一日を、どうにかこうにか生き抜いたことを教えてくれる。
「……でも、やっぱり死にたいな……」
いつもの台詞を呟いてみる。けれど、お湯の心地よさの中で発せられたその言葉は、どこか魂の抜けた、響きのないものだった。 いつまでも浸かっていたいという誘惑を断ち切り、彼女は浴槽から這い上がった。 タオルで髪を拭く手さえ重い。パジャマを引っ掛け、鏡の前に立つ。 脱衣所の籠に放り込んだスマートフォンが、再び小さく震えた気がした。 中也。 きっと彼は今頃、ヨコハマのどこかで荒れ狂っているか、あるいは呆れ果てて酒を煽っているだろう。返信をしなければならない。謝るか、いつものように挑発するか。 「……無理だ」 思考が、粘りつくような眠気によって停止した。 彼女は洗面台で、機械的に、しかし急いで歯を磨いた。口の中に広がるミントの刺激さえ、睡魔には勝てない。 部屋に戻り、まだ敷きっぱなしだった布団の端を掴んだ。 その瞬間、世界がぐらりと揺れた。 枕元まで辿り着く前に、膝が折れる。 布団の上に、倒れ込む。 シーツの冷たい感触が、火照った頬に触れた瞬間、彼女の意識は弾けるように消失した。 髪を乾かさなきゃ、とか。 明日の服を用意しなきゃ、とか。 中也に一言返さなきゃ、とか。 そんな「太宰治」を維持するための理性は、泥のような眠りの波に飲み込まれて、跡形もなく消えてしまった。 彼女はうつ伏せになったまま、布団を被ることもできずに、ただ深く、深く眠りに落ちていった。 その寝顔には、昼間の飄々とした仮面も、夜の孤独な影も、今はどこにもない。 ただ、嵐のような一日を終えた、一人の青年が女性になっただけの、等身大の「人」の安らぎがあるだけだった。
ヨコハマの空が、ゆっくりと白み始める。 窓の外では、夜明け前の静寂が去り、再び街が呼吸を始めようとしていた。 彼女の部屋の隅で、電源の落ちたスマートフォンが、ただ静かに、訪れることのなかったメッセージを抱えて黙り込んでいる。 太宰は、すべてを忘れたように、泥のような眠りの中で、新しい朝を迎えるための休息を貪り続けていた。
彼女が次に目を覚ますとき、世界はまたいつも通りの、騒がしくも美しい地獄になっているだろう。 けれど、今はまだ、この深い眠りの中だけでいい。 彼女は、包帯のない腕を枕に、静かな寝息を立て続けていた。
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