テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
月光が青白く照らし出す旧館の一室で、私たちは対峙していた。
足元まで侵食してきたジェルの影。
その冷徹な闇を真っ向から見据え、私は震える声を絞り出した。
鏡に触れて蘇った凄惨な記憶が、今も脳裏で火花を散らしている。
「教えて、ジェル……。あなたは、誰を愛しているの?高貴な血を引く『エトワール王女』?それとも、都合よく記憶を書き換えられた、名もなき影武者の私……?」
私の問いに、ジェルの歩みが止まった。
彼は手にしていた漆黒の弓を静かに床へ置くと、仮面のような無表情を崩し、痛ましげに目を細めた。
その瞳に宿ったのは、狂気でも支配欲でもない。
何年も、何十年も、ただ一人の少女だけを追い続けてきた男のあまりに純粋で情熱的な熱量だった。
「……最初から、答えは決まっている。僕は、君だけを見ていた。泥に塗れ、パンを分け合ってくれたあの時から、僕の瞳に映る価値のあるものは君だけだったんだ」
ジェルは一歩、また一歩と
今度は獲物を追うためではなく、祈りを捧げる巡礼者のような足取りで近づいてくる。
「影武者であろうと、偽りの王女であろうと、そんな肩書きはどうでもいい。君が息をし、君が笑う」
「その事実こそが僕の命であり、世界のすべてなんだ。……君が地獄のような影武者の記憶に苛まれ、心を壊していくのを見ていられなかった」
「だから僕はあの日、君の過去を殺した。君が、誰の身代わりでもない幸福な『王女』として、ただ愛されるためだけに生きられる世界を、僕の手で作りたかったんだ」
彼の告白は、あまりに独りよがりで、歪んでいた。
私を救うために彼は魂を闇に売り、本物の王女を見捨て、数えきれない血をその手に浴びてきた。
そのすべては、汚濁に満ちたこの世界から
私という存在だけを純白のまま隔離するための、あまりに切実で凄惨な献身だったのだ。
「バカな人。そんなことのために、あなたは……」
頬を伝う涙が、ジェルの冷たい指先によって拭われる。
彼の指は相変わらず氷のように冷え切っていたけれど、そこから伝わる鼓動は、狂おしいほどの情愛で震えていた。
この男の愛は、確かに間違っている。
私を騙し、記憶を奪い
檻に閉じ込めたその行為は決して許されるべきことではないのかもしれない。
けれど、奪われた記憶の断片の中にいた「青い瞳の少年」が
今のこの絶望的なまでに孤独な男と重なった瞬間
私の胸の中にあった拒絶の壁が音を立てて崩れ去った。
歪んでいても、呪われていても。
この世のすべてを敵に回してでも私を「王女」として完成させようとした彼の狂気こそが
私という空虚な器を満たしてくれる唯一の真実だった。
「……いいわ、ジェル。私を、あなたの望む王女にして」
私は自ら彼の首に腕を回し、その冷たい胸板に体を預けた。
ジェルの体が驚きに大きく震え、次の瞬間
壊れ物を抱くような、それでいて二度と離さないという強い力で私を抱きしめ返した。
「シェリー……。君を、永遠に離さない。たとえこの先、どんな罰が僕を待っていても」
戴冠式を告げる遠い鐘の音が、夜の静寂を震わせる。
それは、偽りの女王の誕生を祝う音であり、二人の共犯者が結ばれた合図でもあった。
月光が降り注ぐ中、私たちはゆっくりと顔を寄せ、誓いの口づけを交わす。
その蜜の味は、恐ろしいほどに甘く、そしてどこまでも深い、救済の味がした。
もう、真実なんていらない。
ジェルの腕の中
私は彼の愛という名の底なし沼に、自ら深くに沈んでいくことを選んだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!