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神泉のけばけばしいネオンと、酔客たちの騒がしい声が、一歩、また一歩と背後に遠ざかっていく。
山手通りを越え、駒場へと続く緩やかな上り坂に差し掛かる頃には、辺りは静寂に包まれていた。聞こえるのは、遠くを走る車の音と、陽一さんの足音だけ。
彼は私を横抱きにしたまま、一度も「重い」と言わずに歩き続けていた。
「……重いですよね?やっぱり降ります……」
「言ったでしょう。白石さん一人くらい、余裕です」
彼はそう言って笑ったけれど、街灯に照らされた額には、汗が滲んでいた。
「……陽一さん」
「……はい」
「最近、なんでずっとデートしてくれなかったんですか? ……私、てっきり……避けられてるのかと」
ずっと言いたくて言えない言葉だった。陽一さんは、一瞬だけ足を止めかけ、また歩き出した。
「……実は週3で、ジムに通ってたんです」
「……え?」
「白石さんの、お兄さんの……大地さんが経営してる……ジムに」
私は目を丸くした。お兄ちゃんのジム?
「……隠してて、ごめん。お兄さんに、『絶対に内緒だ』って、強く口止めされて。……白石さんが入院した後、お兄さんにジムに呼び出されたんです」
「お兄ちゃんが……!? ごめんなさい、私があとで……」
彼は、首を横に振り、言葉を続けた。
「最初は……正直、逃げ出したいくらいしんどかった。……でも、気づいたんです。これは、僕が白石さんの隣にいるために、必要なことなんだって」
「僕は、ずっと自信がなかった。……白石さんが僕なんかと付き合ってくれても、それはバグみたいな奇跡で……いつか、もっとふさわしい相手が現れたら、僕はいらなくなるんじゃないかって」
「陽一さん……」
「傷つくのが怖くて、白石さんと向き合うことから逃げてました。……でも、身体を追い込んでいくうちに、少しずつ……自分も、胸を張って白石さんのそばにいてもいいんじゃないかって、思えてきたんです」
彼の腕に、ぎゅっと力がこもる。
「……私のために、そこまでしてくれたの?」
「白石さんのためでもあるけど……自分のためでもあります。……僕はイケメンじゃないから……せめて、中身と筋肉くらいは、カッコいいとこ見せないとって」
彼は照れ隠しのように笑って視線をそらした。以前の彼なら、きっとこんなに力強く私を抱き上げるはできなかっただろう。この腕の太さも、伝わってくる確かな熱量も、すべてが彼の努力の証なのだ。
「……陽一さん。こっち向いて」
「……?」
不器用で、世界で一番誠実な私のヒーロー。私が彼の首に回した腕を引き寄せると、陽一さんが不思議そうにこちらを見た。
私は迷わず、その頬に手を添え――彼の唇を、私の唇で塞いだ。
「――っ!?」
陽一さんが驚いて立ち止まる。触れただけの、柔らかくて、少ししょっぱい汗の味がするキスだった。
「わ、わわっ! ……し、白石さん!?」
陽一さんの顔が、街灯の薄明かりの下でも分かるほど、みるみる赤くなっていく。
「……ふふっ。陽一さん、顔真っ赤」
「だ、だって、いきなり……! 心臓が……!」
「……私のこと、落とさないでね?」
「……死んでも落としません」
自宅までのあと数百メートルが、永遠に続けばいいのに。私は彼の首にそっと腕を回し、その逞しい胸に顔を埋めた。