テラーノベル
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駒場東大前、駅から数分歩いた場所に彼女のマンションはあった。マンションの廊下を抜け、寝室のドアを開ける。そこには少し前、ジムの筋肉痛に耐えながら組み立てた、あのダブルベッドがあった。
僕は、壊れ物を扱うような手つきで、彼女をゆっくりとベッドへ降ろした。そのまま身体を離そうとした、その時。それまでおとなしかった彼女が、不意に僕の首元へしがみついた。
「……白石さん?」
問いかける間もなかった。降ろそうとしてかがみこんだはずみで、僕はそのまま彼女の上に覆いかぶさった。
今の僕の筋力なら、抵抗することは容易だったはずだ。けれど、目の前の潤んだ瞳と、アルコールで上気した彼女の吐息が、僕の脳内のプログラムをフリーズさせた。
「……やだ。帰らないで」
耳元で囁かれる。
以前、インテリア店のソファで体感した「逃げ場のない密着感」が、今度は二人きりの夜、さらには濃厚な熱を持って再現されていた。
彼女の指先が、トレーニングでのお陰で硬くなった僕の大胸筋を探るようになぞり、シャツのボタンに掛かる。
脳内で警報が鳴り響く。
【警告:物理レイヤーでの接触を検知。理性のファイアウォールが溶解中】
焼き切れそうな回路の底で、僕の中の「管理者権限」が、必死にエラーを押し戻した。
僕は、僕の大胸筋をなぞる彼女の手を、そっと掴んで止めた。
「……え?」
「……白石さん。今日は、やめておこう」
「……なんで……? 私とするの、嫌なの……?」
潤んだ瞳が、僕を射抜く。僕は折れそうな心を必死に支え、掌で彼女の頬を包み、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「嫌なわけない。……でも今の白石さんはすごく酔ってる。……明日になったら、何も覚えてないよね?」
「……」
「僕にとって、白石さんとのデプロイ(本番)は、大事なイベントなんだ。……大切な記憶を『バグ』のような不完全な状態でリリースしたくない。白石さんがちゃんと僕を見てくれる時に、最高の状態で向き合いたいんだ」
「それに……あともう少しなんだ。あと1か月もすれば、腹筋のカットが出る。……少しでも、一番格好いい状態の僕を見てほしいと思うのは、……エンジニアのこだわりとして、わがままかな?」
僕が真剣な顔で、(かつ、決死の想いで)訴えると、彼女は一瞬きょとんとして――それから、ふわっと花が綻ぶように笑った。
「……ふふ。陽一さんらしい。……分かった。じゃあ今日は、添い寝だけね。……でも、もう絶対に離さないから」
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