同じ夜――、ペイン邸。
セレン・アルディス・ノアール――こと、マーロケリー国皇太子セレノ・アルヴェイン・ノルディール――は一階にある客間の窓辺で、遠い北の空を見上げていた。
部屋の外にはウィリアムが付けてくれた護衛がひとり、寝ずの番をしてくれている。
イスグラン帝国の王都エスパハレの空は、祖国マーロケリー国の王都フロストヴェリアより少し霞んで見える。きっとフロストヴェリアの方が、空気が凍てついていて澄んでいるからだろう。
そんなことを思いながら星空を見上げていたら、カラン……と小さな音がした。ふと視線を転ずれば、窓のすぐ外へ昼間に見た黒髪の女性――ダフネ・エレノア・ウールウォードが佇んでいた。
いかにも今、何かを投擲したばかりと言ったポーズのままセレノと目が合って、気まずそうに瞳を揺らす。どうやら、先程のカラン……という音は、彼女がセレノがいる部屋の窓へ小石を投じた音らしかった。
(何か用だろうか?)
自国マーロケリーとは違い、イスグラン帝国の首都エスパハレは温かい。
だが、そうは言っても春の走り。日が落ちて外へ出れば、それなりに冷える。
なのに外にいるダフネは、昼間見たときよりさらに粗末な……粗織りの生成り布で作られた、足首までの質素な寝間着姿。薄手のコットン地は夜気を通すらしく、上着すら羽織っていない彼女は肩を震わせていた。
セレノは一国の皇太子だ。それも敵国の真っただ中に――偽名で身分を隠しているとはいえ、従者も付けず単身乗り込んでいる身。
人数が増えれば増えるほど秘密が露呈しやすくなるから……という、この国の皇太子アレクト・グラン・ヴァルドールの進言によるものだが、見知ったそば仕えがいないというのは、いささか不安ではある。
アレクトの指示のもと、彼の腹心・ウィリアム・リー・ペインや、ニンルシーラ辺境伯ランディリック・グラハム・ライオールらが守ってくれてはいるが、目的を果たすまではなるべく軽率な行動は避けたい。
だが――。
こんな夜更けにリリアンナと同じ苗字を冠する女性を無下にできるほど、セレノは人でなしではなかった。
遠くで鐘が十一の余韻を溶かしていく――。屋敷の大半の者は眠りに沈んでいる時刻だ。
セレノは少し迷ったけれど、掃き出し窓になった客室の大きな窓を、人ひとり入れるくらい開けた。
「こんな夜更けにどうしたの?」
ひっそりと問い掛けた声は、イスグラン帝国北方へ小さな領地を与えられたノアール家の三男坊・セレン・アルディス・ノアールとしてのものだ。
「キミは……確かダフネ・エレノア・ウールウォード、だったかな? 僕になにか用?」
廊下からではなく、外から来た時点で秘密裏の訪問だろう。しかも昼間見たお仕着せのメイド服ではなく如何にも寝床から抜け出してきたと言った風情なのだ。
ちらりと視線を走らせて、彼女が武器の類いを潜ませていないことを確認したら、まるでその警戒に気付いたようにダフネが両手を上げて何も手にしていないとひらひらと掌をセレンへ見せてくる。
「――すみません。あの……私……」
ダフネがそうつぶやいたと同時、ざわざわと木々をさざめかせて一陣の風が吹き抜けた。ダフネが小さく身をすくませるのを見て、セレンはダフネの手を引いて室内へ入れた。
背後で、風に押された窓がガタンッと音を立てて閉まった。
ドアの外から衛兵が「物音がしたようですが、何かありましたか?」と問うてくる。
その声に、ダフネの肩がびくりと跳ねた。昼間とは打って変わって、怯えた小動物のように身をすくめている。
「――いや、何でもないよ」
セレンの声は穏やかだった。だが、その響きはいつもと少しだけ何かが違っていた。
セレン自身が意図したとも、意図しなかったともつかない――〝王家の血〟が微かに振れる時、声色には特有の力が宿る。
その言の葉に触れた衛兵は、ドアの外、一瞬だけまぶたを揺らし、途端に警戒心を手放したはずだ。
「……失礼いたしました」
ドアのすぐそばにあった気配がほんの少し離れるのを耳の端で捉えながら、セレンはダフネへと視線を戻す。
部屋の外にはもう、セレンたちの声は届かない。
セレンが放った小さな〝封じ〟が、部屋を静謐な空間に変えていた。
「少しの物音なら、外へは聞こえないようにしてあるよ」
そう告げた声は、先ほどとは打って変わり柔らかい。
だがその底には、否応なく〝逆らえない何か〟が混じっていた。
セレンはダフネをまっすぐに見据え、静かに問いかけた。
「――さて。こんな夜更けに、わざわざ僕の部屋を訪ねてきた理由を……聞かせてくれるね?」
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