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6
その日。
阿部が開店準備をしていると。
勢いよく扉が開いた。
カラン。
「涼太ー! 今日なにー?」
店の奥まで響く。
大きな声。
阿部は思わず振り返った。
ピンク色の髪をした男が。
満面の笑顔で立っている。
厨房から宮舘が顔を出した。
「今日は煮込みハンバーグ」
「やった!」
男は両手を上げて喜ぶ。
「俺、絶対それ好き!」
「まだ食べてないでしょ」
「涼太のハンバーグでしょ? 好きに決まってんじゃん」
言いながら。
男がカウンターへ向かってくる。
そして。
阿部を見つけた。
「……あれ?」
ぴたりと止まる。
阿部も見る。
「こんにちは」
「新しい子!?」
「うん」
横から渡辺が答える。
今日は珍しく。
朝から店にいた。
「あべちゃん」
「あべちゃん!」
男はすぐ阿部の前まで来る。
「俺、佐久間!」
「……佐久間」
「佐久間大介!」
頼んでもいないのに。
フルネームまで教えてくれた。
「阿部亮平です」
「あべちゃんね!」
「もう知ってたじゃん」
渡辺が呆れたように言う。
「本人から聞くの大事だから」
「そうなの?」
阿部が笑う。
「そう!」
佐久間は迷いなく頷いた。
それから。
阿部がエプロンのポケットに入れている小さなメモ帳を見る。
「何それ?」
「仕事のメモ」
「真面目!」
「あ」
阿部は渡辺を見る。
「また言われた」
「ほらね」
渡辺が得意そうにする。
「だから翔太が決めたことじゃないって」
「もう事実じゃん」
佐久間は二人のやり取りを見て。
楽しそうに笑った。
「仲良くなってんじゃん」
「まあね」
渡辺が答える。
「俺が育てた」
「ドリンク教えてくれただけでしょ」
「大事じゃん」
「そのあと全然店来なかったじゃん」
「今日は来てる」
「今日だけで偉そうにしないで」
また笑い声が広がる。
佐久間は。
すっかり阿部も前から知っていたみたいな顔で。
カウンター席に座った。
ランチが少し落ち着いた頃。
佐久間が。
食べ終わった皿を前に置いたまま。
阿部へ話しかけた。
「あべちゃん、本読む?」
「本?」
「うん」
阿部は少し考える。
部屋の段ボールには。
本がたくさん入っていた。
何度も読んだようなものもあった。
だから。
きっと。
「好きだと思う」
「思う?」
佐久間が首を傾げる。
「あ……」
また。
少し変な答え方をしてしまった。
でも。
佐久間は気にした様子もなく。
「じゃあ、今度俺の店来てよ!」
「佐久間の店?」
「本屋!」
「本屋で働いてるの?」
「そう。すぐそこ」
佐久間が窓の外を指す。
「商店街の端っこにある小さいとこ。漫画も小説も雑誌もいっぱいあるよ」
「へえ」
「専門書もある!」
阿部が少し興味を持ったのが分かったのか。
佐久間の声がさらに明るくなる。
「絶対好きな本あるって!」
「じゃあ今度行ってみようかな」
「今日来て!」
「今日?」
「ランチ終わったら!」
「急だなあ」
「予定ある?」
阿部は考える。
ない。
仕事が終わったあと。
今日は夜のバーへ行く予定もなかった。
「ないけど」
「決まり!」
勝手に決められた。
阿部は笑う。
「佐久間っていつもこんな感じ?」
渡辺を見る。
「ずっと」
「楽しいでしょ?」
佐久間が自分で言う。
「うん」
阿部は笑った。
「楽しい」
「ほら!」
佐久間は満足そうだった。
午後四時。
阿部は佐久間に教えてもらった本屋の前に立っていた。
商店街の端。
古いけれど。
綺麗に手入れされた小さな店。
扉を開ける。
「いらっしゃいませー!」
奥から。
聞き覚えのある声。
「来たよ」
「あべちゃん!」
佐久間がすぐに出てくる。
「ほんとに来てくれた!」
「来てって言ったの佐久間でしょ」
「でも嬉しいじゃん」
店内を見る。
壁一面の本棚。
新刊。
文庫。
漫画。
雑誌。
料理本。
写真集。
専門書。
大きな店ではないのに。
いろいろな本が並んでいる。
阿部はゆっくり歩き始めた。
一冊。
手に取る。
表紙を見る。
知らない。
でも。
なんとなく気になる。
別の棚。
数学の本。
科学の本。
資格関係。
手を伸ばす。
ページを開く。
「……これ」
「知ってる?」
佐久間が隣から覗く。
「分かる」
「読んだことある?」
「それは分かんない」
阿部は。
ページをめくる。
内容は理解できる。
数式も。
知らないものではない。
でも。
いつ覚えたのかは。
やっぱり分からない。
「変な感じ」
阿部が呟く。
「何が?」
「自分が何好きだったかも覚えてないから」
佐久間を見る。
少し迷った。
でも。
もう。
隠し続ける必要もない気がした。
「俺、記憶ないんだ」
「名前以外。目が覚めたら全部忘れてた」
「だから本も。部屋にいっぱいあったけど、どれが好きだったのか分かんない」
佐久間はしばらく黙った。
すぐには話さない。
「そっか」
それだけ言って。
阿部の手元の本を見る。
そして。
「じゃあさ」
「うん」
「今から探せばいいじゃん」
阿部が顔を上げる。
佐久間は。
本当に。
何でもないことのように言った。
「昔好きだった本が分かんないなら、今好きなの探せばいいじゃん」
「……今?」
「うん」
佐久間は棚を見る。
「これから読んで。面白かったら好き。それでよくない?」
あまりにも単純で。
阿部は少し笑った。
「佐久間らしい」
「今日会ったばっかりなのに俺らしさ分かるの?」
「なんとなく」
「翔太みたいなこと言うじゃん!」
二人で笑う。
阿部は。
もう一度手元の本を見る。
昔の自分が。
これを好きだったかどうか。
それは分からない。
でも。
今。
読んでみたいと思っている。
「これ買う」
「お!」
「あと」
隣の棚から。
もう一冊取る。
小説。
表紙が綺麗で。
なんとなく目に止まった。
「これも」
「いいじゃん!」
佐久間は嬉しそうに笑った。
「読み終わったら感想聞かせて」
「うん」
「気に入らなかったら?」
「それも言う」
「それ大事!」
阿部は本を抱える。
また。
一つ。
これからすることが増えた。
数日後。
カフェ。
ランチのピークを過ぎて。
客も少なくなった午後。
阿部が空いた皿を下げていると。
窓際の席に。
見慣れない男が一人で座っていた。
かなり背が高い。
テーブルには。
ノートパソコン。
何冊もの教科書。
ノート。
さっきからずっと。
何かを書いている。
「コーヒー、おかわりいる?」
阿部が声をかける。
男が顔を上げた。
「あ、お願いします」
「ホットでいい?」
「うん」
阿部がコーヒーを持って戻る。
カップを置こうとした時。
開いたノートが目に入った。
数式。
図。
その横に。
何度も消した跡。
「……そこ」
思わず声が出た。
「え?」
「ここ」
阿部はノートを指す。
「最初の式は合ってるけど、この変形で一個抜けてる」
男が。
阿部を見る。
「分かるの?」
「多分」
「多分?」
「ちょっと見てもいい?」
「うん」
阿部はノートを受け取る。
ペンを借りる。
考える。
いや。
考えるというより。
見れば分かった。
「ここを先に整理して」
式を書く。
「それからこっちに入れれば」
さらに書く。
「ほら」
答えまで。
自然につながる。
「……できた」
男はノートを見る。
それから。
阿部を見る。
「すご」
「そう?」
「俺、これ一時間くらいやってた」
「一時間?」
「うん」
「その前の式で迷ったんじゃない?」
「そう!」
急に。
男の表情が明るくなる。
「なんで分かったの?」
「見たら」
「見たらって」
阿部自身も。
説明できない。
数学を勉強した記憶なんてない。
でも。
分かる。
「俺、計算得意みたい」
男は少し笑った。
「お姉さん、ここで働いてる人だよね?」
「うん」
「先生とかじゃなくて?」
「違うと思う」
「思う?」
阿部は笑う。
「それ、説明すると長い」
「じゃあ今度聞く」
「今度?」
「俺、ここよく来るから」
男は手を差し出した。
「ラウール」
「ラウール?」
「うん。大学生」
「何歳?」
「成人してるよ」
先に言われて。
阿部は笑った。
「聞こうと思ってた」
「よく聞かれるから」
「俺、阿部亮平」
「あべちゃん?」
「……なんで?」
「さっき翔太くんがそう呼んでた」
少し離れたカウンター。
今日も仕事をしているのか。
していないのか分からない渡辺が。
オレンジジュースを飲んでいる。
「ああ」
阿部は納得する。
「もうみんなそれ」
「じゃあ俺もあべちゃんでいい?」
「いいよ」
「よろしく、あべちゃん」
「よろしく、ラウール」
ラウールは。
もう一度ノートを見る。
「ねえ」
「何?」
「この続きも分かる?」
「え」
「あと三問ある」
「俺、仕事中なんだけど」
「今お客さんいないじゃん」
「そういう問題?」
カウンターから渡辺の声が飛ぶ。
「あべちゃん、教えてあげれば?」
「翔太が仕事してくれたらね」
「今日は客」
「エプロンつけてるじゃん」
「ファッション」
「嘘つけ」
ラウールが笑った。
阿部も笑う。
結局。
次の客が来るまで。
二問だけ。
一緒に解いた。
ラウールが帰ったあと。
阿部は。
新しいノートを開いた。
最近。
気づいた自分のことを。
そこへ書くようになっていた。
『英語が話せる。』
『暗算が得意。』
その下。
新しく。
『数学も得意みたい。』
少し考えて。
さらに書く。
『本を読むのが好きかもしれない。』
佐久間の本屋で買った小説は。
もう半分まで読んだ。
続きが気になって。
昨日も少し夜更かしした。
昔の自分が。
何を好きだったのかは。
まだ分からない。
何の仕事をしていたのかも。
知らない。
でも。
今の自分のことなら。
少しずつ。
分かるようになってきた。
館さんの料理が好き。
翔太と話すのが楽しい。
康二の歌をまた聴きたい。
佐久間の本屋にもまた行きたい。
ラウールの問題の続きも。
少し気になる。
そして。
家に帰れば。
隣にめめがいる。
阿部はペンを動かす。
『知らないことが分かっていくのは、ちょっと楽しい。』
書いて。
少し笑った。
過去を思い出すこととは。
きっと違う。
でも。
今の自分を知ることも。
同じくらい。
大事なのかもしれない。
#BL
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