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数日後。
ランチのピークが過ぎた午後。
カラン。
扉の音がして。
阿部が顔を上げる。
「あ」
入ってきたのはラウールだった。
片手には大きなバッグ。
今日も中には。
ノートパソコンと。
何冊もの教科書が入っているらしい。
「いらっしゃい」
「こんにちは、あべちゃん」
「今日も勉強?」
「うん」
「大変だね」
「大変」
ラウールはそう言いながら。
いつもの窓際の席へ座った。
阿部は水を持っていく。
「今日はコーヒー?」
「うん。あと」
ラウールがバッグからノートを出す。
「これ」
「……何?」
「課題」
「見れば分かる」
「また分かんないところあるから教えて」
「俺、店員なんだけど」
「知ってる」
「先生じゃないよ」
「それも知ってる」
「じゃあなんで」
「分かりやすいから」
ラウールは当然のように言う。
阿部は。
少し困って。
でも。
少し嬉しかった。
「仕事落ち着いたらね」
「やった」
「先にコーヒー持ってくる」
「お願いします」
しばらくして。
店の中の客が減る。
宮舘は厨房の片付け。
渡辺は。
今日は珍しく店にいたけれど。
カウンターの端でスマートフォンを見ている。
阿部は。
ラウールの向かいに少しだけ座った。
「どこ?」
「ここ」
ラウールがノートを見せる。
阿部は。
問題を読む。
「……これさ」
「うん」
「途中まで合ってる」
#❤️💙
みら

19,807
207
「ほんと?」
「でも、この式の意味ちゃんと分かってないで使ってるでしょ」
ラウールが止まる。
「なんで分かるの?」
「ここ」
阿部は指差す。
「この変形。公式だけ覚えて入れてるから、次で迷ってる」
「……正解」
「やっぱり」
阿部はペンを借りる。
「まず、この式が何を表してるか考えた方がいいよ」
ノートに図を書く。
数字を書く。
一つずつ説明する。
ラウールは。
最初は阿部の手元を見ていたけれど。
だんだん。
阿部の顔を見るようになった。
「ここまで大丈夫?」
「うん」
「じゃあ次。これを使うと」
阿部が式をつなぐ。
「こうなる」
「……あ」
ラウールが目を見開く。
「分かった?」
「分かった」
「ならよかった」
阿部がペンを置く。
ラウールは。
ノートをしばらく見ていた。
「ねえ、あべちゃん」
「何?」
「前、先生だったんじゃない?」
「……またそれ?」
「だって説明うまいもん」
「数学できるからって先生とは限らないでしょ」
「でも、人に教えるの慣れてる感じする」
阿部は。
少し黙った。
慣れている。
そう言われても。
自分では分からない。
ただ。
ラウールがどこで分からなくなったのか。
どう説明したら伝わるのか。
自然に分かる。
「先生……」
呟いてみる。
それが。
昔の自分に似合うのか。
全く分からない。
「あり得ると思う?」
ラウールが聞く。
「分かんない」
「そっか」
「でも」
阿部はノートを見る。
「人に教えるのは嫌いじゃないみたい」
ラウールが笑う。
「じゃあまた教えて」
「結局それ?」
「うん」
「俺を無料の先生にしないで」
「代わりにコーヒーいっぱい飲む」
「店が儲かるだけじゃん」
「いいじゃん」
阿部は笑う。
「まあ、暇な時なら」
「やった」
その時。
カウンターから渡辺の声。
「あべちゃん」
「何?」
「そのまま家庭教師代取れば?」
「翔太、急に商売始めないで」
「時給高めで」
「なんで翔太が決めるの」
「マネージャー」
「いつなったの」
ラウールまで笑っている。
阿部も。
つられて笑った。
笑いながら。
ふと思う。
英語が話せる。
暗算が得意。
数学も分かる。
人に教えるのも。
嫌いじゃない。
記憶は戻っていないのに。
こうして少しずつ。
自分でも知らなかった自分が見つかっていく。
昔の自分を思い出すのとは。
少し違うけれど。
これはこれで。
悪くないのかもしれない。
ラウールが帰ったあと。
阿部はカウンターで新しいノートを開いた。
『数学も得意みたい。』
その下に。
少し考えて。
『人に教えるのは好きかもしれない。』
と書く。
「また自分のこと書いてんの?」
横から渡辺が覗く。
「うん」
「増えてきた?」
「結構」
ページをぱらぱらめくる。
仕事は楽しい。
英語が話せる。
暗算が得意。
本を読むのも好きかもしれない。
一人より。
みんなといる方が好き。
最初はほとんど何もなかったページが。
少しずつ埋まってきていた。
「昔のこと全然分かんないのにさ」
阿部が言う。
「うん」
「今の俺のことは、前より分かってきたかも」
渡辺は。
ノートを見ながら。
「いいじゃん」
とだけ言った。
その言い方があまりにも普通で。
阿部も。
「うん」
と笑った。
そして。
その週。
久しぶりに一日休みができた。
休みの朝。
目が覚めて。
阿部はしばらくベッドの上で考えた。
今日は。
カフェへ行かなくていい。
夜の予定もない。
少し前なら。
何をして過ごせばいいのか分からなかった。
でも今は。
一つ。
行ってみたい場所がある。
身支度をして。
部屋を出た。
向かったのは。
佐久間の本屋だった。
「ほんとに来た!」
店に入った瞬間。
佐久間が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「来てって言ったの佐久間でしょ」
「だって休みの日まで来てくれると思わなかった」
「暇だったし」
「じゃあ一日いて!」
「一日?」
「今日俺ほぼ一人だから」
「仕事の邪魔じゃない?」
「ならないならない」
佐久間は。
そう言いながら。
一冊の本を阿部に渡した。
「これ絶対好き」
「何で?」
「なんとなく!」
「信用できないなあ」
「いいから読んで」
阿部は。
表紙を見る。
小説だった。
前回買ったものとは。
少し違う雰囲気。
「じゃあ読む」
「感想聞かせてね」
「はいはい」
阿部は。
店の奥にある小さな椅子に座る。
ページを開く。
気づけば。
一時間以上経っていた。
「……あべちゃん」
声をかけられて。
顔を上げる。
佐久間が。
呆れたように立っていた。
「何?」
「めっちゃ集中してるじゃん」
「面白い」
「でしょ!」
「うん」
「俺のおすすめ当たり!」
「悔しいけど当たり」
佐久間が嬉しそうに笑う。
「どこ好き?」
阿部は。
少し考える。
「主人公がさ」
本を閉じる。
「最初、自分が何したいか分かんないんだけど」
「うん」
「いろんな人と会って。だんだん好きなもの増えてくのがいい」
佐久間は。
少しだけ。
阿部を見る。
「今のあべちゃんみたいじゃん」
「……そう?」
「そうじゃない?」
阿部は。
少し考える。
確かに。
最初は。
自分が何を好きなのか。
何をしたいのか。
何も分からなかった。
でも今は。
仕事が楽しい。
本も好きかもしれない。
音楽も好き。
人と話すのも。
誰かとご飯を食べるのも。
一人でいるより。
みんなといる方が好き。
昨日。
ラウールに数学を教えたのだって楽しかった。
知らなかった自分が。
毎日の中から。
一つずつ出てくる。
「……似てるかも」
阿部が笑う。
佐久間も笑った。
「じゃあ次これ」
「もう?」
また別の本を渡される。
「佐久間、俺に何冊読ませるつもり?」
「好きな本見つかるまで」
「終わらないじゃん」
「いっぱい好きになればいいじゃん」
その言葉に。
阿部は。
少しだけ目を細めた。
「そうだね」
昔の自分が。
何を好きだったのかは。
まだ分からない。
でも。
今。
好きなものが増えていく。
それでいい。
そんな気がした。
昼を過ぎても。
阿部は本屋にいた。
佐久間が仕事をしている横で。
本を読んで。
時々話して。
お客さんがいなくなると。
おすすめを聞く。
「これ漫画」
「読む」
「これエッセイ」
「読む」
「これ写真集」
阿部の手が止まる。
「写真集?」
「うん」
佐久間が一冊開く。
街。
空。
人。
何気ない日常を撮った写真。
笑っている人。
食事をしている人。
並んで歩く人。
どこにでもありそうな一瞬が。
一枚ずつ残されている。
阿部は。
しばらく見ていた。
「……いいね」
「でしょ?」
「写真って」
阿部がページをめくる。
「その時のこと残るんだね」
「まあね」
「俺さ」
少し迷って。
「昔の写真、一枚もないんだ」
佐久間の表情が変わる。
「家に?」
「うん」
「スマホにも?」
「ない」
「そっか」
阿部は。
写真集を見る。
自分にも。
こんなふうに。
誰かと笑っていた時間があったのだろうか。
誰かが。
自分へカメラを向けたことは。
あったのだろうか。
今は。
何も残っていない。
「だからちょっと羨ましい」
「何が?」
「ちゃんと残ってるの」
佐久間は。
しばらく何も言わなかった。
それから。
「あべちゃん」
「うん?」
「これから残せばよくない?」
阿部が顔を上げる。
「昔の写真がないならさ」
佐久間が笑う。
「今日から撮ればいいじゃん」
また。
同じだった。
昔好きだったものが分からないなら。
今から探せばいい。
昔の記録がないなら。
今から作ればいい。
「佐久間っていつもそれだね」
「何が?」
「ないならこれからって言う」
「だって、これからはいっぱいあるじゃん」
阿部は。
少し黙る。
これから。
その言葉が。
前よりずっと好きになっていた。
「……うん」
頷く。
「その考え、結構好き」
「でしょ?」
佐久間が嬉しそうに笑った。
その日の夜。
家に帰ってからも。
阿部は写真集のことを少し考えていた。
棚を見る。
まだ。
写真立ても。
飾ってある写真もない。
けれど。
そのうち。
ここに何か置けたらいい。
そう思った。
誰と撮るのか。
どんな写真になるのか。
まだ分からないけれど。
それも。
これから決めればいい。
そして数日後。
カフェ。
ランチが終わったあと。
阿部がテーブルを拭いていると。
カラン。
「おつかれー!」
聞き慣れた関西弁。
「康二」
顔を上げる。
康二が入ってくる。
今日は。
いつもと少し違った。
肩から。
大きなカメラを下げている。
阿部の視線が。
自然とそこへ向く。
「何見てんの?」
康二が笑う。
「カメラ」
「珍しい?」
「康二がカメラマンなのは知ってたけど、ちゃんと仕事のカメラ見るの初めてかも」
「ああ、そっか」
康二はカウンターへ座る。
宮舘が。
奥から水を出した。
「今日仕事?」
阿部が聞く。
「今終わったとこ」
「何撮ってきたの?」
「今日は雑誌の撮影」
「へえ」
阿部は。
康二のカメラを見る。
数日前。
佐久間と見た写真集を思い出す。
「それ仕事用?」
「せやで」
「大きいね」
「持ってみる?」
「いいの?」
「ええよ」
康二がストラップを外す。
阿部は慎重に受け取る。
ずしりと重い。
「……重」
「慣れたら平気」
「毎日これ持ってるの?」
「そやな」
阿部は。
カメラを眺める。
レンズ。
ボタン。
画面。
これで。
一瞬を残す。
「これでいろんな人撮るんだ」
「人も撮るし、景色も撮るで」
「すごいね」
康二は。
そんな阿部を見て。
少し首を傾げた。
「なんや、今日めっちゃ興味あるやん」
「この前、佐久間の本屋で写真集見たんだ」
「ああ、さっくんとこ?」
「うん」
阿部はカメラを康二へ返す。
「写真っていいなって思って」
「ほな」
康二が笑う。
「撮ったろか?」
「え?」
「あべちゃん」
「俺?」
「うん」
突然言われて。
阿部は目を瞬く。
「なんで」
「写真ええなって思ったんやろ?」
「そうだけど」
「ほな撮ろ」
「そんな簡単?」
「写真なんて撮りたい時に撮ったらええねん」
その言葉も。
なんだか佐久間に似ている。
阿部は笑った。
「佐久間みたいなこと言う」
「なんでやねん」
康二がカメラを構える。
「ほら、そこ立って」
「今?」
「今」
「仕事終わりだよ?」
「それがええねん」
「意味分かんない」
言いながらも。
阿部は。
窓際に立った。
「どうすればいい?」
「普通でええよ」
「普通が分かんない」
「じゃあ」
康二は。
カメラを構えたまま。
「しょっぴー見て」
「なんで?」
カウンターを見る。
渡辺が。
宮舘の作ったプリンを食べていた。
「今日も食べてる」
阿部が笑う。
「働いてないのに」
「働いた」
渡辺が反論する。
「何したの?」
「皿二枚運んだ」
「それでプリン?」
「ご褒美」
「甘すぎるでしょ」
その瞬間。
カシャ。
シャッター音。
阿部が振り返る。
「今撮った?」
「撮った」
「聞いてない」
「自然な方がええから」
康二は。
カメラの画面を見る。
「ほら」
阿部が近づく。
画面を見る。
そこには。
笑っている自分。
思っていたより。
柔らかい顔。
「……俺」
「うん」
「こんな顔するんだ」
「どんな顔やと思ってたん?」
「分かんない」
阿部は。
しばらく写真を見る。
自分の顔なのに。
少し不思議。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
嬉しかった。
これが。
今の自分。
今日。
ここにいた自分。
「いいやん」
康二が言う。
「めっちゃ楽しそう」
「……うん」
阿部は。
小さく笑う。
「これ欲しい」
「もちろん」
「ほんと?」
「送るで」
「ありがとう」
少し間を置いて。
阿部が言う。
「俺、昔の写真一枚もないんだ」
康二が。
阿部を見る。
「そうなん?」
「うん」
「この前、佐久間にも話した」
阿部は。
カメラの画面を見る。
「だから写真見て、ちょっと羨ましいって思った」
「……そっか」
「そしたら佐久間が、これから残せばいいって」
康二は。
一瞬黙って。
それから。
ぱっと笑った。
「さっくん、ええこと言うやん」
「珍しくね」
「今度本人に言ったろ」
「絶対調子乗るよ」
「でもほんま、その通りやで」
康二は。
またカメラを持ち上げる。
「これからいっぱい撮ろ」
阿部が目を瞬く。
「いっぱい?」
「うん」
康二は。
店の中を見る。
「舘さんとしょっぴーも」
「え」
「ふっかさんと照兄も」
「康二も?」
「もちろん」
「佐久間とラウも」
「めめもやな」
目黒の名前が出て。
阿部が。
少し笑う。
「全員?」
「全員」
康二は。
当たり前みたいに言う。
「一人の写真だけやなくてさ」
カメラを軽く持ち上げる。
「今あべちゃんの周りにおる人、いっぱい残したらええやん」
阿部は。
少し黙った。
館さん。
翔太。
照。
ふっか。
康二。
佐久間。
ラウ。
めめ。
少し前まで。
誰のことも知らなかった。
今は。
名前を思い浮かべるだけで。
顔まで浮かぶ。
「……そっか」
胸の奥が。
少しだけ温かくなる。
「じゃあお願いしようかな」
「任せて」
康二が笑う。
「俺、プロやからな」
「急に頼もしい」
「急ちゃうわ!」
二人で笑う。
また。
カシャ。
「ちょっと!」
「今のもええ顔」
「勝手に撮らないでよ」
「ええやんええやん」
阿部は笑いながら。
康二からカメラを隠すように顔を背ける。
その姿まで。
康二は楽しそうに撮っていた。
その日の夜。
阿部は。
康二から送られてきた写真を見ていた。
一枚。
二枚。
三枚。
どれも。
今日の自分。
笑っている。
少し困っている。
渡辺と話している。
宮舘の料理を運んでいる。
知らなかった。
自分にも。
こんな顔がある。
阿部は。
その中の一枚を。
写真にしてもらおうと思った。
部屋には。
まだ。
何も飾られていない棚がある。
そこに。
置こう。
そしていつか。
一枚だけじゃなく。
もっと。
昔の自分の写真は。
一枚もない。
でも。
今の自分の写真なら。
今日からある。
阿部は。
新しいノートを開く。
『ラウールに数学を教えた。人に教えるのは好きみたい。』
『佐久間のおすすめの本が面白かった。好きなものは、今から増やせばいいらしい。』
『康二に写真を撮ってもらった。俺、思ってたよりよく笑ってる。』
そこまで書いて。
少し考える。
そして。
最後にもう一つ。
『残ってないなら、これから残せばいい。』
ペンを置く。
ラウールと話して。
今の自分にできることを知った。
佐久間と過ごして。
今の自分が好きなものを見つけた。
康二が。
今日の自分を残してくれた。
過去を思い出せてはいない。
それでも。
何もなかったはずの自分に。
少しずつ。
今日までの時間ができている。
阿部は。
ノートの文字を見ながら。
静かに笑った。
コメント
1件
もう…なんだろう、すごくあったかい気持ちになったよ。 あべちゃんが「先生だったんじゃない?」って言われて、自分でも気づいてなかった得意なことを見つけていく流れ、すごく自然で好きだな。それに康二くんに撮ってもらった“笑ってる自分”の写真が、ちゃんと今のあべちゃんを映してて。 「残ってないなら、これから残せばいい」って言葉が、まるで夜の静けみたいにすっと染み込んできた🥀 過去じゃなくて“今”を積み重ねていく、その優しさがこの話の核だと思う。