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kaede🍁
17,069
#💛💜
みら

7,788
7
数日後。
ランチのピークが過ぎた午後。
カラン。
扉の音がして。
阿部が顔を上げる。
「あ」
入ってきたのはラウールだった。
片手には大きなバッグ。
今日も中には。
ノートパソコンと。
何冊もの教科書が入っているらしい。
「いらっしゃい」
「こんにちは、あべちゃん」
「今日も勉強?」
「うん」
「大変だね」
「大変」
ラウールはそう言いながら。
いつもの窓際の席へ座った。
阿部は水を持っていく。
「今日はコーヒー?」
「うん。あと」
ラウールがバッグからノートを出す。
「これ」
「……何?」
「課題」
「見れば分かる」
「また分かんないところあるから教えて」
「俺、店員なんだけど」
「知ってる」
「先生じゃないよ」
「それも知ってる」
「じゃあなんで」
「分かりやすいから」
ラウールは当然のように言う。
阿部は。
少し困って。
でも。
少し嬉しかった。
「仕事落ち着いたらね」
「やった」
「先にコーヒー持ってくる」
「お願いします」
しばらくして。
店の中の客が減る。
宮舘は厨房の片付け。
渡辺は。
今日は珍しく店にいたけれど。
カウンターの端でスマートフォンを見ている。
阿部は。
ラウールの向かいに少しだけ座った。
「どこ?」
「ここ」
ラウールがノートを見せる。
阿部は。
問題を読む。
「……これさ」
「うん」
「途中まで合ってる」
「ほんと?」
「でも、この式の意味ちゃんと分かってないで使ってるでしょ」
ラウールが止まる。
「なんで分かるの?」
「ここ」
阿部は指差す。
「この変形。公式だけ覚えて入れてるから、次で迷ってる」
「……正解」
「やっぱり」
阿部はペンを借りる。
「まず、この式が何を表してるか考えた方がいいよ」
ノートに図を書く。
数字を書く。
一つずつ説明する。
ラウールは。
最初は阿部の手元を見ていたけれど。
だんだん。
阿部の顔を見るようになった。
「ここまで大丈夫?」
「うん」
「じゃあ次。これを使うと」
阿部が式をつなぐ。
「こうなる」
「……あ」
ラウールが目を見開く。
「分かった?」
「分かった」
「ならよかった」
阿部がペンを置く。
ラウールは。
ノートをしばらく見ていた。
「ねえ、あべちゃん」
「何?」
「前、先生だったんじゃない?」
「……またそれ?」
「だって説明うまいもん」
「数学できるからって先生とは限らないでしょ」
「でも、人に教えるの慣れてる感じする」
阿部は。
少し黙った。
慣れている。
そう言われても。
自分では分からない。
ただ。
ラウールがどこで分からなくなったのか。
どう説明したら伝わるのか。
自然に分かる。
「先生……」
呟いてみる。
それが。
昔の自分に似合うのか。
全く分からない。
「あり得ると思う?」
ラウールが聞く。
「分かんない」
「そっか」
「でも」
阿部はノートを見る。
「人に教えるのは嫌いじゃないみたい」
ラウールが笑う。
「じゃあまた教えて」
「結局それ?」
「うん」
「俺を無料の先生にしないで」
「代わりにコーヒーいっぱい飲む」
「店が儲かるだけじゃん」
「いいじゃん」
阿部は笑う。
「まあ、暇な時なら」
「やった」
その時。
カウンターから渡辺の声。
「あべちゃん」
「何?」
「そのまま家庭教師代取れば?」
「翔太、急に商売始めないで」
「時給高めで」
「なんで翔太が決めるの」
「マネージャー」
「いつなったの」
ラウールまで笑っている。
阿部も。
つられて笑った。
笑いながら。
ふと思う。
英語が話せる。
暗算が得意。
数学も分かる。
人に教えるのも。
嫌いじゃない。
記憶は戻っていないのに。
こうして少しずつ。
自分でも知らなかった自分が見つかっていく。
昔の自分を思い出すのとは。
少し違うけれど。
これはこれで。
悪くないのかもしれない。
ラウールが帰ったあと。
阿部はカウンターで新しいノートを開いた。
『数学も得意みたい。』
その下に。
少し考えて。
『人に教えるのは好きかもしれない。』
と書く。
「また自分のこと書いてんの?」
横から渡辺が覗く。
「うん」
「増えてきた?」
「結構」
ページをぱらぱらめくる。
仕事は楽しい。
英語が話せる。
暗算が得意。
本を読むのも好きかもしれない。
一人より。
みんなといる方が好き。
最初はほとんど何もなかったページが。
少しずつ埋まってきていた。
「昔のこと全然分かんないのにさ」
阿部が言う。
「うん」
「今の俺のことは、前より分かってきたかも」
渡辺は。
ノートを見ながら。
「いいじゃん」
とだけ言った。
その言い方があまりにも普通で。
阿部も。
「うん」
と笑った。
そして。
その週。
久しぶりに一日休みができた。
休みの朝。
目が覚めて。
阿部はしばらくベッドの上で考えた。
今日は。
カフェへ行かなくていい。
夜の予定もない。
少し前なら。
何をして過ごせばいいのか分からなかった。
でも今は。
一つ。
行ってみたい場所がある。
身支度をして。
部屋を出た。
向かったのは。
佐久間の本屋だった。
「ほんとに来た!」
店に入った瞬間。
佐久間が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「来てって言ったの佐久間でしょ」
「だって休みの日まで来てくれると思わなかった」
「暇だったし」
「じゃあ一日いて!」
「一日?」
「今日俺ほぼ一人だから」
「仕事の邪魔じゃない?」
「ならないならない」
佐久間は。
そう言いながら。
一冊の本を阿部に渡した。
「これ絶対好き」
「何で?」
「なんとなく!」
「信用できないなあ」
「いいから読んで」
阿部は。
表紙を見る。
小説だった。
前回買ったものとは。
少し違う雰囲気。
「じゃあ読む」
「感想聞かせてね」
「はいはい」
阿部は。
店の奥にある小さな椅子に座る。
ページを開く。
気づけば。
一時間以上経っていた。
「……あべちゃん」
声をかけられて。
顔を上げる。
佐久間が。
呆れたように立っていた。
「何?」
「めっちゃ集中してるじゃん」
「面白い」
「でしょ!」
「うん」
「俺のおすすめ当たり!」
「悔しいけど当たり」
佐久間が嬉しそうに笑う。
「どこ好き?」
阿部は。
少し考える。
「主人公がさ」
本を閉じる。
「最初、自分が何したいか分かんないんだけど」
「うん」
「いろんな人と会って。だんだん好きなもの増えてくのがいい」
佐久間は。
少しだけ。
阿部を見る。
「今のあべちゃんみたいじゃん」
「……そう?」
「そうじゃない?」
阿部は。
少し考える。
確かに。
最初は。
自分が何を好きなのか。
何をしたいのか。
何も分からなかった。
でも今は。
仕事が楽しい。
本も好きかもしれない。
音楽も好き。
人と話すのも。
誰かとご飯を食べるのも。
一人でいるより。
みんなといる方が好き。
昨日。
ラウールに数学を教えたのだって楽しかった。
知らなかった自分が。
毎日の中から。
一つずつ出てくる。
「……似てるかも」
阿部が笑う。
佐久間も笑った。
「じゃあ次これ」
「もう?」
また別の本を渡される。
「佐久間、俺に何冊読ませるつもり?」
「好きな本見つかるまで」
「終わらないじゃん」
「いっぱい好きになればいいじゃん」
その言葉に。
阿部は。
少しだけ目を細めた。
「そうだね」
昔の自分が。
何を好きだったのかは。
まだ分からない。
でも。
今。
好きなものが増えていく。
それでいい。
そんな気がした。
昼を過ぎても。
阿部は本屋にいた。
佐久間が仕事をしている横で。
本を読んで。
時々話して。
お客さんがいなくなると。
おすすめを聞く。
「これ漫画」
「読む」
「これエッセイ」
「読む」
「これ写真集」
阿部の手が止まる。
「写真集?」
「うん」
佐久間が一冊開く。
街。
空。
人。
何気ない日常を撮った写真。
笑っている人。
食事をしている人。
並んで歩く人。
どこにでもありそうな一瞬が。
一枚ずつ残されている。
阿部は。
しばらく見ていた。
「……いいね」
「でしょ?」
「写真って」
阿部がページをめくる。
「その時のこと残るんだね」
「まあね」
「俺さ」
少し迷って。
「昔の写真、一枚もないんだ」
佐久間の表情が変わる。
「家に?」
「うん」
「スマホにも?」
「ない」
「そっか」
阿部は。
写真集を見る。
自分にも。
こんなふうに。
誰かと笑っていた時間があったのだろうか。
誰かが。
自分へカメラを向けたことは。
あったのだろうか。
今は。
何も残っていない。
「だからちょっと羨ましい」
「何が?」
「ちゃんと残ってるの」
佐久間は。
しばらく何も言わなかった。
それから。
「あべちゃん」
「うん?」
「これから残せばよくない?」
阿部が顔を上げる。
「昔の写真がないならさ」
佐久間が笑う。
「今日から撮ればいいじゃん」
また。
同じだった。
昔好きだったものが分からないなら。
今から探せばいい。
昔の記録がないなら。
今から作ればいい。
「佐久間っていつもそれだね」
「何が?」
「ないならこれからって言う」
「だって、これからはいっぱいあるじゃん」
阿部は。
少し黙る。
これから。
その言葉が。
前よりずっと好きになっていた。
「……うん」
頷く。
「その考え、結構好き」
「でしょ?」
佐久間が嬉しそうに笑った。
その日の夜。
家に帰ってからも。
阿部は写真集のことを少し考えていた。
棚を見る。
まだ。
写真立ても。
飾ってある写真もない。
けれど。
そのうち。
ここに何か置けたらいい。
そう思った。
誰と撮るのか。
どんな写真になるのか。
まだ分からないけれど。
それも。
これから決めればいい。
そして数日後。
カフェ。
ランチが終わったあと。
阿部がテーブルを拭いていると。
カラン。
「おつかれー!」
聞き慣れた関西弁。
「康二」
顔を上げる。
康二が入ってくる。
今日は。
いつもと少し違った。
肩から。
大きなカメラを下げている。
阿部の視線が。
自然とそこへ向く。
「何見てんの?」
康二が笑う。
「カメラ」
「珍しい?」
「康二がカメラマンなのは知ってたけど、ちゃんと仕事のカメラ見るの初めてかも」
「ああ、そっか」
康二はカウンターへ座る。
宮舘が。
奥から水を出した。
「今日仕事?」
阿部が聞く。
「今終わったとこ」
「何撮ってきたの?」
「今日は雑誌の撮影」
「へえ」
阿部は。
康二のカメラを見る。
数日前。
佐久間と見た写真集を思い出す。
「それ仕事用?」
「せやで」
「大きいね」
「持ってみる?」
「いいの?」
「ええよ」
康二がストラップを外す。
阿部は慎重に受け取る。
ずしりと重い。
「……重」
「慣れたら平気」
「毎日これ持ってるの?」
「そやな」
阿部は。
カメラを眺める。
レンズ。
ボタン。
画面。
これで。
一瞬を残す。
「これでいろんな人撮るんだ」
「人も撮るし、景色も撮るで」
「すごいね」
康二は。
そんな阿部を見て。
少し首を傾げた。
「なんや、今日めっちゃ興味あるやん」
「この前、佐久間の本屋で写真集見たんだ」
「ああ、さっくんとこ?」
「うん」
阿部はカメラを康二へ返す。
「写真っていいなって思って」
「ほな」
康二が笑う。
「撮ったろか?」
「え?」
「あべちゃん」
「俺?」
「うん」
突然言われて。
阿部は目を瞬く。
「なんで」
「写真ええなって思ったんやろ?」
「そうだけど」
「ほな撮ろ」
「そんな簡単?」
「写真なんて撮りたい時に撮ったらええねん」
その言葉も。
なんだか佐久間に似ている。
阿部は笑った。
「佐久間みたいなこと言う」
「なんでやねん」
康二がカメラを構える。
「ほら、そこ立って」
「今?」
「今」
「仕事終わりだよ?」
「それがええねん」
「意味分かんない」
言いながらも。
阿部は。
窓際に立った。
「どうすればいい?」
「普通でええよ」
「普通が分かんない」
「じゃあ」
康二は。
カメラを構えたまま。
「しょっぴー見て」
「なんで?」
カウンターを見る。
渡辺が。
宮舘の作ったプリンを食べていた。
「今日も食べてる」
阿部が笑う。
「働いてないのに」
「働いた」
渡辺が反論する。
「何したの?」
「皿二枚運んだ」
「それでプリン?」
「ご褒美」
「甘すぎるでしょ」
その瞬間。
カシャ。
シャッター音。
阿部が振り返る。
「今撮った?」
「撮った」
「聞いてない」
「自然な方がええから」
康二は。
カメラの画面を見る。
「ほら」
阿部が近づく。
画面を見る。
そこには。
笑っている自分。
思っていたより。
柔らかい顔。
「……俺」
「うん」
「こんな顔するんだ」
「どんな顔やと思ってたん?」
「分かんない」
阿部は。
しばらく写真を見る。
自分の顔なのに。
少し不思議。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
嬉しかった。
これが。
今の自分。
今日。
ここにいた自分。
「いいやん」
康二が言う。
「めっちゃ楽しそう」
「……うん」
阿部は。
小さく笑う。
「これ欲しい」
「もちろん」
「ほんと?」
「送るで」
「ありがとう」
少し間を置いて。
阿部が言う。
「俺、昔の写真一枚もないんだ」
康二が。
阿部を見る。
「そうなん?」
「うん」
「この前、佐久間にも話した」
阿部は。
カメラの画面を見る。
「だから写真見て、ちょっと羨ましいって思った」
「……そっか」
「そしたら佐久間が、これから残せばいいって」
康二は。
一瞬黙って。
それから。
ぱっと笑った。
「さっくん、ええこと言うやん」
「珍しくね」
「今度本人に言ったろ」
「絶対調子乗るよ」
「でもほんま、その通りやで」
康二は。
またカメラを持ち上げる。
「これからいっぱい撮ろ」
阿部が目を瞬く。
「いっぱい?」
「うん」
康二は。
店の中を見る。
「舘さんとしょっぴーも」
「え」
「ふっかさんと照兄も」
「康二も?」
「もちろん」
「佐久間とラウも」
「めめもやな」
目黒の名前が出て。
阿部が。
少し笑う。
「全員?」
「全員」
康二は。
当たり前みたいに言う。
「一人の写真だけやなくてさ」
カメラを軽く持ち上げる。
「今あべちゃんの周りにおる人、いっぱい残したらええやん」
阿部は。
少し黙った。
舘さん。
翔太。
照。
ふっか。
康二。
佐久間。
ラウ。
めめ。
少し前まで。
誰のことも知らなかった。
今は。
名前を思い浮かべるだけで。
顔まで浮かぶ。
「……そっか」
胸の奥が。
少しだけ温かくなる。
「じゃあお願いしようかな」
「任せて」
康二が笑う。
「俺、プロやからな」
「急に頼もしい」
「急ちゃうわ!」
二人で笑う。
また。
カシャ。
「ちょっと!」
「今のもええ顔」
「勝手に撮らないでよ」
「ええやんええやん」
阿部は笑いながら。
康二からカメラを隠すように顔を背ける。
その姿まで。
康二は楽しそうに撮っていた。
その日の夜。
阿部は。
康二から送られてきた写真を見ていた。
一枚。
二枚。
三枚。
どれも。
今日の自分。
笑っている。
少し困っている。
渡辺と話している。
宮舘の料理を運んでいる。
知らなかった。
自分にも。
こんな顔がある。
阿部は。
その中の一枚を。
写真にしてもらおうと思った。
部屋には。
まだ。
何も飾られていない棚がある。
そこに。
置こう。
そしていつか。
一枚だけじゃなく。
もっと。
昔の自分の写真は。
一枚もない。
でも。
今の自分の写真なら。
今日からある。
阿部は。
新しいノートを開く。
『ラウールに数学を教えた。人に教えるのは好きみたい。』
『佐久間のおすすめの本が面白かった。好きなものは、今から増やせばいいらしい。』
『康二に写真を撮ってもらった。俺、思ってたよりよく笑ってる。』
そこまで書いて。
少し考える。
そして。
最後にもう一つ。
『残ってないなら、これから残せばいい。』
ペンを置く。
ラウールと話して。
今の自分にできることを知った。
佐久間と過ごして。
今の自分が好きなものを見つけた。
康二が。
今日の自分を残してくれた。
過去を思い出せてはいない。
それでも。
何もなかったはずの自分に。
少しずつ。
今日までの時間ができている。
阿部は。
ノートの文字を見ながら。
静かに笑った。
コメント
1件
もう…なんだろう、すごくあったかい気持ちになったよ。 あべちゃんが「先生だったんじゃない?」って言われて、自分でも気づいてなかった得意なことを見つけていく流れ、すごく自然で好きだな。それに康二くんに撮ってもらった“笑ってる自分”の写真が、ちゃんと今のあべちゃんを映してて。 「残ってないなら、これから残せばいい」って言葉が、まるで夜の静けみたいにすっと染み込んできた🥀 過去じゃなくて“今”を積み重ねていく、その優しさがこの話の核だと思う。