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鷹槻れん/鷹槻うなの

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#極道
鷹槻れん/鷹槻うなの

19,895
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

1,598
「おれが辞めれば、話は通るんだろう」
源さんは、鍋の火を見たまま言った。
月曜の朝、店は休みで、工房だけが動いていた。父は二階で寝ている。母は買い物。ことはは、麗華の紙を帳場に置いたままにしていた。見せていない。見せていないのに、源さんは知っていた。
「……誰に聞いたの」
「正市さんだ。おれに聞いて、ことはに聞けなかったんだろう。本店の人間が、名前だけ貸せと言ってきたと」
父に、紙を見られていた。帳場の引き出しの上に置いたままにした、自分が悪い。
「源さんが辞める話じゃない」
「名前だけなら、職人は要らねえ。おれは六十六だ。正市さんが戻って、ことはがいる。おれが抜けて、店が楽になるなら、それが順番だ」
源さんは、火を落とした。箸の先を餡につけて、舐めて、黙った。黙り方が、いつもと違った。
ことはは、工房の戸口に立った。源さんの大きな背中。祖父の弟子で、父の相棒で、ことはに餡の塩を教えた手。
「源さん」
「ああ」
「源さんがいない柊屋は、柊屋じゃありません」
声が、はっきり出た。店のことだからだ。
源さんは、振り返らなかった。振り返らないまま、鍋の縁を布で拭いた。
「……餡が、冷める。箱に移せ」
それだけ言った。ことはは箱を取った。父の箱。源さんが洗って、乾かして、ことはに渡した箱を。
工房の戸口に、父が立っていた。
二階で寝ているはずの父が、階段を降りてきて、戸口に手をついて立っている。立つな、と源さんが言いかけて、やめた。
「ことは」
「……お父さん。座って」
「名前だけの店に、おれは暖簾を渡さん」
それから、父は、戸口の枠を見たまま言った。
「帳場の、弁護士の封筒。読んでない。読まんでも、分かる」
ことはは、箱を持った手を止めた。何も言えなかった。嘘をつく言葉も、本当を言う言葉も、出てこなかった。
父は、それ以上聞かなかった。聞かないで、階段を上がって行った。手すりを掴んで、一段ずつ。ことはは、その背中を見ていた。見てから、餡を箱に移した。手は、迷わなかった。迷っている時間が、なかった。
◇
本店の廊下で、宇野に会ったのは偶然だった。
同じ日の昼。常設の返事をするために本店へ行き、裏の階段を上がったところに、宇野が立っていた。黒いスーツ。帽子はない。
「奥様」
「宇野さん」
ことはは、頭を下げた。下げてから、顔を上げて、聞いた。聞くつもりはなかった。口が、勝手に動いた。
「毎朝、うちの店に来ているのは、宇野さんですか」
宇野は、一拍置いた。
いつもの一拍。長くも短くもない。けれど、今日の答えは、いつもと違った。
「私は、柊屋さんのお菓子を、買ったことはございません」
ことはは、宇野を見た。
買ったことはない。一度も。嘘は言わない人が、そう言った。
「……では、誰が」
「専務にお尋ねください」
「氷川さんは、宇野さんに聞けと言いました」
「専務が私にそうおっしゃったのなら、私は専務の言葉を否定いたしません。ただ、私は買っておりません。それだけです」
宇野は頭を下げかけて、止めた。
「奥様。一つだけ、申し上げます」
「……はい」
「大旦那様は、人に買いに行かせる方でした。専務は、違います」
それだけ言って、宇野は階段を上がって行った。
ことはは、踊り場に立っていた。宇野は買っていない。催事部の机に残した箱を持っていた宇野。書斎に入った宇野。搬入口に封筒を持ってきた宇野。その宇野は、買っていない。
専務は、違います。人に買いに行かせる人ではない。それは、買わない人なのか。自分で買う人なのか。
では、母の言う「朝一さん」は、誰だ。
一つの顔が、浮かびかけた。ことはは、それを押し戻した。押し戻して、階段を上がった。
◇
麗華は、催事部の事務所で待っていた。
「お返事、ぎりぎりね。今日が一日よ」
「お断りします」
ことはは、立ったまま言った。麗華の机の前で。
「常設のお話は、お断りします。柊屋の菓子は、柊屋の工房で、源さんとわたしと父が作ります。名前だけ貸すことは、できません」
麗華は、椅子に座ったまま、ことはを見上げた。
「職人さんのため?」
「源さんがいない柊屋は、柊屋じゃありませんから」
「ふうん」
麗華は、紙を一枚、机の端に寄せた。ことはが見た、あの紙だった。
「残念。じゃあ、春の催事からは外れてもらうわ」
「……春の」
「一番だったから、春にも、と上は言ってたの。でも、本店の方針に合わない店を、春の看板には置けないでしょう。断ったのは、あなた」
本当のことだった。本当のことを、本当でない人が言う。七日の間に覚えたことが、また一つ、形になった。
ことはは、頭を下げた。
「失礼します」
戸口まで歩いた。戸に手を掛けたところで、後ろから、麗華の声が来た。穏やかな声だった。
「ああ、それから」
ことはは、振り向かなかった。
「遼さんの前の女も、店の娘だったわね」
手が、戸の上で止まった。
「洋菓子屋の。小さい店の娘。――店、潰れたけど」
麗華は、それ以上何も言わない。紙をめくる音だけが、後ろで続いている。
ことはは、戸を開けた。開けて、廊下に出て、戸を閉める。
閉めた戸に、背中はつけない。つけたら、立っていられない気がした。
廊下を歩き、階段を降り、本店の裏の出入口から冬の日の中に出る。
前の女。店の娘。洋菓子屋。潰れた。
妻は、夫に恋をしないこと。
商店街に戻ると、達也が八百屋の前で箱を運んでいた。ことはの顔を見て、箱を置く。
「どうした。顔、白いぞ」
コメント
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第15話、読み終えました。源さんの「辞める」という言葉に、ことはさんの「柊屋じゃありません」が刺さりました。あの張り詰めた工房の空気、父が階段を一段ずつ上がる背中――家族と職人の誇りが静かに圧し掛かってくる感じが、胸に残ります。そしてラストの「前の女」。あの一言で物語の重力が変わりましたね。遼さんという人の背景が一気に気になります。続きが待ち遠しいです。