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おさかな
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電話ボックスを飛び出し、俺はなりふり構わず走り出した。
「俺の場所には、もう他人が座っている」
老人の言葉が呪詛のように頭にこびりついて離れない。
「嘘だ。あそこは俺がローンを払って、俺が選んだ家具を置いた、俺の城だ……!」
深夜の住宅街を抜け、自分のマンションへと辿り着く。
エントランスのオートロックに手をかけるが、暗証番号がどうしても思い出せない。
指が、勝手に違う番号を叩こうとする。
「クソッ!」
住民が帰ってきたタイミングを見計らって中に滑り込み、エレベーターで自室の402号室へ。
震える手で、キーケースにある「本来の俺の鍵」を差し込む。
だが、入らない。
鍵穴の形そのものが、俺の知っているものと微妙に違っている。
「……じゃあ、これか?」
管理所で手に入れた、あの真鍮製の古い鍵。
それを差し込むと、吸い込まれるように奥まで入り、カチリと軽い音を立てて解錠された。
「……はは、冗談だろ」
扉を開けると、そこは地獄だった。
玄関に並んでいるのは、俺の革靴じゃない。
泥のついた安全靴。
壁に掛かっていた美咲との思い出の写真は、黄ばんだ風景画に変わっている。
リビングへ踏み込むと、空気の匂いすら違っていた。
線香と、安っぽい煙草の匂いが混じった、知らない男の生活臭。
「誰だ……誰がこんなことを……っ!」
俺は狂ったように部屋の中を荒らし回った。
棚をなぎ倒し、クローゼットをこじ開ける。
中に入っていたのは、俺のスーツではなく、油汚れの染み付いた作業着の山だった。
その胸元には、刺繍で名前が入っている。
【 坂上 】
「坂上……? 誰だ、坂上って」
ふと、床に散らばった写真の一枚が目に留まった。
俺がさっき破り捨てたはずの、美咲とのツーショット写真。
それを拾い上げると、心臓が凍りついた。
写真の中で俺の隣で笑っているのは、確かに美咲だ。
でも、彼女の隣で肩を組んでいるのは、俺じゃない。
右目の下に大きな火傷の痕がある、ガタイのいい作業着の男。
……今、俺の鏡に映り始めている「あの男」だ。
「やめろ……やめてくれ!!」
俺は写真をびりびりに引き裂き、ゴミ箱に叩き込んだ。
だが、目を離してもう一度見ると
ゴミ箱の中には破られた跡さえない「坂上と美咲」の写真が、何事もなかったかのように収まっている。
まるで、世界そのものが「佐藤タクミ」という存在を拒絶し、上書き保存を繰り返しているようだった。
その時、背後でカチャリと音がした。
玄関の扉が開く音。
「……あら、お父さん? 起きてたの?」
聞き覚えのない、でもどこか懐かしいような女の声。
俺が恐る恐る振り返ると、そこには見知らぬ、やつれた顔の女が立っていた。
彼女は俺の顔を見て、不審がる様子もなく、当然のように微笑んだ。
「珍しいわね、こんな時間に掃除なんてして。……坂上さん、明日も早いんでしょ?」
彼女が呼んだ名は、俺の名前じゃなかった。
俺は声を出そうとしたが、喉がヒリついて、言葉にならない。
その時、俺は気づいてしまった。
部屋の隅にある姿見に映る自分の姿。
そこにはもう、佐藤タクミの面影はどこにもなかった。
俺は、あの写真の中の男───「坂上」そのものになっていた。
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