テラーノベル
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2012年 2月下旬。
宏章は仕事帰りにスタジオで、数日後に控えたライブへ向けてギターの練習をしていた。
友人の悟に頼まれて、急遽代打でまたステージへ立つ事になった。宏章はあまり気乗りしなかったが、悟にどうしてもと頼み込まれ、仕方なしに了承したのだ。
宏章はつい先日誕生日を迎え、28になったばかりだった。ここのところ宏章は思い悩んでいた。もうすぐ30になるのに、いつまでこの生活を続けるのか?上京して10年が経ち、そろそろ地元に帰って、実家の店を継ぐ事を真剣に考え始めていた。
この間上司に、正社員にならないかと持ち掛けられた。相変わらず酒屋の配送の仕事をしていたが、真面目で仕事も早く、その仕事ぶりを買われて是非にとの事だった。
有難い話ではあったが、宏章は逡巡していた。実家の両親はまだ健在だが、もう高齢でいつまで店に立てるか分からないし、自分には兄弟もいない。
ただ地元の友人達は、もうすでに結婚して世帯を持っている奴ばかりだ。自分には彼女もいないし、結婚の予定もない。地元に戻れば、周囲に結婚はまだかと急かされ、きっと肩身は狭いだろう。このまま東京にいた方が、精神的には幾分か楽だった。
そんな事を考えながらギターの練習に勤しんでいると、悟が休憩と言ってベースを弾く手を止めた。
「俺飲み物買ってくる」
悟は小銭を取り出そうとポケットに手を遣ると、携帯が鳴っている事に気付いて、外へ出て行った。
宏章は思いついた様に、突然ニルヴァーナのブリードを弾き始めた。宏章が最初にハマった曲で、ギターを始めるきっかけでもあった。将来への漠然とした不安と焦燥感、自分だけが立ち止まっているんじゃないかという停滞感。そんな気持ちをかき消すかのように、ギターをかき鳴らす。
そこで悟が戻ってきて、勢いよくドアを開けた。
「宏章!宏章!」
二度ほど名前を呼ばれてやっと気付くと、悟は何やら興奮して息巻いていた。
「なんだよ、そんな慌てて……」
宏章は驚くが、悟はお構いなしに続ける。
「今日駿のバンドのライブだったらしいんだけど、今から打ち上げ来ないかって!それがなんとAV女優の桜那が来るらしいんだよ!お前ファンだろ!こんなチャンスは滅多にないぞ!」
宏章は驚きから一瞬固まるが、すぐさま「行く!」と即答した。だが今日は仕事帰りにそのまま来たので、髪も無造作に下ろしたままで、私服も適当な格好だった。
「あ!でも俺この格好じゃ……」
「いいから行くぞ!いつまで居るかわかんねーぞ!」
悟に急かされて、着替えに戻る間もなくバイクを走らせた。バイクを走らせてる間、せめてコンタクトにして来ればよかっただの、今日バイクで来て良かったなど様々な思いを巡らせた。
だが次第に高まっていく緊張感と高揚感で、宏章は完全に浮き足立っていたのだ。
駿こと「黒澤駿」は、宏章の元バイト先のライブハウスに出入りしていた知り合いだった。駿もバンドをやっていて、たまにイベントで顔を合わせた。
駿は宏章の五歳下で、ヴォーカルを務めていた。学生時代にモデルをしていたらしく、顔やスタイルもその辺の奴とはまるで桁違いのレベルだった。彫刻の様な端正な顔立ちに、高身長で9頭身はあろうかというスタイル。圧倒的なオーラを放ち、ついこの間メジャーデビューも決まった。
悟の話によると、なんと桜那の所属事務所に駿が所属する事が決まったらしく、その縁で桜那が打ち上げに来るとの事だった。
会場はライブハウスの隣のクラブバーで、沢山の人でごった返していた。入る前にとりあえず髪の乱れを直し、心を決めて入店する。
店に入ると、駿の追っかけの馴染みのバンギャやガラの悪い取巻き連中、業界関係者と思わしき人間など様々な顔ぶれで溢れていた。
……駿と出会った頃は、まだバンド仲間に囲まれてワイワイしていたのに。もう遠い世界の人間になったんだな。
そんな思いで遠巻きに眺めていると、奥の方で何やら人だかりが出来ていた。
……桜那だ!
遠くから見てもすぐに分かった。そこだけ明らかに空気が違い、そのオーラに一瞬で心奪われた。
生で見る桜那は、ビデオで見るよりずっと小柄で華奢だった。顔が小さく、色白で透明感があり、実物は何十倍も美しかった。
……手足長いからもっと身長あるかと思ってたけど、ずいぶんと小柄なんだな。やっぱ芸能人は違うな。
宏章がそんな事を考えながら見惚れていると、「ボサっとしてんな!行くぞ!」といきなり悟に背中を押された。
桜那の周りはかわるがわる挨拶する人で溢れていたが、ちょうど人が途切れた所で、宏章が桜那の前に押し出された。
「桜那さん!こんばんは!俺ら駿の友達なんですけど、こいつが桜那さんの大ファンで!どーしても桜那さんとお話ししたくて!」
悟が笑顔で宏章を押し出すと、宏章は「ちょっと!」と慌てた。宏章は桜那を目の前にして居直るが、緊張から言葉に詰まってしまった。宏章が何も言えないでいると、桜那が大きな目でじっとこちらを見てきた。
……地味な男。
それが桜那から見た、宏章の第一印象だった。
首元まで隠れるアウターの下に、何やら重ね着をし、ラフなデニムとスニーカーで明らかな普段着だった。髪色こそ派手な金髪にしているが、絶妙にダサく野暮ったい感じだ。細めのフレームの眼鏡と、無造作に下ろした長めのヘアスタイル。素顔はよく分からなかったが、「普通の男」という印象を抱いた。街を歩いていても特に気にも留めない、その辺にいる人といったところだろうか。桜那の周りには明らかにいないタイプで、それが却って強く印象に残った。
「そーなんだ!ありがとう!いくつ?名前はなんて言うの?」
桜那は営業スマイルで、名前と年齢を尋ねた。
「あ、斎藤宏章っていいます……。28です」
宏章は顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに答える。すると桜那がほんの一瞬だけ、蔑むような冷たい目をした。
……ん?なんか今一瞬冷たい視線が。
宏章はその一瞬を見逃さなかったが、桜那はまたすぐ笑顔に戻って、宏章へ問いかけた。
「へぇ……、宏章くんはどこの出身なの?」
宏章は唐突に出身地を尋ねられ、不思議に思ったが正直に答えた。
「あ……、熊本ですけど……」
それを聞くなり、桜那はクスッと笑って「どうりで」と呟いた。
「ちょっとだけイントネーションが違うから、すぐ分かっちゃった」
……それって俺が田舎くさいって事か?
宏章は少しショックを受けたが、桜那を目の前にして、もう緊張で精神がキャパオーバーだった。そうこうしている内に、また桜那が誰かに呼ばれた。はーい!と甲高い声で返事をすると、それじゃあね!と言って、笑顔で去って行った。
……桜那と会って話せるなんて!
それはもう夢のようで、全然現実感がなかった。
「話せてよかったじゃん!やっぱ実物はすげー可愛いな!」
悟が話しかけて来るが、宏章はたいして耳に入っておらず、ぼんやりしていた。
「おい!しっかりしろよ!俺せっかく来たから駿に挨拶して飲んでくけど、お前はどうする?」
「……俺は帰るよ。あとは自分でなんとか帰れよ」
宏章はもう胸が一杯で、足元がおぼつかなかった。はしゃいでいる悟を残し、夢見心地のままふらふらと出入り口へ向かうと、そのまま店を後にした。
2
……鬱陶しい、早く帰りたい。
桜那は業界関係者に囲まれて、絶えず笑顔で対応する。その張り付いた笑顔の裏で、まさにそんな事を思っていた。
遡る事数時間前、桜那は社長に呼ばれて事務所へ向かった。
「桜那、最優秀女優賞おめでとう。この調子で仕事に励めよ」
「……」
桜那は昨年末に行われた有料チャンネルの、アダルト部門最優秀女優賞に選ばれていた。社長に労われるが、桜那は顔を顰めて黙って聞いている。
「不満そうだな。私の目指す所はここじゃない!ってか?」
社長から嫌味たっぷりに言われても、桜那は返す言葉がなかった。桜那はAVから本格的な俳優転身を模索していた。そのために、オファーが来ればどんな小さな役でも有難く引き受けたし、映画のオーディションの話が来れば喜んで受けた。だがなかなか結果に結び付かず、桜那は苦汁をなめ続けた。
「いっぱしの女優になりたいなら、映画の大役の一本でも取ってきてくれよ。それこそ監督と寝てでもな」
桜那は俯いたまま拳をぐっと握り締め、顔を上げた。そして目をキッとさせ、社長へ高らかに宣言する。
「必ず取ってきてみせますよ。それじゃ失礼します」
桜那は勝ち気な笑顔を浮かべ、社長室を後にした。
するとちょうど収録を終えて、事務所に戻って来た先輩タレントの秦野侑李と出くわした。
「あ!桜那!ちょうど良かった!あんたに頼みたい事があって」
「侑李さん、お疲れ様です。どうしたんですか?」
侑李は桜那の事務所の大先輩で、この事務所の一番の稼ぎ頭だ。桜那がデビューした頃から何かと気にかけてくれて、公私共に世話になっている恩人でもある。
「今度うちに所属する駿って子いるでしょ?今日その子のライブなんだけど、視察がてら社長に見てこいって言われてるの。だけど今日急遽打ち合わせ入っちゃってさ。今日夜空いてたら、代わりに見て来てくれない?」
桜那は気乗りしなかった。もともと人混みは苦手な上、今日は家に帰って、撮影やバラエティ収録の台本の読込みに集中したかった。だが他ならぬ侑李の頼みだ、桜那は断る訳にはいかなかった。
「分かりました。いいですよ。19時には上がれるので、その後だったら」
「ほんと?悪いね、忙しいのに」
侑李は、済まなそうに手を合わせた。
「それと、分かってると思うけど、駿の取巻き達には気をつけて。まあ、あんたなら大丈夫だと思うけど」
侑李はこの業界で、酸いも甘いも噛み分けてきただけあって、相当な情報通で人を嗅ぎ分ける嗅覚も鋭かった。その為、何かにつけて桜那には気をつける様に警告してきた。
「ありがとうございます。留意します」
桜那が静かに答えると、侑李は少しホッとしたのかパッと表情が明るくなった。
「まあ、あんた最近根詰めすぎだから。たまには気晴らししといで!それじゃあね」
そう言って侑李が去っていくと、桜那はため息をついた。
……打ち上げだけ顔出して、さっさと帰ろう。
桜那は次の現場に向けて、マネージャーの待つロビーへと向かった。そして仕事を終えると、侑李と約束した通り打ち上げの会場へと向かったのだった。
桜那の周りは絶えず人で溢れていたが、ちょうど人の波が切れたとき、奥のカウンターで飲んでいた二人組の男達と目が合った。一人は長身で、サイドが刈り上げられた青い髪をしている。もう一人は、鋭い目つきをした黒髪の長髪に顎髭を生やし、首に何やらタトゥーが入っていた。
男達は桜那を見るなり、まるで獲物を見つけたかの様な視線を向け、口元はニタァっとした笑みを浮かべていた。
……あいつらが駿の。
桜那は一瞬で察知した。目が合うと、取り巻きの二人組が桜那の方へと近づいてきた。
「お疲れ様でーす!桜那ちゃんだよね?こっちで俺らと飲もうよ!」
青い髪の男が桜那にドリンクを渡すと、馴れ馴れしく肩を組んできた。
「駿に会いに来たんでしょ?あっちにいるからおいでよ」
そう言って、もう一人の取巻きが逃げられないようにと桜那を囲む。
「いやー、実物はスタイルいいしめっちゃ可愛いねぇ」
二人はニタニタしながら、桜那の全身を舐め回す様に見てきた。
「あ!愛多ももちゃん!」
「え⁈」
桜那は咄嗟に別のAV女優の名を呼んで、男達が振り返った隙にその場をすり抜けた。トイレに駆け込み、ドアを思い切り閉めてから、勢いよくドリンクを便器に流し込んだ。
「こんなもん、飲むかっつーの……」
軽蔑の眼差しで逆さにしたコップを握りつぶし、低い声で呟いた。ため息をついてトイレを後にし、ゴミ箱にコップを放り投げる。足早に入口へ向かうと、ドアの前に何か落ちている事に気付いた。
……財布と鍵?誰のだろ?
拾って中身を確認すると、現金の他にカードと運転免許証が入っていた。
……これ、さっきの人のだ。
自分のファンだと言った、金髪の野暮ったい男。
宏章はうっかり財布と家の鍵を落としていたのだ。桜那に会えた事で舞い上がって、落とした事に全く気付いていなかった。桜那はどうしたものかとしばし眺めていたが、ある事を思いついた。悪巧みを思いついた子どもの様にニヤリとすると、タクシーを呼んでその場を後にした。
タクシーの車中、桜那のフラストレーションはもう爆発寸前だった。
桜那がAV女優と知るや否や、下心丸出しにして近づいてくる男達。誰とでも簡単に寝られると思っているのだろう。桜那にとって撮影でのセックスは、あくまで「仕事」でそれ以上でもそれ以下でもない、ただの演技だ。体に起こる反応も、膝を叩いて足が跳ねるのと同じようなもので、決して心から快楽を感じている訳じゃない。
そもそも桜那がAV女優になったのも、「とある出来事」からだった。その時から覚悟を決めて、強い意志で撮影に臨んできた。こんな風に、男達に軽く見られてしまう事は分かっていても、腹が立った。
それだけじゃない、ここの所桜那は自分の現状に苛立っていた。桜那は以前からAV以外の仕事を切望していた。「とある出来事」からAV女優になる事を選択したのも、それを踏み台にして、のし上がるつもりでいたからだ。
だが現状は、オーディションを受けても落ち続けるばかり。社長には、監督と寝てでも仕事を取ってこいと嫌味を言われる始末。実際に、何度か枕営業を持ち掛けられた事もあったし、役を手にしても、どうせ枕だろうと周囲に偏見を持たれる事もザラだった。
……私がどんな思いで撮影に臨んでいるかなんて、誰にも分かりっこない!
そんな時出会った、自分のファンだという男。こんな苦労も知らずに、能天気にファンだと言ってくる事に無性に腹が立った。そしてどこにでも居そうな、その「平凡さ」がより桜那の苛立ちに拍車をかけた。
……もう後戻りは出来ない。今さら普通になんて戻れない!
普段なら、ファンだと言われれば愛想良く対応したが、今日はもう我慢がならなかった。
……たった一人ファンが減ったところでどうって事ない!どうせ欲望の対象としてしか見てないんだから!だったらその幻想をぶち壊してやる!
桜那はタクシーでそんな事を思い、一人息巻いていたのだ。
3
宏章は興奮冷めやらぬままアパートに辿り着き、夢見心地でポケットに手を遣ると、鍵が入っていない事に気付いた。
……あ、しまった!鍵穴見てもらった時外してたんだ。
宏章は普段、家の鍵はバイクの鍵と一緒にひとまとめにしていた。
だが昨日鍵が回しづらくなっていたので、管理会社に言って見てもらう為にたまたま外していた。結局鍵を交換して受け取ってから、バッグへ入れっぱなしにしたままだった。背中のボディバッグを前に持ってくると、チャックが全開になっていた。嫌な予感がしてバッグに手を入れると、案の定、財布と鍵が無くなっていた。
……やべ!落とした!いつから開いてたんだ?
宏章は慌てて今日一日を振り返った。財布の中に、カード式のタイムカードを入れていて、退勤の時に間違いなく打刻はしたはずだ。
スタジオか?と思い電話を入れてみるが、そんな落とし物はないと言われる始末。だとするとあのクラブだ。だがあの雑踏の中で、探すのは至難の業だろう。万が一拾われていたとしても、そのまま盗まれるのがオチだ。
宏章は冷静になれと自分に言い聞かせ、これからどうするか考えた。鍵がない以上家には入れないし、管理会社に電話しようにも、この時間では明日にならないと無理だ。財布が無い以上、どこかに泊まる事も出来ない。
とりあえず誰かに泊めてもらおうと思い、悟に電話するが一向に出ない。
……無理か、あいつ今頃酔い潰れてるな。
宏章は東京にたいして知り合いもおらず、それでも何人か当たるが運悪く全滅だった。
……今は2月下旬だ、このまま外に居たら凍死するぞ。
宏章はゾッとした、すでに体も冷えてきていた。連絡がつかなかった数人からの折り返しを待とうと、暖を取る為近くのコンビニへ駆け込んだ。30分ほど店内をうろつき、流石に怪しまれるだろうと、一旦アパートへ戻る事にした。
……何やってんだ俺。
心の中で呟き、ため息をついてアパートに戻ると、部屋の前に人影が見えた。
……こんな時間に誰だ?
宏章が訝しんで恐る恐る近づくと、その正体に驚いた。
「さっきはどうも!」
それはまさかの、満面の笑みを浮かべた桜那だったのだ。
「えっ!……なんで⁈……どうしてここに⁈」
宏章はパニックになり、思わず変な声を出した後、挙動不審になりながら尋ねた。
「これ、落としたでしょ?」
桜那はクスッと笑って、宏章の目の前に財布と鍵をちらつかせた。
「ああっ!俺の財布!……でも何でここが?」
「免許証入ってたでしょ?それで住所見たの」
宏章はなるほど!と思い、心底安堵した。とりあえず見つかった事に安堵して、何故ここまで桜那が届けてくれたのかなんて、考えもしなかった。
手を伸ばして、「ああよかった!ありがとう……」と言いかけたその時、桜那がすっと財布を引っ込めてフェイントをかけた。宏章がまたしても、え⁈と驚くと、桜那がにっこりと笑った。
「はい、鍵。とりあえずさ、タクシー来るまで家で待たせてよ。こんな寒い中来たのに、そのまま返すつもり?」
宏章は困惑したが、確かに桜那の言う通りだと思った。こんな寒い中わざわざ届けてくれた上に、風邪でも引かせたら大変だ。何か思惑が隠れているかもなんて、全く疑いもせずに鍵を受け取り、言われるがまま部屋へ上げた。
桜那は溜まりに溜まった憤りから、もう完全に冷静さを失っていた。男の家に上がり込むなんて、自分から襲ってくれと言っているようなものだ。だが桜那は最悪の想定までしていた。
万が一乱暴されたとしても、大人しくしてその場をやり過ごせば、最悪殺されずには済むだろう。その後は証拠を残して警察にでも突き出せばいいし……などと考えていた。
おもちゃの様に扱われる事には慣れている。どうせ自分は、男の欲望を満たす為の愛玩人形のようなものだから。桜那はそんな投げやりな気持ちでいたのだ。
桜那を部屋に上げて、エアコンを点けて部屋を温めた。桜那は無邪気に「おじゃましまーす」と言うと、テーブルの前に座った。
宏章が困惑と緊張でどうしていいか分からず立ち尽くしていると、桜那はにっこり笑顔で「座ったら?」と促した。宏章がすとんと正座をすると、桜那は「はい」と言って、財布を宏章の目の前に置いた。
「あの……、わざわざありがとうございます……」
宏章が緊張気味にお礼を言うと、桜那は含み笑いをしながら答えた。
「ここまで届けてあげたんだから、相応のお礼してもらわなきゃ割に合わないよね?」
宏章はお礼と聞いてドキッとした。
「その……、謝礼って事?」
「お金払ってくれるの?」
宏章がおどおど聞き返すと、桜那は笑顔で尋ねた。
「もちろん!ここまで届けてくれた訳だし……」
宏章はパッと顔を上げて答えた。こういう場合、相場は多くて二割くらいだから、5万入ってたし……なんて頭の中で計算していると、桜那が「じゃあ10万貰おうかな」と、またしても笑顔で吹っかけてきた。
「10万⁈」
宏章が声を上げて青ざめると、桜那はぷっと吹き出して大笑いした。
「冗談だよ。それじゃあ恐喝じゃない」
宏章はホッとして呟いた。
「そうだよね……」
……バカだなこいつ、ちょろいな。
桜那はだんだんと宏章を揶揄うのが面白くなっていた。酔いも回って気が大きくなっていたのもあり、どんどんと調子づいてしまった。
「でも、何かしらお礼はしてもらいたいかな。私の言うこと、ひとつだけ何でも聞くとかさ」
「何でもって、例えば?」
宏章は怪訝そうな顔で尋ねる。
「それは今から考えるよ、とりあえず一緒に飲も!お酒とか無いの?」
桜那が答えると、宏章は戸惑いながらも冷蔵庫から買い置きしていたビールを差し出した。
桜那はビールを開けて勢いよくグビグビと飲み干す。カンを叩きつけるようにテーブルに置き、グシャっと音を立てて握り潰すと、日頃の鬱憤を宏章に向けて捲し立てた。
「今日もまた絡まれちゃったよ!あいつら私の事AV女優だからって、すぐヤれると思ってるんだよねー。失礼な奴ばっかだよ。あいつらだけじゃない。男なんて金と権力さえあれば、女はすぐ思い通りになるとか思ってるんだよね。ましてやAV女優なんて、性欲の捌け口の道具で、何してもいいって思ってるんだよ。私の事、同じ人間だなんて思ってないんだよ!」
桜那は眉間に皺を寄せ、険しい表情で悪態をついた。宏章はすぐに駿の取巻き達の事だろうと察した。
駿の取り巻きの連中は、女癖もガラも悪く、宏章ですら近寄らない様にしていたくらいだ。駿目当てで寄ってくる女の子達を餌食にしていて、酷い扱いをされた女の子達を何人も見てきた。桜那も駿目当ての女の一人だと思われたんだろう。桜那がどんな風に言い寄られたのか、容易に想像がついた。
そんな事を考えながら、宏章はまるで自分が叱られているかの様にしゅんとして肩を落とした。
桜那はてっきり「そうだね、大変だよね」なんて、あたかも自分は違うとばかりに、分かったフリして下心を丸出しにしながら、ここぞとばかりにセックスまで持ち込もうとするだろうと思っていた。予想外の反応に、すっかり調子が狂ってしまった。
……なんなの、こいつ。
桜那は宏章の反応にだんだんと苛立っていた。まるで自分がいじめっ子の様に思えてきて、無性に腹立たしくなったのだ。絶対に自分に反抗してこないのを分かっていて、相手の尊厳を傷つける卑怯者の様に。
……今まで私を都合よく利用しようとしたり、雑に扱ってきた連中とこれじゃ同じじゃない!
このやり場のない苛立ちに悶々としていると、ふとテレビの脇に自分のビデオが積まれているのに気付いた。「それ……」と言ってビデオに視線を向けると、宏章は途端に顔を真っ赤にして焦り出した。
……しまった!片付けるの忘れてた!
「あの……、これはその……」
宏章は慌てふためきながらと、しどろもどろに言い訳を考えていた。
「別に隠す事ないじゃない、私のファンなんでしょ?」
桜那が宏章に笑顔を向けると、宏章は顔を赤らめながら、はい……と素直に返事をした。
「私の作品、どれが一番好き?」
桜那が唐突に尋ねると、宏章は戸惑いながらもしばし考えて、「どれも好きだけど、強いて言うならMelty Pinkかな?」と答えた。
「へぇ……、あの作品のどこが良かった?」
桜那は少し困らせてやろうと思って、意地悪な質問をしたつもりだった。どこが良いも何も所詮はAVだ。行為がメインなのに良いも悪いもあるかと、わざと答えに困る質問をしたのだ。
4
桜那に感想を尋ねられ、宏章は迷う事なく答えた。
「表情とか、視線の動かし方とか……、あとはどの瞬間を切り取っても綺麗なとこかな。例えば映像をコマ送りで再生したとしても、どのコマも表情意識して美しく魅せているところとか、本当にプロだなって思ったよ!」
宏章は真剣に、熱く語った。
桜那はまさかそんな所を見ているなんて思いもしなかったので、驚きから目を見開いたまましばし固まっていた。桜那が急に静かになったので、宏章は次第に焦りからオロオロし始めた。
……あれ?俺なんか変な事言ったかな?
桜那は不安げにオロオロする宏章の表情に、思わず吹き出してしまった。
「そんな事初めて言われたよ。どうせ行為の所だけしか見てないんだと思ってたから。でも嬉しいよ、そこは私が撮影で一番意識してる所だから。ありがとう」
そう言って嬉しそうに笑う桜那に、宏章はドキッとしてしまった。
「あ、いやまぁ……、俺も男だから行為の所は興奮するけど……」
宏章が正直に答えると、桜那は「ふーん」と呟いてニヤリと笑った。
……だけど、どうせこいつも所詮男なんだろ。
……私の裸にしか、きっと興味ないんだ。
……早く脱がしたいって思ってるんだろうな。
「へぇ、じゃあここでヤッちゃう?私のファンなんでしょ?ラッキーじゃない?あわよくばって思ってたでしょ?」
桜那はあろう事か、いきなり宏章を試すかのようにけしかけた。いくら穏やかそうに見えても相手は男だ。普段の桜那なら間違いなく警戒し、軽はずみな事など絶対にしないはずが、どういう訳だか完全に油断して舐めてかかっていた。宏章のペースに、桜那は調子が狂っていたのだ。
さて、どう出るかな?ラッキーとばかりにそういう雰囲気に持ち込むかな?と構えてみるが、反応が無い。宏章は急に黙り込んで、心底不快とばかりに眉間に皺を寄せ、怒気を含ませた声で静かに言い放った。
「……しないよ、そんな事」
宏章は急に低い声を出し、さっきまでの人が良さそうな雰囲気が一変して、まるで別人の様だった。
……やば、怒らせちゃった。
桜那は一気に酔いが醒めて、みるみる血の気が引いた。途端に冷静になり、自分は何をやってるんだろうと焦った。
……いくらストレス溜まってたとはいえ、この人には何の関係もないのに。
そう思ったら急に自己嫌悪感が襲ってきて、桜那は俯いて黙りこくった。宏章は桜那の様子にハッと我に返った。宏章もまた、ムキになってとっさにキツい態度を取ってしまった事に焦っていた。
慌てて顔を上げ、「あ!ごめん……」と言いかけると、桜那は「そうだよね……、失礼な事言ってごめんなさい。私、帰るね 」と言って、タクシーを呼ぼうと鞄をゴソゴソし始めた。
宏章が気まずそうにオロオロしていると、桜那が「……あれ?」と言って、次第に焦り出した。「どうしたの?」と宏章が心配そうに尋ねると、「財布がない!」と言って、桜那が慌てて鞄をひっくり返したのだ。
「ええ⁉︎」
宏章は驚いて、大きな声を上げた。
そんな宏章をよそに、桜那は「どーしよう!」と涙目でオロオロしていた。
「ここまでタクシーで来たんだろ⁈お金払ったんじゃないの?」
「お金はちゃんと払ったよ!降りる時に落としたのかも!」
「俺、外探してくる!」
宏章はライトを手にして、外に飛び出して行った。
桜那も宏章の後について行って、外を探し始めた。植え込みや側溝など、ライトを照らしてくまなく探したが一向に見つからない。小一時間程探した頃、宏章が携帯で時刻を確認すると、すでに日付を跨いでいた。
「ないなぁ……、もう誰かに拾われたかな」
宏章が呟くと、桜那は「え⁈」と泣きそうな声を上げた。
「……もう!何やってんだよ!」
宏章は頭を抱えて、思わず大きなため息をついてしまった。だが、ごめん……と呟いて、しゅんと肩を落として小さくなっている桜那が可哀想になり、これで足りる?と言って、ポケットの財布から2万円を差し出した。
「そんな!悪いよ……」
「いいよ。元はと言えば俺が財布落とした訳だし。もう電車もないし、明日仕事なんじゃないの?」
そう言って、宏章は笑った。
「マネージャーに迎えに来てもらうし……」
桜那は言いかけたが、
「もう12時過ぎてるし、来てもらうのも大変だろ」
と宏章に諭されてしまった。
タクシーはものの数分で到着した。桜那が後部座席に乗り込むと、宏章は車を覗き込んだ。
「じゃあ、気をつけて」
勝手に押しかけて、こんなに迷惑をかけたのに……。突き放したりせず穏やかに笑う宏章を見ていたら、桜那は胸の奥が苦しく、なんだかこそばゆい気持ちになった。
「お金、ちゃんと返すから!」
「そんなのいいって!気をつけて帰りなよ」
桜那は慌てて訴えかけるが、宏章にあっさり返されしまった。桜那は照れくさそうに「……ありがと」と呟いた。
「あと……、余計なお世話かもしれないけど、もうこういう事はしない方がいいよ。じゃあ、おやすみ」
宏章はそう言うと、笑顔で見送った。
タクシーが見えなくなると、宏章はホッと一息ついて夜空を見上げた。冬の空気は澄んでいて、月がくっきりと白く輝く。
……あーあ、給料入ったばっかだったのにな。今月も切り詰めるか。
宏章はとほほと苦笑いするが、ふと別れ際の照れくさそうにお礼を言う桜那の顔が浮かんだ。
……まあいいか。
宏章は小さく笑ってため息をつき、部屋へと戻って行った。
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