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それから一週間後、宏章は仕事を終えて17時すぎに帰宅した。アパートの階段を登ると、部屋の前にちょこんと体育座りをした小さな人影が見えた。階段を登る音に気づいて、その影の主がこちらを見る。そして目が合うと、宏章は驚きから大きな声を上げた。
「桜那!……さん?」
桜那はゆっくりと立ち上がって、にっこり微笑んだ。
「いきなりごめんね。今日はこないだの事謝りにきたの」
「え?」
宏章は怪訝そうな表情を浮かべた。
「あとタクシー代返そうと思って……」
……それだけの為にわざわざ?
宏章はお金なんて返ってこないものだと思っていたので、桜那の行動に驚いていた。
「お金なんて別にいいのに……」
「そういう訳にはいかないよ!結構大金だったし、困ると思って……」
済まなそうに言う桜那が、何だかしおらしくて宏章は胸の奥がきゅんとした。
「連絡先も聞いてなかったでしょ?だから家まで来ちゃった」
桜那が困り顔で言うと、宏章はハッとした。
「あれ?どのくらいここで待ってたの?」
「うーんと30分くらいかな?あと30分待って来なかったら、出直そうと思ってたの」
今日は3月上旬にしては暖かい日で、昼間は20度近くまで上がったが、夕方には気温も下がり、だいぶ冷え込んで来ていた。
くしゅん!
桜那はくしゃみをすると、小さく震えていた。
「なんか寒くなってきたし、タクシー来るまで家で待たせて貰ってもいいかな?」
「あっ!とりあえずどうぞ」
宏章は風邪を引かすまいと、慌てて桜那を部屋へ上げた。
……昨日掃除しといてよかった。
宏章はひとまずホッとしてエアコンを点けると、桜那は「座っていい?」と言って、テーブルの前に座り込んだ。
「ごめん、うちコーヒーしかないんだけど……」
宏章はお湯を沸かしてドリップコーヒーを入れ始めた。「はい、どうぞ」と桜那の前に差し出すと、桜那は両手でカップを受け取って、「あったかい……」と嬉しそうに微笑んだ。
いきなり家まで来られて、普通だったら引いてしまいそうなのに……。桜那の仕草や表情がいちいち可愛らしいので、宏章はときめいてしまっていた。その突拍子もない行動さえも、何だか魅力的だと感じていた。
「あ、そうだ」
桜那は鞄からカラフルな小さいハートが散りばめられた柄の封筒を差し出した。封筒からは香水なのか、ふわっとかすかに桜那と同じ香りがした。
「こないだは迷惑かけて本当にごめんね。あとこれお詫び。好みとか分かんなかったから、とりあえずお菓子なんだけど……」
桜那はデパ地下のチョコレート専門店の紙袋を、宏章の前にすっと差し出した。
「え?そんなのいいのに……。なんか悪いよ」
桜那の律儀さに宏章は恐縮するが、「私がそうしたいだけだから、受け取って」と言って、桜那は済まなそうに笑った。宏章は戸惑いつつも、「ありがとう」と言って受け取った。
「こないだは酔ってたとはいえ、たくさん失礼な事言っちゃったし……。引いたでしょ?」
桜那は少し落ち込んだ様子で宏章に尋ねるが、宏章は「どうして?」と不思議そうに聞き返した。
桜那はそんな事ないよとお世辞でも言われるんだろうと思っていたので、そんな風に聞き返されるとは全く思っておらず、困惑してしまった。
「どうしてって……、ほら私バラエティではキャラ作ってるし。想像してたイメージと全然違うって思わないの?」
「あぁ!その行動に驚きはしたけど、別に引いてはいないよ」
桜那は予想外の宏章の反応にまたしても驚いた。
だいたいは見た目のイメージで、勝手に人間性まで都合よく決めつけられ、それが予想と反すると大抵の人なら失望してしまうだろう。イメージで売るのが仕事な桜那なら尚のことだ。
「あの時、私結構ストレス溜まってて……。私のファンだって聞いて、ちょっと揶揄ってやろうって。こいつになら、酷い事言って傷つけたっていいだろって思ってたの。完全にやつ当たりだし……。嫌な奴だよね……、本当にごめん」
桜那はしゅんとして肩を落とす。
宏章は包み隠す正直に胸の内を明かす桜那に驚いていた。そしてその律儀さと素直さに胸を打たれた。
「本当に嫌な奴なら、そんな事わざわざ言ったりしないんじゃない?」
宏章がコーヒーに口をつけながら穏やかに言うと、桜那はまた驚いて顔を上げた。
……なんなの、この人。
この間もそうだ、桜那は宏章のペースに完全に調子が狂っていた。だけど不思議と心地良くて落ち着く……こんな人に会ったのは初めてだった。この間初めて、それもたった一回会っただけなのに……それと同時に、桜那は宏章に興味が湧いた。
「ねぇ、連絡先聞いてもいい?」
桜那は気付けば自分から連絡先を聞いていた。本当はもっと警戒すべきなのかもしれない。だけどそれよりも興味の方が勝った。「あの一件」以来、仕事だろうが、プライベートだろうが、誰とも連絡先なんて交換した事もなかったので、自分でもその行動に驚いていた。宏章もまた、連絡先を聞かれるなんて微塵も思っていなかったので、え?と戸惑った。
「あ、嫌……?」
怪訝そうな宏章の表情に、桜那は困った様子で少し寂しそうな顔をした。そんな桜那の顔を見て、宏章は慌てて聞き返した。
「いや、いいけど……。なんで俺なんかの?」
「私、友達とかひとりもいないし。それに……、なんか宏章くんとは、もっと話してみたいって思ったの」
おそらく異性としてではなく人間的な興味なんだろう。桜那は自分でもこの感情がよく分からなかったが、自然とその言葉が口をついて出た。
宏章は桜那の言葉に舞い上がっていた。自分は平凡で特に誰の印象にも残らない、つまらない人間だと思っていたから。そんな風に興味を持ってもらえるなんて、思ってもみなかったのだ。
連絡先を交換すると、桜那が遠慮がちに「ありがと。……また遊びに来てもいい?」と尋ねた。
宏章が「いつでもどうぞ」と穏やかに言うと、桜那はパッと表情が明るくなった。
「あ、それと桜那でいいよ!私の方が歳下なんだし。私も宏章って呼ぶから!」
桜那はさっきまでの遠慮がちな態度が嘘のように、あっけらかんと言った。
そうこうしているうちにタクシーが到着した。 桜那は満面の笑みで、「それじゃ、またね宏章!」と言って去って行った。
宏章は桜那の勢いに押されて、しばしぽかんとしていた。まだ今日の出来事が信じられずにいたのだ。もう会うこともないだろうと思っていたのに、家まで来て、連絡先まで交換する事になろうとは……。
宏章は桜那が置いて行ったお菓子の包みを開けた。中身はチョコレートのクッキーだった。ひとつだけつまんで口に運ぶと、いい香りとともにじゅわっと甘さが広がる。
落ち込んだり喜んだり……めまぐるしく変わる桜那の表情を思い出して、宏章は胸の高鳴りがしばらく収まらなかった。
2
3月下旬 ある平日の昼下がりの午後に、桜那は宏章のアパートにいた。
あの日以来、桜那は何かと暇を見つけてはやって来て、宏章のアパートへ入り浸っていた。アパートへ来ても何をするでもなく、ただダラダラとおしゃべりをしたり、レンタルしてきた映画を見たり、かと思えば黙って携帯を見ているだけの時もあった。
いつも来る時は、桜那は決まってお酒とお菓子を持って来た。と言ってもお菓子にはほとんど手をつけず、酒ばかり飲んでいる。今日も昼間からワインを煽り、デパートのチョコレート専門店で買ったという生チョコを、ほんの一口二口食べただけだった。
「宏章、飲まないの?」
桜那は頬を紅潮させながら、首を傾けてじっと宏章を見つめる。宏章はテーブルごしに、地べたに置いたパソコンと睨めっこしながら、何やら真剣に調べ物をしていた。
「いや、俺はいいよ」
「なんでよ?今日休みでしょ?」
桜那はもうすでに出来上がっていた。
「こんな昼間からワインなんて飲む気になれないよ。それに俺が飲んだら、何かあった時困るだろ」
宏章が少々呆れ気味に答えると、「真面目だなぁ、宏章は」と言って、桜那はベッドを背もたれにして寄りかかった。
いつになく桜那は上機嫌だ。
桜那がふと窓辺に視線を移すと、部屋の隅の壁に立てかけられているギターが視界に入ってきた。
「宏章、助っ人でたまにギター弾くんだっけ?」
「ああ、そうだよ。そのつながりで桜那と知り合ったんだしね」
「そういえばそうだったね。それであの打ち上げの時に来てたんだもんね」
桜那は宏章と初めて会った日を思い出しながら、しみじみと呟いた。
桜那と出会った打ち上げの日。
あの日はまさかこんな風に、たまに一緒にアパートで時を過ごす事になろうとは夢にも思っていなかった。出会って間もないのに、こんなに打ち解けて話している事が心底不思議だった。
まず会える事自体、宏章にとっては奇跡の様なもので、会うのはおろかこうしてアパートで二人会話をしているのだ。宏章はそれが未だ信じられずにいた。また揶揄われているだけなんだろうと思いつつも、桜那から連絡が来るたび心躍り、舞い上がった。
桜那は思いついたように、突然「ねぇ、なんか弾いてよ」と言った。
「えー?何かって?」
宏章が気怠そうに聞き返す。
「宏章のギター、聴いてみたいんだもん♪」
そんな宏章をよそに、桜那が無邪気に可愛いらしくおねだりするものだから、「じゃあ聴きたいの言って。弾けるか分かんないけど」とつい答えてしまった。
桜那は少し考えて「んーと、……じゃあ悪の華」とリクエストした。
「悪の華?BUCK-TICKの?」
宏章は驚いて聞き返した。
桜那の見た目のイメージから、ロックなど到底聴きそうにないと思っていたからだ。
「意外だな……、ロックとか聴くんだ」
「うん、結構好きなの。よくお兄ちゃんが聴いてたから」
「桜那、兄ちゃんいるんだ!」
宏章は初めて聞く桜那の話にまた驚いた。
「うん、4つ上にひとり。私が三月生まれだから、三学年上なんだけど」
「へぇ、桜那が俺の5つ下だから……じゃあ俺の一つ……二学年下か」
宏章がそう言うと、桜那は伏目がちになりぽつりと呟いた。
「まあ、もうずっと会ってないけどね……」
桜那が一瞬寂しげな表情を浮かべたのを、宏章は見逃さなかった。
宏章は「わかった、ちょっと待ってて」と言って、YouTubeを検索した。動画を見ながら、なにやらぶつぶつと呟いた後、ギターに手を伸ばした。片膝を立てて、ギターを構える。一瞬ちらりと桜那を見て目が合うと、「ちょっと違うかもだけど」と言ってイントロのフレーズを弾き始めた。
「すごい!めっちゃうまいじゃん!」
何フレーズか弾き終えると、桜那は感激してと子どものようにはしゃいだ。
「ちょっと動画見ただけで弾けるなんてすごいよ!宏章ならプロになれるんじゃないの?」
桜那は満面の笑みで、興奮気味に捲し立てた。こんなに褒めちぎられるとは思ってなかったので、宏章は照れて顔を真っ赤にした。
「いやー、プロなんて俺には無理だよ」
「なんでよ?こんなに上手いのに?」
桜那は不思議そうに首を傾げた。
「これぐらいの奴なんて、他にも沢山いるよ」
「でも、そのためにバンドやってたんじゃないの?」
「最初はね。もしかしたらこれで食ってけるかもって自惚れてた時期もあったけど……。でもやってみて分かったんだ。やっぱプロになれる人って全然違うよ。それに俺、よく言われるんだ。意外と器用に色々やれるけど、それだけだって。俺、あんまり何かに夢中になった事がないから、人の心に響かないんだろうな」
宏章は視線を落とし、小さなため息をついた。
「でも私には夢中なんでしょ?」
「えっ?いや、それはそうなんだけど……」
桜那がけろっと言い放ったので、宏章は顔を真っ赤にして、しどろもどろになりながらあたふたし出した。
「私の心には、ちゃんと響いたよ」
桜那はしっかり宏章を見つめて、優しい笑顔を向けた。
桜那の言葉が、水に落ちた水滴が波紋を広げるように身体中に染み渡る。まるで酔っているみたいにふわふわと夢見心地だ。
「……ありがとう。嬉しいよ」
宏章は照れながらも素直に答えた。
その後、二人はいつもの様にテーブルに向かい合っておしゃべりをした。たわいもない話から始まり、お互いの近況や仕事の事など。
二人で会うのは決まって宏章のアパートで、相手は若い女の子、ましてやずっと憧れてきた女性だ。宏章にとって、こんなに何もかも完璧な理想通りの相手を目の前にしているのに、不思議と男女の関係に持ち込みたいとは感じなかった。
もちろん自分は男だし、全くそういう欲求がないと言えば嘘になる。実際に触れてみたい欲求に駆られた事は何度もある。でもそれ以上に、桜那と話していると知的好奇心が刺激されて、もっと話を聞いてみたいという気持ちの方が勝るのだ。
業界の話や仕事に対する自身の考え、スタンス……そのどれをとっても新鮮で、尊敬の念と新たな気付きが次々と生まれる。単調な毎日が、色鮮やかに変化する。
女性としてはもちろんだが、より人間的な魅力を感じていた。今まで付き合った彼女は何人かいたが、女性に対してこんな風に思ったのは、桜那が初めてだった。
ひとしきり話し終えて、各々が自分の行動をする。宏章はパソコンで資格取得の為の調べ物を、桜那はテレビ収録の台本を読み込む。とくに会話はないが、沈黙が全く苦にならず、むしろお互いをとりまく空気感がなんとも心地良い。お互いが側に居るという安心感を感じ取っていた。
宏章は調べ物を終えて、パソコンを静かに閉じた。窓からオレンジの光が差し込み、カーテンがゆらゆら揺れている。時計に目を遣ると、時刻は16時に差し掛かろうとしていた。
桜那の方へ視線を向けると、テーブルに伏せてすやすやと静かに寝息を立てていた。
……いくらなんでも無防備すぎない?俺も一応男なんだけど。
風が冷たくなって来たので、窓を閉めて桜那の肩に毛布をかける。
西日が透けて、今にも消え入りそうな桜那を頬杖をつきながらしばらく眺めていたが、宏章は無意識のうちに、桜那の柔らかな髪へと手を伸ばしかけた。
その時、くしゅん!と可愛らしい音で桜那が目を覚ました。宏章はハッと我に返り、素早く手を引っ込めた。
「ありゃ……、ついうとうとしちゃった……」
「あ、起きた?しばらく眠ってたよ」
宏章は慌てて、何事もなかったかの様に振る舞った。
桜那は寝ぼけ眼で体を起こし、うーん!と伸びをして一息つくと、「そろそろ帰ろうかな。明日早いし」と言ってタクシーを呼び、片付け始めた。
タクシーを待っている間、桜那は鞄から手帳を取り出してスケジュールの確認をしていた。宏章が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、桜那の前にそっと置く。桜那は「ありがとう」と言って、水を口に含んだ。
宏章は水を飲む桜那の口唇を、無意識のうちに横目で眺めていた。すると桜那がパッと顔を上げて宏章へ尋ねた。
「宏章、次いつ休み?」
「明日から三連勤だから、四日後かな」
桜那は「ふーん……」と呟いて、しばし手帳と睨めっこしていた。
「その日予定ある?」
「いや、特にないけど……」
……またうちに来るのかな。
宏章がぼんやりそんな事を考えていると、桜那が唐突に切り出した。
「前の日、仕事終わったらうちのマンションに来てよ」
宏章は驚いて目を見開き、えっ⁈と思わず変な声を出してしまった。そんな宏章をよそに、桜那はお構いなしに続ける。
「毎回タクシー代も馬鹿になんないしさ。それに私、いっつも飲んじゃうからそのまま寝たいし。宏章の家に泊まるわけにはいかないでしょ。次の日休みなら、多少遅くなっても平気だよね?」
……泊まってけって訳じゃないのか。
宏章はガッカリしたようなホッとしたような複雑な気分だった。嫌?と桜那が少し困った顔をしたので、宏章は首を横に振った。
「いいよ。俺が行くよ」
「じゃあ、後でマンションの住所送るね。着いたらメールして」
桜那はにっこりと笑って、部屋を後にした。
宏章はまだ心臓がバクバクしていた。
間髪を入れずにメールの着信が鳴る、桜那からだ。
『今日はありがと! おやすみ♡』
宏章はメールを見るなり、ふっと小さく笑った。
……まぁいいか。
男として意識されていないのかもしれないけれど、少なくとも信頼されているのは伝わってきて、それだけで充分だった。
翌日、宏章は出勤前にゴミ出しをしようとキッチンへ行くと、だいぶビンとカンが溜まっていた。ここのところ桜那が来て、アパートで飲んでいくからだ。
……あーあ、すごい量だな。
宏章がビンとカンをまとめていると、ふと思いついた。
……桜那に地元の酒でも持ってくか。
宏章は早速実家の母に電話して、最近のおすすめを数本見繕って送ってもらう事にした。翌日には、早々に宅急便で届いた。酒の他に野菜や米なども一緒に送られてきており、「飲み過ぎないように!」と母の字で一言メッセージが添えられていた。
……俺が飲む訳じゃないんだけどな。
苦笑いしながら中身を確認していると、『桜花』とラベルの貼られた日本酒が目に留まった。
……これにするか。
宏章は桜那の喜ぶ姿を思い浮かべ、明日の約束を心待ちにした。