テラーノベル
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京橋から小包が届いたのは、一月の二十日のことだった。
差出人は、『婦人の窓』の大庭さん。油紙をほどくと、手紙と、丸めた紙が一枚出てきた。
「お手紙拝見。遅くなってすみません。例の三流紙は、うちの近所の裏通りの印刷屋が請け負っております。親方の昔の弟弟子の店でして、親方が酒を一升提げて口説き落としました。刷り出しの一枚目、つまり機械の調子を見るために上等の紙に刷ったやつです。網目版は、蛎殻町の三好製版所が作ったものだろうと、親方が申しております。
追伸。白鷺の一女学生という方から、えらく威勢のいい投書が届きました。来月号に載せます」
私は、丸めた紙を広げた。
あの号外と、同じ頁だった。けれど、紙が違う。白く、目の詰んだ上質の紙に、濃いインクで、くっきりと刷られている。
写真の中の、私の字。
あの先生さへ、お黙りになれば、すべて、済みます。栞。
*
その夜、洋館の書斎で、冬馬様の机の電気スタンドを借りた。
笠を傾けて、光を紙に集める。ルーペを当てた。
網目版は、写真を、細かい点の集まりに置き換えて刷る。濃いところは点が大きく、薄いところは小さい。点は、斜めに整然と並んでいる。
写真全体の点は、どこも同じ角度で並んでいた。
けれど、字の中を覗くと、違った。
「あ」の字の墨の中に、もう一段細かい点が、うっすらと並んでいる。網の中に、網がある。
「先」の中にも。「生」の中にも。
そして、その細かい点の並ぶ角度が、字ごとに、少しずつ違っていた。「あ」は右へ傾き、「先」は左へ傾いている。
「どういうことだ」
冬馬様が、私の肩越しに覗きこんだ。
「一度、網目版に刷ったものを、もう一度写真に撮って、網目版にしているのです」
私は、ルーペを紙から離さずに言った。
「元の手紙を、まず写真に撮って、網目版で刷る。その刷り物から、字を一つずつ鋏で切り抜いて、台紙に貼り並べる。貼るとき、一字ずつ、少しずつ傾きが違ってしまう。それを、もう一度撮った。だから、字の中に古い網が残って、その向きが、字ごとにばらばらなのです」
「なぜ、そんな手間を」
「元の手紙を、手元に置いておけなかったからだと思います。一晩だけ借りて、写真に撮って、すぐに返さなければならなかった」
ルーペを、「黙」の字に移した。
息が、止まった。
「旦那様。この字の中には、古い網がありません」
「黙」の墨の中だけ、細かい点が、一つも見えなかった。字の縁も、ほかの字よりなめらかすぎる。
「筆で、描いたのです。元の手紙に、この字がなかったから。礼状に、黙れなどという字は、書きませんもの」
字と字の継ぎ目には、白い絵の具で塗りつぶした跡が、かすかに残っていた。切り貼りの境目を、修整の筆で消したのだ。
*
礼状。
私は目を閉じて、四月の家令室を思い出した。
拝啓、春暖の候。このたびは、私どもの婚礼に際し。百通、同じ文を書いた。宛名に先生とつく方も、何人かいた。旧藩士会の世話役の先生。宇佐美先生。
そして、文の終わりには、一通ごとに、栞、と。
ルーペを、最後の一字に当てた。
栞。
木の、縦の画が、ほんのわずかに長い。はねずに止めるはずのところで、筆が、すっと下へ滑っている。
覚えていた。
六十通目あたりで、手が疲れて、筆が滑った。栞の木が、だらしなく伸びた。私はその一枚を書き損じにして、書き直したのだ。
書き損じは、三枚あった。
「その三枚を、どうした」
冬馬様が、低い声で訊いた。
「家令室の、屑籠に入れました。翌朝には、屑籠は空になっていました。誰が空けたのかは、存じません」
冬馬様は、黙って、左の眉を指でなぞった。
外へ出た礼状なら、百通の中のどれかだ。けれど、書き損じは、一度もあの家から出ていない。
「それに、旦那様。字の下の罫紙を、ご覧ください」
写真の地には、子持ち罫と、今の紋が写っていた。輪の中に、葉が五枚。
「切り抜いた字を貼り並べた台紙は、礼状と同じ、家令室の罫紙です。白紙のまま、一枚」
四月に私が捨てた書き損じを、誰かが屑籠から拾い、七か月ものあいだ、しまっておいた。そして、まっさらな罫紙を一枚添えて、外へ渡した。
冬馬様が、机の端を、手袋の指で強く押さえた。
「家の中の者だ」
私は、うなずいた。うなずくことしか、できなかった。
*
二日後、冬馬様と、蛎殻町へ出かけた。
自動車を表通りに待たせて、細い路地を歩く。米問屋の蔵の並ぶ裏手に、焼き芋の屋台が、白い湯気を上げていた。
冬馬様は、黙って屋台の前で足を止め、手袋のまま、一本買った。
二つに割る。大きいほうを、私の手に載せた。
「熱いぞ」
「……旦那様が、買い食いを」
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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「外のものなら、いい。私の目の前で焼いたものだ」
冬馬様は、小さいほうを、手袋の指でつまんで一口かじった。それから、熱そうに眉を寄せた。
私は、笑いをこらえながら、芋を吹いた。
路地の冷たい風の中で、手のひらだけが、ほかほかと温かかった。
三好製版所は、路地の突き当たりの、煤けた二階家だった。
薬品のつんとした匂い。奥に、大きな箱のような写真機が据えてある。前垂れをかけた白髪の老人が、硝子板を光に透かしていた。
与平、と名乗った老人は、最初、知らぬ存ぜぬを通した。
私は、黙って、刷り出しの紙とルーペを、作業台に置いた。
「この黙の字だけ、古い網がありません。筆で描いて、上から網をかけ直している。継ぎ目の白も、筆の運びが、たいそうお上手です。こんなに細い筆を、迷わずに使える方は、そうはいらっしゃらないでしょう」
老人は、ルーペを手に取って、長いあいだ覗いていた。
やがて、深いため息をついた。
「……その黙は、わしが描いた。素人には、わかるはずがないと思っとったが」
老人は、ルーペを置いた。
「黒木という記者だ。『帝都夜話』の。十一月の半ばの夜中に、書き損じの手紙を三枚持ちこんで、写真に撮らせた。朝までに返さにゃならん、と急かしてな。それから二日ほどして、切り貼りの台紙を持ってきて、継ぎ目を消して、黙の字を描き足せと」
「誰の言いつけで、と黒木は申しましたか」
「言わんよ。ただ、金の払いだけは、えらくよかった。あいつの懐から出る金じゃない」
冬馬様が、作業台に名刺を一枚置いた。
「この刷り出しを、壁に貼れるほど大きく引き伸ばせるか。字の中の網が、離れたところからでも見えるように」
老人は、名刺の肩書きを見て、目を剥いた。それから、刷り出しと私の顔を、何度も見比べた。
「……できますよ。わしの描いた黙が、恥をかくところを、自分で拵えるってわけですな」
老人は、苦笑いをして、前垂れで手を拭いた。
そのとき、表の戸が、がらりと開いた。
鳥打帽に、擦り切れた背広の男が入ってきた。煙草の脂で、指先が黄色い。
「与平さん、こないだの版を」
男は、私と冬馬様を見て、凍りついた。
「黒木か」
冬馬様が、静かに言った。男の顔から、さっと血の気が引いた。
「誰に頼まれた」
黒木は、一瞬、言葉に詰まった。それから、口の端を歪めて、笑ってみせた。
「侯爵様。種の出所を吐く記者が、どこにおりますかね」
冬馬様が、一歩踏み出す。黒木は、それより早く、戸口から路地へ飛び出していった。
老人は、遠ざかる足音に耳を澄ませて、首を振った。
「あいつは、殴られたくらいじゃ吐きませんよ。ただ、ひどく見栄っ張りでしてな」
老人は、作業台の上の刷り出しを、指でとんと叩いた。
「記者連中の前で恥をかかされるのが、あいつは一番こたえるでしょうな」
コメント
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おお…これはまた凝った話でしたね。印刷技術、網点の角度、切り貼りの痕跡——そういう“モノが語る嘘”の暴き方に、古書を扱う者としては胸が熱くなりました。 特に「黙」の字だけ古い網がない、つまり元の手紙には存在しなかった字を後から描き足した、という推理の積み上げ方が美しい。栞さんの観察眼と、それを支える筆跡への記憶——六十通目の書き損じの「栞」の字がだらしなく伸びた話まで出てくるのが、伏線の貼り方として見事です。 そして焼き芋。ああいう、緊張の合間に差し込まれる冬馬様の“外ならいい”という距離感の変化に、じんわりしました。あの二人だけの温度が、この物語のいちばんの贅沢ですね。