テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
1件
読み終えました……第49話、めちゃくちゃ熱かったです🔥 千代さんが一人で画架の布を外した瞬間から、もう息が止まるかと思いました。与平さんが「その黙はわしが描いた」って名乗り出たところ、痺れましたね……。叔父様が葉巻落として青くなって、最後に大奥様が膝をついて謝るシーン、重かったです。そして「お義父様の御遺言が二通」——そこがまだ鍵になりそうで、続きが気になって仕方ないです。 麗子様の煙草ホルダーと冬馬様の帯留め直す仕草、本当に絵になるなあって思いました。千代さん、もうあの頃の震える子じゃないですね。本当に強くなった……🥀
「人前で恥をかかせるなら、私の得意よ」
麗子様は、象牙の煙草ホルダーを指に挟んで、そう言った。
軽井沢から戻ったばかりだという。断髪の襟足が、冬の陽に光っていた。
「日比谷に、新聞屋さんたちの溜まり場があるの。各社の記者が、昼間から碁を打って、噂を拾っているところ。そこの世話役に、父が昔、貸しがあってね」
麗子様は、私を見て、細い眉を上げた。
「勘違いなさらないで。あなたのためじゃないわ。千鶴さんのお友達を、あんな紙屑に書かせておくのが、我慢ならないだけ」
*
一月二十七日の午後。
日比谷の、古い煉瓦の建物の二階に、記者倶楽部はあった。
煙草の煙で、天井が白く霞んでいる。だるまストーブの周りに、長い机と椅子が並び、各社の記者たちが三十人ほど、押し合うように座っていた。
「あれが、毒婦の三人目か」
「侯爵が、亭主面して付いてきてるぞ」
囁きと、忍び笑い。
最前列に、鳥打帽の男が、足を組んで座っていた。
黒木だった。
麗子様が、「久遠寺の三人目が弁明の会を開くそうよ。あなたの席も取っておいたわ」と、わざわざ知らせてやったのだという。黒木は、私と目が合うと、にやりと歯を見せた。
後ろの壁際には、大奥様が、背筋を伸ばして座っていた。証明なさい、と言った人は、その証明を自分の目で見に来たのだ。脇に、将臣叔父様と、分家の御当主が二人。叔父様は、葉巻をくわえて、ふんぞり返っている。
戸口のそばに、真柴さんが控えていた。
いちばん奥の暗がりに、古びた外套の男が、帽子を取らずに立っている。鬼塚警部補だった。冬馬様が、呼んだのだ。
前に据えた画架に、布を掛けた大きな板が立ててあった。
その脇に、長机。白い布の上に、手紙が十数通、並べてある。
始める前に、冬馬様が、私の前に立った。
手袋の指で、私の帯留めの、銀の活字を、まっすぐに据え直す。
「見るものに困ったら、私を見ていろ」
夏の夜会で、言われた言葉だった。
私は、うなずいた。もう、足は震えていなかった。
*
「皆様。『帝都夜話』が、私の手紙として載せた写真を、ご覧ください」
私は、画架の布を取った。
与平さんが引き伸ばした写真が、現れた。字の一つ一つが、私の手のひらほどもある。網目の点が、離れていても、はっきりと見えた。
「字の中を、よくご覧ください。墨の中に、もう一段細かい網が見えます。それも、字ごとに向きが違います。『あ』は右へ、『先』は左へ傾いている」
記者たちが、身を乗り出した。
「一度網目版に刷ったものから、字を一つずつ切り抜いて、台紙に貼り並べ、もう一度撮り直したものです」
「素人が、何をそれらしく」
黒木が、鼻で笑った。
そのとき、後ろの席から、年配の記者が立ち上がった。
「待て。俺は二十年、写真版の刷りを見てきた」
男は前へ出てきて、写真に顔を近づけ、うなった。
「二度網だ。間違いない。……こいつは、切り貼りの二度網だ」
倶楽部が、ざわめいた。
「もう一つ。『黙』の字をご覧ください」
私は、指で示した。
「この字にだけ、中の古い網がありません。元の手紙に、この字がなかったからです。筆で描き足して、上から網をかけました」
戸口の脇から、前垂れ姿の老人が、ぼそりと言った。
「その黙は、わしが描いた。黒木さんに頼まれてな」
与平さんだった。
黒木が、椅子を蹴って立ち上がった。
「じじい、てめえ」
私は、長机の手紙を手で示した。
「こちらは、私が四月に書いた礼状です。お受け取りになった方々から、お借りしました」
分家の御当主の一人が、自分の家の礼状に気づいて、ぎょっとした顔をした。
「写真の字は、どれも、この礼状の字と同じ癖をしております。私の字ですもの。けれど」
私は、写真の二か所を、続けて指で押さえた。
「すべて、の『す』と、済みます、の『す』。この二つを、よくご覧ください」
記者たちが、首を伸ばした。
「筆の入り方も、結びの輪の大きさも、最後のかすれまで、寸分違いません。人は、同じ字を、二度とまったく同じ形には書けません。一つの手紙の中で、二つの『す』が同じなのは、同じ一字を二度切り抜いて、貼ったからです」
一瞬の沈黙のあと、記者たちが、写真と礼状を見比べて、どっと笑った。
「網の上に網とは、恐れ入った」
「帝都夜話は、切り絵新聞だったか」
笑い声が、煙草の煙と一緒に、天井へ渦を巻いた。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
*
黒木の顔が、赤から、紫になった。
三十人の同業者の笑いの中で、鳥打帽を握りしめて、立ち尽くしている。
「違う。俺は、頼まれただけだ」
声が、裏返った。
「材料は、久遠寺将臣さんから受け取ったんだ。書き損じも、白い罫紙も、全部あの人から」
黒木は、背広の内側から、一枚の名刺を引きずり出して、机に叩きつけた。
「ほら見ろ。これが、あの人の名刺だ」
記者たちが、一斉に覗きこむ。
「株式仲買 久遠寺将臣」。裏に、鉛筆の走り書きがあった。例の品、よろしく頼む。
壁際で、叔父様が、葉巻を取り落とした。
「でたらめだ。そんな三文記者の言うことを」
奥の暗がりから、低い声がした。
「久遠寺さん」
鬼塚警部補が、帽子のつばに指をかけたまま、前へ出てきた。
「宇佐美医師の件を、自殺で片付けろと、上のほうへ口を利いて回ったのも、あなたでしたな。署の者が、皆そう言っとります」
記者たちの鉛筆が、一斉に走りだした。
分家の御当主たちが、叔父様の隣から、そっと椅子をずらした。
「お、俺じゃねえ」
叔父様が、赤ら顔を真っ青にして、立ち上がった。
「礼状は、屋敷の者から回ってきたんだ。俺が盗ったんじゃねえ。俺は、金に困ってる記者を紹介しただけで」
「屋敷の、誰からです」
冬馬様の声が、倶楽部の中に響いた。
叔父様は、口を開きかけて、閉じた。
目が、一瞬だけ、戸口のほうへ泳いだ。戸口には、何人もの人がいた。分家の供の者。倶楽部の給仕。真柴さん。
叔父様は、何も言わずに、椅子を倒して部屋を出ていった。
戸口の真柴さんが、静かに扉を開けて、それを通した。
屋敷の者。
私の頭に浮かんだのは、四月の家令室の、空になった屑籠だった。
あの屋敷には、使用人だけで十人を超える人がいる。家令室には、誰でも出入りできる。屑籠を空けるのは、女中の役目だ。
それでも、誰かが、七か月も、私の書き損じをしまっていた。
壁際で、大奥様は、最後まで一言も発しなかった。
ただ、叔父様の倒した椅子を、じっと見ていた。
記者たちが私を取り囲んで、口々に何か訊いてくる。冬馬様が、その輪の外から、私を見ていた。
目が合うと、ほんのわずかに、うなずいた。
それだけで、十分だった。
*
その夜、洋館の私の部屋の扉が、叩かれた。
開けると、大奥様が立っていた。
鈍色の着物に、黒い帯。扇は持っていなかった。代わりに、手に、一通の封筒を持っていた。
白鷺女学校気付、志摩栞様。
千鶴さんの手紙だった。
大奥様は、部屋に入ると、封筒を私の手に返した。
それから、絨毯の上に、膝をついた。
「今日、あなたは、証明しました」
能面のような顔が、ゆっくりと、下がっていった。
大奥様が、私に、頭を下げていた。
「大奥様、お手を」
私は、慌てて自分も膝をついた。大奥様は、首を振った。
「この手紙は、あの晩から、私の文机の引き出しにありました。何度も読みました。この家の紙は嘘をつく、と。……嘘をついたのは、紙ではありませんでした」
白い指が、絨毯の上で、きつく握りしめられた。
「あなたに、詫びねばならないことがあります」
顔を上げずに、大奥様は言った。
「小夜子の最後の手紙を、私が燃やしました」
声が、かすかに震えていた。
「『お義父様の御遺言が、二通あるのです』と、書いてあったから」