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第67話 現実の一部
縫季は、薄い層を見つめた。
そして、初めて理解した。
灯台は歴史を保存している。
だが――現実そのものではない。
灯台が見ている部分だけが、歴史として残っているのだ。
灯台は現実ではない。灯台は――現実の一部だ。
その理解は、縫季の中で静かに形を持った。
帝辛の魂の光が、薄い層に向かって揺れ続けている。
(……お前は知っていたのか)
記録されない層があることを。灯台の見えない場所があることを。保存されなかった歴史が――ここで消えかけていることを。
光は答えない。ただ――傾き続ける。
縫季は、静かに息を吐いた。
「……縫うか」
声が、この欠けの中に落ちた。
誰も聞いていない。灯台も。九尾も。
それでも――言葉にした。
縫香官の仕事は、裂け目を縫うことだ。世界線のほころびを止めること。
だが、今縫おうとしているのは――灯台からの任務要請でも、規定でもない。
記録されなかったものが、ここにある。消えかけている。もう少しで――なかったことになる。
それを、縫う。
縫季は小さく呟いた。
「機構の倫理じゃない」
掌の上で、帝辛の魂が強く脈打った。
「縫い手の倫理だ」
灯台に記録されないものも――縫う。
縫季は、薄い層へ踏み込んだ。
灯台の記録の外で。観測されない場所で。誰にも見えない欠けの中で――
縫い手は、静かに針を構えた。
◆
縫季は、ほとんど落下するように縫い目を越えた。
白い光が裂け、世界が反転し、視界が暗転する。
次の瞬間――
着地した。
その瞬間、膝が砕けた。
文字通り、骨が折れたような衝撃が走る。
縫季は敷石に手をついた。指先が痺れ、自分のものではないように遅れて感覚が戻る。
喉が焼ける。息を吸うたび、胸の奥が裂ける。
香が巡らない。
循環が遅い。止まりかけている。
(……立て)
命じても、足が言うことをきかない。
骨の中身が空洞になったような軽さと、鉛を詰められたような重さが同時にある。
視界が白く滲む。その白の向こうから、光が落ちてきた。
眩しい。
明るい。
縫季は、ゆっくりと顔を上げた。
市場だった。
焼き菓子の匂い。果実の甘さ。炭火の香ばしさ。
人の声が、笑いが、空気を揺らしている。
血の匂いはない。毒虫の気配も、焦げた鉄の臭気もない。
人々は、生きていた。
自然に、当たり前の顔で、笑っていた。
縫季の胸が、ひとつ跳ねた。
(……違う)
これまでの世界線とは明らかに違う。
胸の奥の光が、じんわりと温度を持つ。
帝辛の魂が、この世界を拒絶していない。
(……これが――保存に失敗した層か。正史が捨てた、別の記録。抹消されかけた再評価の資料層)
むしろ、微かに呼応している。
まるで「ここなら」と囁くように。
縫季は、人々の視線が一点に集まっているのに気づいた。
帝辛が立っていた。
陽を受け、穏やかな笑みを浮かべ、民に語りかけている。
「今日も殷は安泰だ。みなが笑っているなら、それでいい」
声が柔らかい。
命じる声でも、泣き声でもない。
茶を淹れながら低く笑った、あの声音。
子どもが転びかけると、帝辛はすぐにしゃがみ、手を差し出す。
「怪我はないか?」
自然な仕草。作為がない。
子どもは笑顔で頷き、また走り出す。
帝辛はその背を見送り、静かに微笑んだ。
縫季の喉が、熱くなる。
(……笑っている)
胸の光が強く脈打つ。
立ち上がろうとする。
だが足が震える。
視界が揺れ、地が傾く。
その瞬間。
帝辛が縫季を見た。
視線が合う。
帝辛は人々から離れ、縫季の前に立つ。
「そなた、顔色が悪いな」
縫季は答えようとして、息が詰まる。
帝辛の手が、縫季の腕を支えた。
その温もりが、はっきりと伝わる。
「少し休め。立てるか」
この帝辛は、倒れそうな者を見捨てない。
薬師が語った『昔の陛下』そのものだ。
帝辛は、ほんの少し笑う。
「倒れるな。私が困る」
その冗談めいた言い方が、あまりにも『知っている』帝辛だった。
コメント
1件
第67話、読み終えました……。 「記録されないものも縫う」っていう縫季の決断、すごく心に刺さりました。灯台のためじゃなくて、自分の縫い手としての倫理で動くところ、かっこよかったです。 帝辛が市場で子どもに手を差し伸べるシーン、切なくて温かくて……「知っている帝辛」って言葉にじんときました。この層を縫い止めてほしい、切実にそう思います。 続き、静かに待ってますね🌙