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第68話 五つの涙
夜。
宮の一室。
灯と茶卓だけの、静かな空間。
帝辛は自ら火を起こし、器を温め、湯を沸かす。
指先で温度を確かめる仕草。碗へ注ぐ動き。
全部、あの日と同じだ。
「飲め」
縫季は碗を受け取る。
温かい。
だが、ほんの僅かに香りが硬い。苦みが、少し強い。
胸の光が、かすかに震える。
(……気のせいか?)
帝辛が静かに言う。
「王でいるのは、思ったより孤独だ」
一拍。
「……不思議だ」
帝辛は縫季を見つめる。
「そなたの前では、少しだけ……王でなくて済む」
縫季の心臓が止まる。
「妙だな。名も知らぬ相手に、こんなことを言うとは」
そして、微笑む。
目尻が柔らかく下がる。口元が、ほんの少しだけ緩む。
「だが……そなたには、嘘をつきたくない」
(ここは……)
この帝辛なら、笑って終われる。
「倒れるな。拾うのは好きだが、できれば拾いたくない」
縫季は小さく笑う。
帝辛も笑う。
灯が落ちる。
縫季は眠りに落ちる直前、空気が僅かに甘くなるのを感じた。
袖の内側で、何かを砕く微かな音。
胸の光が、かすかに震える。
だが――縫季はその震えごと、押し殺した。
今だけは、疑いたくなかった。
(……疲れているだけだ)
そう言い聞かせ、眠りに落ちる。
◆
翌朝。
縫季が目を覚ますと、帝辛はいなかった。
市場は昨日と同じ明るさだった。
だが。
縫季は、違和感を覚えた。
笑い方が、僅かに硬い。
声の奥が、揺れている。
目が、笑っていない。
帝辛は柱の影へ回る。
縫季は追う。
柱の影。
そこに、小さな花壇があった。
縫季は思い出す。あの世界線で、帝辛が大切にしていた花壇。白い花。
しかし、その花壇を見た瞬間、息を飲んだ。
――荒れている。
土は踏み固められ、枝は折れ、水をやられぬまま枯れ葉が貼りついている。
白い花は咲いていない。
茎だけが残り、無惨に折れている。
縫季の胸が、冷えた。
帝辛は、壁に手をついた。
肩が震えている。
笑いながら。
泣いていた。
帝辛の袖から、小さな袋がこぼれた。
甘ったるい香が空気を満たす。
狂楽香。
昨夜の茶の苦み。眠る直前の甘さ。
全部、これだ。
帝辛はそれを砕き、吸い込む。
笑みが無理に持ち上がる。
「……笑えば……いい」
涙が止まらないのに、口元だけが笑っている。
「殷のため……民のため……」
胸の光が、悲鳴のように暴れる。
帝辛の魂が、この笑いを拒絶している。
その瞬間、黒闢が現れた。
帝辛は、すぐに涙を拭い、笑顔を作る。
黒闢は、帝辛の笑みを見て、静かに頷いた。
「陛下。美しい笑みです」
重たい手が肩に置かれる。
「その笑みこそが、殷を守ります」
帝辛は頷く。頷きながら、震えている。
縫季の膝が崩れる。
敷石に手をつく。
(違う)
縫季は、震える足で立ち上がる。
縫い目が、遠くで揺らぐ。
そのとき。
背後から視線を感じた。
縫季は振り返る。
市場の向こう。
帝辛が立っている。
黒闢の隣ではない。
少し離れた位置。
泣いた跡を隠しきれぬ目で、縫季を見ている。
狂楽香の甘さはない。
ただ、静かな疲労。
帝辛は近づかない。
呼び止めない。
ただ、ほんの僅かに微笑む。
あの日、茶を飲みながら見せた、あの笑み。
柔らかく。
どこか、寂しげに。
唇が、わずかに動いた。
声は届かない。
だが。
――行け。
そう言ったように見えた。
縫季の胸が裂ける。
視線を逸らした。
「……必ず見つける。」「お前の笑みも涙も、欠けずに残る線を」
掠れた声で呟き、縫季は縫い目へ踏み出す。
背後で。
帝辛の微笑みが消え、再び『王の笑顔』が貼りつく。
民の前へ戻っていく足音が聞こえた。
縫季は振り返らない。
世界が裂ける。
縫季は落ちていく。
五つの帝辛の涙を抱えたまま――
体は限界だ。
それでも。
胸の光だけは、温かい。
帝辛の魂が、まだそこにある。
縫季は、震える足で次の世界へ沈んでいった。
コメント
1件
第68話、めちゃくちゃ切なかった……🥀💔 帝辛の“王の笑顔”が仮面だって分かってるのに、黒闢の前で貼りつけてる姿が痛すぎた。狂楽香で無理やり笑ってるのに涙が止まらない描写、胸がぎゅってなったよ。縫季も気づいてるのに「今だけは疑いたくない」って押し♡♡♡とこ、二人とも優しすぎるよ…… 「行け」って口だけで伝える帝辛、泣ける。絶対助けてあげてほしい😭💫