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いつもの通り、仕事を終えた後。コバルトとセレンは、セレンの部屋で簡易な机に向かい、昼間に収集した情報を整理していた。ネオンの真実を知って以来、コバルトは悪夢に魘されることが増えた。夜中に苦しみに身を捩ることもあるが、それでも翌朝には、まるで何事もなかったかのように自ら切り替えて仕事に戻る。完全に乗り越えたわけではないが、その小さな変化が、セレンにとっては何よりも心強いものだった。
あの出来事から、およそ一ヶ月が経っていた。その間、コバルトとセレンは、これといった動きを見せず、他の研究員たちと同じように単調な事務作業と研究員としての生活を送っていた。目立たぬように、余計な詮索を避けるように。しかし、それは決して彼らの計画が停滞していたわけではない。むしろ、この一ヶ月で、二人が集めた証拠は既に十分な量に達していた。研究所が非人道的な人体実験を行い、被験者を商品として売買していたという、動かぬ証拠の数々。
残された課題はただ一つ。
「……あとは、どうやってこれを外に伝えるか、だ」
セレンは、静かに呟いた。机の上には、日々の業務で得たデータが収められたUSBメモリと、巡回用の研究所の見取り図が広げられている。外と一切の繋がりを遮断されたこの場所で、どうやって情報を持ち出し、世間に真実を暴くのか。それが、今、彼らを最も悩ませている問題だった。
次の日もまた、いつもと変わらない単調な一日が終わり、夜間巡回の時間になった。真っ暗な廊下を懐中電灯で照らしながら、コバルトとセレンは黙々と歩く。重く沈んだ静寂の中、時折、遠くから被験者のすすり泣きや悲鳴が聞こえてくる以外は、何の変哲もない夜だった。
二階の所長室の前を通り過ぎようとした、その時だった。
重厚な扉の向こうから、激しい口論の声が、微かに漏れ聞こえてきた。所長ストロン博士と、その妻で、被験者の健康管理を担当しているカリーナの声だった。博士はともかく、普段はおずおずとした態度で、穏やかなカリーナが声を荒らげているのを聞くのは初めてのことだった。
「ねぇお願いよ!こんな研究、もうやめてちょうだい!」
カリーナの悲痛な叫び声が、一瞬、廊下に響いた。
コバルトとセレンは、思わず足を止め、互いに顔を見合せた。扉に耳を近づけると、カリーナの嗚咽混じりの声が、さらに大きくなる。
「カルシアが……病院で、一人で苦しんでいるのよ! 容態が急変して、もう長くないかもしれないって連絡があったのよ!あなた、それでも研究を続けるっていうの!?…お願いよ、もうこれ以上は……!自分の娘を助けるためなら、どれだけの命を犠牲にしても構わないとでも言うの!?」
コバルトの背筋に冷たいものが走った。
「馬鹿なことを言うな、カリーナ!」
今度は、ストロン博士の怒鳴り声が響いた。その声だけでも、彼が酷く取り乱していて、激しい感情に満ちていることが分かった。
「まさに今こそ、この研究を完成させなければならないのだ!時間が無い!カルシアの命が、風前の灯火なのだぞ!私は医者として、父として、ただあの子を救うためにここにいる!あの子を救うためなら、どんな犠牲も厭わない! カルシアは、私の全てだ!この研究は、全てあの子のためにあるのだ!」
「全てはカルシアのためですって!?違うわ!あの子は、こんなことで救われても決して喜ばない!… あの子は、優しい子なのよ?多くの命を犠牲にした結果で自分が助かったと知ったら、深く苦しむわ! …私はせめて、あの子が穏やかに、残りの時間を過ごせるようにしてあげたいの!だから、お願いよ!こんな研究はもうやめて!いい加減現実を受け入れてちょうだい!」
ドンッ、と、中で何かが倒れるような鈍い音が響いた。セレンとコバルトは、反射的に体を硬直させた。
「では、お前はカルシアの命を見捨てろと言うのだな!?」
ストロン博士の冷酷な声が、凍てつくように響いた。
「カルシアは、私の、たった一人の娘だ!あの子の命を救うためならば、私はどんなことでもする!今、カルシアが生きているという現実を見ているから、私はこの研究を続けているんだ!」
その言葉の響きに、コバルトとセレンは息を呑んだ。博士の口からこぼれた、その言葉の背後にある、悲しみの深さが、研究所の目的が単なる科学的探求ではないことを明確に示していた。
扉の向こうからは、再びカリーナのすすり泣く声だけが、途切れ途切れに聞こえてくる。その声は、絶望と諦めが入り混じっていた。
コバルトとセレンは、無言で顔を見合わせた。この喧嘩が、単なる夫婦喧嘩ではないことは明白だった。それは、この研究所の、そしてストロン博士の抱える、より深く、個人的な闇を垣間見せた瞬間だった。
彼らは、静かに扉の前から離れ、足音を忍ばせて巡回を続けた。しかし、二人の心の中は、先ほどの口論の内容が、重い錘のように沈んでいた。
同じ頃、クロムは地下へと続く階段を降りていた。彼の顔には、今までよりも一層恐ろしく、不敵な笑みが浮かんでいた。先ほど、所長室の前を通りがかった際に、ダグラス夫妻の激しい口論を聞いていたのだ。
地下の焼却炉へと続く薄暗い通路に降り立つと、クロムは黒い手袋に包まれた手をゆっくりと持ち上げ、その指先で壁をなぞった。彼の表情には、感情がほとんどなく、まるで機械が言葉を発しているかのようだった。しかし、その内には、確かな興奮が満ちているのが、彼のわずかに上がる口角から見て取れた。ガラス玉のような瞳の奥に、不穏な光が宿る。
「……良いね、絶好のタイミングが来たみたいだ」
クロムは、小さく呟いた。
「これで、全ての準備が整った。あとは決行するだけだね……どんな顔を見せてくれるのか、期待してますよ。ダグラス博士」
彼の呟きは、誰に聞かれることもなく、静かに闇に溶けていった。その瞳の奥には、彼の企む何かが、静かに、しかし確実に動き出す予兆が宿っていた。
巡回を終え、コバルトは自室に戻った。部屋の電気をつけず、ただベッドに横たわる。ストロン博士の悲痛な叫びが、耳の奥でこだましていた。「あの子を救うためなら、どんな犠牲も厭わない!」。その言葉は、まるで自分自身に突きつけられているようだった。
ネオン。そして、他の数えきれない被験者たち。彼らが犠牲になったのは、病に苦しむ一人の少女を救うためだったというのか。ならば、自分たちがこの研究所の真実を暴けば、カルシアの命は確実に絶たれるだろう。優しいカルシアが、もし自分を救うために多くの命が犠牲になったと知ったら、本当に喜ぶだろうか?カリーナの言うように、深い苦しみを与えるだけではないのか?
憎悪と、哀れみと、そして罪悪感が、コバルトの心を深く苛む。彼が戦ってきた「悪」の根源が、あまりにも人間的な「親の願い」だったとしたら、自分たちの行いは、本当に正しいと言えるのだろうか。彼の心は、激しく揺れ動いた。夜は、答えの見えない葛藤の中で、静かに更けていった。
翌日の夜。コバルトは、セレンの部屋の扉をノックした。セレンは、いつものように簡易な机に向かい、昼間に収集した情報を整理していた。彼の傍らには、日々の業務で得たデータが収められたUSBメモリと、巡回用の研究所の見取り図が広げられている。外と一切の繋がりを遮断されたこの場所で、どうやって情報を持ち出し、世間に真実を暴くのか。それが、今、彼らを最も悩ませている問題だった。
コバルトはベッドに腰を下ろし、深い息を吐いた。昨夜から続いている葛藤は、彼を内側から蝕んでいた。
「……セレン」
コバルトが、かすれた声でセレンを呼んだ。
セレンは振り返り、コバルトの顔を見た。コバルトの瞳は、諦めにも似た、しかし決意の光を宿していた。
「……俺は、これ以上誰も犠牲にしたくない」
その言葉に、セレンの眉間に微かな皺が寄った。彼の計画の根幹と、コバルトの願いが、今、異なる方向を向き始めていた。