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「どういうことだよ?」
セレンの声には、戸惑いと、わずかな苛立ちが混じっていた。
「昨日、聞いただろう?博士の娘、カルシアのことを。もし、俺たちの計画を進めれば、彼女の命を奪うことになりかねない。彼女に罪はないんだ。他の被験者たちと同じように、彼女もまた、この状況の犠牲者だ。俺は、これ以上、誰も犠牲にしたくない」
コバルトの言葉は、率直で、しかし彼の揺れる心境を如実に表していた。
セレンは、資料から目を離さず、静かに言った。
「そんなの、オレたちの知ったことじゃないだろ。…どんな理由があったって、人体実験は絶対にやっちゃいけないことだ。それに、ここにいる子どもたちは、今この瞬間も苦しんでいる。オレたちだって、散々苦しめられてきた。それなのに、博士の娘の命を優先すんのか?…オレたちには、この真実を暴く責任があるんだ。彼らを救うためにも、そして、俺たち自身のためにも、計画を止めるわけにはいかない」
「だが……!」
「『だが』じゃない、コバルト。博士が哀れな父親だとしても、あいつの行いは許されない。オレたちは、感情に流されて計画をやめるわけにはいかないんだ」
セレンの言葉は、常に冷静で論理的だった。しかし、その冷静さが、今のコバルトには、まるで冷たい壁のように感じられた。
「お前は、大勢の命を救うためなら、一人の命を犠牲にしていいとでも言うのか!?」
コバルトの声が、感情的に高まる。
セレンは、初めて資料から完全に顔を上げ、コバルトの目を真っ直ぐに見据えた。彼の瞳には、一切の迷いがなかった。
「そりゃ、何とかどっちも救える方法があるなら、オレだってそうするぜ。…でも、どうしようもない現実だってあるんだ」
その一言が、コバルトの心を深く抉った。彼の抱えていた最後の希望が、脆くも崩れ去る音を聞いた気がした。
「……そうか。分かった」
コバルトは、それ以上何も言わなかった。セレンの部屋を後にし、自室へと向かう。彼の背中には、深い失望と、どうしようもない無力感が漂っていた。二人の間に、目に見えない深い溝ができた瞬間だった。
あれから一週間。二人は、仕事に必要な会話以外は、一度も口を効いていない。コバルトは一人、食堂で昼食を摂っていた。以前であれば、セレンも一緒だったのだが、あんなことがあった後では、とても一緒に食事を摂る気分にはなれなかった。更に、食事が喉を通らず、なかなか箸が進まない。
気が付けば、昼休みが終わる時間になっていた。コバルトは慌てて立ち上がり、食器を返却しに行った。
すると、誰かの厨房の方からすすり泣きが聞こえてきた。
「あの、大丈夫ですか?」
コバルトが声をかけると、厨房にいた人物はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。そこにいたのは、博士の妻のカリーナだった。その目には、深い悲しみと絶望が宿っており、焦点が定まらない。彼女の頬には、乾いた涙の筋が何本も走っていた。
「あら……ベックフォードくん……」
カリーナの声は、か細く、掠れていた。コバルトは、どう声をかけていいのか分からず、ただ見つめるしかなかった。二人はこれまで、研究所の廊下ですれ違うことはあっても、個人的な会話を交わしたことは一度もなかった。
「その…どうかされたんですか?」
コバルトは、尋ねる言葉を選びながら、ぎこちなく問いかけた。
カリーナは、小さく首を横に振った。その仕草すら、弱々しい。
「ごめんなさいね……なんでも…ないのよ」
そう言いながらも、彼女の瞳からは、また新たな涙が溢れ落ちそうになっていた。コバルトは、いてもたってもいられなくなり、思わず言った。
「もし、何かお話できることがあれば、聞きますよ」
静かに告げると、カリーナははっとしたようにコバルトを見た。そして、何かを決心したように、震える声で語り始めた。
「娘が……カルシアが…また容態が急変してしまって……病院から、もう長くはないかもしれないと連絡があったのよ。あの子は、病室で一人、苦しんでいるのに、あの人は……あの人は、まだやめようとしないの。この研究が、あの子を救う唯一の方法だと、そう信じて疑わない。でも、そんなこと……そんなこと、あの子が望んでいるわけがないわ」
彼女の言葉は、途切れ途切れで、その度に嗚咽が混じる。コバルトは、黙って耳を傾けた。彼女が語る言葉の全てが、彼の心に重く響いた。
「…あの子は、本当に優しい子なの。もし、自分が救われるために、どれだけ多くの尊い命が犠牲になったかを知ったら……あの子は、きっと深く苦しむわ。私は……私は、せめて、あの子が苦しむことなく、残りの時間を穏やかに過ごせるようにしてあげたいの。ただ、それだけが願いなのよ……」
カリーナは、縋るようにコバルトを見つめた。その瞳は、諦めと、しかし最後の微かな希望に満ちていた。
「ベックフォードくん、あなたにこんなことを頼むのは、おかしいと思うけれど……どうか……どうか、あの人を止めてちょうだい……」
その言葉は、コバルトの心に深く突き刺さった。彼の抱えていた葛藤と、カリーナの悲痛な願いが、まるで一つに重なるようだった。
「…分かりました」
コバルトは、彼女の願いに答えるように、力強く頷いた。
同じ日の終業後、セレンは自室で一人、ひたすら思考を巡らせていた。
(こうしちゃいられない。とにかく、打開策を見つけねぇと…何か無いのか?コバルトも納得出来て、迷わず計画を進められる方法が…)
しかし、どれだけ考えても、答えは出なかった。
「ダメだ、何も浮かばねぇ…」
セレンは、頭を抱えて呟いた。そして、再び考え始める。
(よし、一旦整理しよう。コバルトが悩んでんのは、オレたちの計画が博士の娘の死に繋がるかもしれないからで………待てよ…?オレたちが知ってるのは、この実験が博士の娘の病気を治すためで、その娘の病状は結構深刻だってことだけだよな…?てことは……もしかしたら、オレたちの知らないところに、何か解決のヒントがあるかもしれない。)
「…だったら、聞くしかないよな。あいつなら、きっと…」
セレンはそう呟いて、すぐに行動を起こした。
彼が向かった先は、地下室だった。
「クロム、いるか?」
呼び掛けても、返事はない。薄暗くじめっとした空間に、自分の声が反響するばかりである。
「いるなら返事してくれ。クロム」
しかし、何度も呼ぶうちに、奥にある霊安室の扉が開いた。
「…何だい?」
クロムは、扉の隙間から顔を覗かせ、迷惑そうに尋ねる。
「忙しいところ、悪いな。お前に聞きたいことがあって来た」
セレンが正直に答えると、彼は顔をしかめて聞き返した。
「聞きたいこと?…別にいいけど、僕はまだ仕事中だから、手短に頼むよ。」
「分かった。じゃあ、早速聞かせてもらう。お前の知るダグラス家について教えてほしい」
セレンが尋ねると、クロムは面倒くさそうにため息をついた。
「…あぁ、聞いてたんだね。この前の。まぁ、そんなことどうでも良いか…分かったよ、教える。元々、そういう約束だったしね」
そう言って、彼は悠然と語り始める。
「僕から見た博士は、目的と手段を履き違えて、大事なものを見失ってる、ただの馬鹿だよ。…叔母さんも似たようなものだね。少し冷静になれば、あんな馬鹿、何も怖くないって分かるのに……まぁ、そういうことだ。賢いセレンお兄さんなら理解出来てると思うけど、一言で言えば、あの人たちは呪われてるんだよ」
彼の冷え切った眼差し、全てを諦めたような声。
それは、セレンがよく知っている冷たさだった。博士の事情を「知ったことではない」「どうしようもない現実だってある」と一蹴した自分。あの時、心に満ちた、凍てつくような感情。
(もしかしたら、オレも…)
もし何かが違っていたら、自分も彼のように計り知れない闇を抱えることになっていたかもしれない。そんな可能性に、妙な胸騒ぎがした。
しかし、セレンはすぐに冷静さを取り戻した。
「そうか、分かった。ありがとうな、クロム」
そう言って、彼の頭を軽く撫でると、すぐに去って行った。
その夜。セレンはクロムから話を聞いた後、自室でダグラス家の情報を整理していた。彼の心には、クロムの言葉が重く響いていた。「あの人たちは呪われてるんだよ」。その言葉が、博士の狂気とカリーナの悲しみを、新たな視点から捉えさせていた。この研究は、カルシアの病気を治すためだけではなく、ダグラス家全体を蝕む 「呪い」そのものなのではないか。そして、この「呪い」を断ち切る唯一の方法は、全てを終わらせることではないか。
そんなことを考えていると、扉をノックする音がした。セレンは訝しげに扉を開けると、そこに立っていたのはコバルトだった。彼の顔には、どこか吹っ切れたような、しかし疲労の色も浮かんでいた。
「セレン、話がある」
コバルトの声は、落ち着いていた。セレンは黙って彼を部屋に入れた。コバルトは、カリーナとの会話の内容を、セレンにありのまま話した。カリーナの悲しみ、カルシアへの愛情、そして博士を止めてほしいという切なる願い。
セレンは、黙ってコバルトの話を聞いていた。彼の表情は次第に険しくなっていく。コバルトが話し終えると、セレンは深く息を吐いた。
「……そうか。実はさ、オレもクロムから話を聞いたんだ」
セレンは、クロムがダグラス家を「呪われている」と評したこと、そして博士が「目的と手段を履き違えている」という言葉をコバルトに伝えた。セレンの声には、以前のような冷徹さはなく、どこか苦渋の色が滲んでいた。
「あいつの言う通り、確かに博士も、博士の奥さんも、この研究に縛られて、呪われてんだと思う」
コバルトは、セレンの言葉に静かに頷いた。互いの視点が、少しずつ重なり合っていくのを感じた。
「彼らもまた、この研究に苦しめられている、被害者なのかもしれない。それを終わらせることが、ダグラス家を救う唯一の方法だと、俺は思う」
コバルトの言葉に、セレンの目が大きく見開かれた。それは、彼が導き出した結論と、まさに同じものだったからだ。
「…あぁ、オレもそう思った」
セレンは、机の上に広げられた研究所の見取り図に目を落とした。
「博士の娘の命を救う方法は、他にないのかもしれない。でも、この研究を終わらせれば、ダグラス家はこの地獄から解放される。そして、何よりも、これ以上、罪のない子どもたちが犠牲になることはなくなる」
コバルトは、セレンの言葉に力強く頷いた。二人の間にあった溝は、少しずつ埋まっていく。
「……じゃあ、俺たちは、この計画を、これまで以上に慎重に進めなければならないな。ダグラス家を救うためにも、そして、犠牲になった子どもたちのために」
セレンは、コバルトの言葉を聞き、静かに立ち上がると、コバルトの肩に手を置いた。
「ああ。絶対、成功させようぜ」
二人の間に、再び確かな連帯感が生まれた。かつてのような無邪気な友情ではない。しかし、より深く、複雑な感情が絡み合った、強い絆がそこにはあった。彼らは、互いの目を真っ直ぐに見つめ合った。その瞳には、葛藤を乗り越えた者だけが宿す、新たな決意の光が宿っていた。