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いま、こうして振り返ると、やはりわたくしは幸せだったのだと。
おだやかな人生だったのだと。 心の底から、そう思います。
苦しかったこと、辛かったこと。 そのようなものは疾うに失せ、ただただ、楽しい思い出だけ。
あの夏の思い出だけが、今でもずっと、わたくしのなかに息づいています。
心残りは……、もちろんあるのだと思います。
いつか、あなたに打ち明けた弱音。 あれはたしかに、わたくしの本心でした。
あなたがいて、あの子がいる。
欲を言えば、そんな日々のなかで、もう少しだけ生きていたかった。
ともに空を眺めたり、風を感じたり、草花を愛でていたかった。
わたくしは今でも、あの夏の直中に、あの一夏の場面に居ります。
いいえ。 ずっと踏み出せずにいるのです。 囚われているのです。
人の想いというものは、時に他人を縛ることがあると。
然ればわたくしは、呪に縛られた一人の女。
ですから、どうか…………。
そんなわたくしを哀れと思うなら、わたくしを救うと、そう仰るのなら、どうか、わたくしのことは、もうお忘れになってください。
そして、神としてどうか、どうか現世をお守りください。
妾の手から、お守りください。
お祭りの当日。 早起きをした私たちは、一旦それぞれの自宅で身支度を済ませた後、すぐさま白砂神社に取って返した。
もっとも人出が多くなるのは、露店に灯りが点る夕刻を過ぎた辺りかと思われるが、神事は今朝方から開始される。
警備体制の最終的な段取りを打ち合わせる史さんにほのっち、神職たちの姿を眺めつつ、私たちもまた、境内の隅っこでコンビニのおにぎりを囓りながら、今後の手筈を確認した。
日が高くなるに連れて、氏子衆が続々と参集し、拝殿内では神楽が始まった。
続いて、明戸さんパパが祝詞を宣った後、浜の方から汲んできた潮水を、参道から鳥居前へ、柄杓を使ってピシャピシャと撒いてまわった。
数名の氏子さんが、鳥居に貼っつけられた例のプリを見て、ギョッと目を剥いていた。
程なく、午前中の神事は滞りなく終了し、境内に設けられた集会用テントの下で、昼食が振る舞われた。
「みんなもどうぞ?」という明戸さんの厚意に甘え、私たちも氏子衆に混じって食事を終えた。
昼を過ぎると、地区の青年団がお囃子を披露し、徐々に境内が活気に満ち始めた。
商売を始める露店もチラホラと目につくようになり、そこかしこから良い匂いが漂ってきた。
巫女さんたちが二度目の神楽を舞い終え、明戸さんパパが今度は本殿の方で祝詞を宣った。
そのまま氏子衆を伴い、住宅地を抜けた先にある小さな浜辺へと、手桶に入った潮水を返しに向かった。
ふたたび神社に戻る頃には、茜色の西日が、境内に数多くの影を落とすようになっていた。
親子連れに、若い男女の二人連れ。
友達同士で元気にはしゃぎ回る子どもたち。
あちこちから、この夏の一時を満喫する声が聞こえてくる。
そういえば、春見大社の夏祭りが開催される日も近い。
みんなで気兼ねなく楽しめればいいなと、“護衛対象”に意識を向けたまま、頭の片隅でぼんやりと思う。
今のところ、何も起きていない。
神事は順調に進み、残るは夜の神楽舞いと、宵宮のラストを飾る提灯行列くらいだ。
白砂神社の纏提灯を先頭に、氏子衆やご近所さんが手に手に提灯を持って、この周辺を練り歩くという催しであるが、外に出るとなると、より一層気を引き締めて掛からないと。
「最後はつー姉ちゃんが踊るらしいよ?」
「ん、らしいね? てか、水分補給してる?」
「大丈夫! 千妃ちゃんは?」
「うん、さっきジュースもらった」
人混みに流されないよう注意しながら、音声アプリを通じ、幼なじみと言葉を交わす。
すこし緊張が解れた。
「けっこう人出てんなぁ、やっぱり」
「だね? 今年は夜店が多いって言ってたし」
私たちの視線の先には、当然史さんとほのっちがいる。
結桜ちゃんの教えに沿い、片時も目を離していない。
さすがにトイレまで付いて行こうとした時は怒られたが。
現在、二人は拝殿の近くで、客筋をチェックしているようだった。
この人出の中に、善からぬモノが紛れ込んでいないか。
逐一に目を光らせて、自分たちの役割に従事している。
側には数名の巫女さんがいて、視線をそれとなく辺りへ泳がせているのが分かる。
明戸さんの応援要請に応じてくれた、頼もしい味方たちだ。
結桜ちゃんと琴親さんの姿は、夕食からこっち、一度も見かけていない。
彼女たちのことだから、周縁の警戒を秘密裏に、綿密に熟してくれているのだと思う。
その証拠に、インカム代わりのイヤホンには、「北側は異常ありません。 東側が少し混雑しています」等、都度ごとに几帳面な報告が入っていた。
「ちょい離れすぎかもな………」
「うん。 もうすこし寄っとこう」
「その、横辺りがいいよ。右っ側。 人少ない」
お祭りに乗じて、敵が事を起こす。
それはあくまで私たちの憶測だ。
このまま、何も起こらなければいい。
ただの杞憂なら、それに越したことは無い。
「痒い。 なんか蚊多くね? こんなもんか」
「ん………、そうかな? あ、ホントだ」
「私も噛まれたよ………」
けれど、甘かった。
私たちの周りで、何気ない日常を装った些細な異変は、すでに起こり始めていたのである。