テラーノベル
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周囲の者たちは、しばらく動かなかった。やがて、一人、また一人と回廊を離れていく。
清帝だけが、その場に残った。
水庭の方から、かすかな風が流れてくる。先ほどまで見ていた静かな水面が、急に遠く感じられた。
北の倉の騒乱を鎮めたのは、戦勝の宴を控えたあの頃だった。
清帝の記憶が、ふと別の日へ繋がった。
あの宴の膳に、銀鯉が上がったのも、同じ頃だ。
一人の男を裁いた手と、一皿の美しさに心を奪われた口は、同じ自分の中にあった。罪と感嘆が、同じ日々の中で並んで起きていたことに、清帝はこれまで気づいていなかった。
美しいと言った日、余は誰かを斬っていたのかもしれない。
その符合は、清帝の胸に新たな重さを置いた。
「陛下」
背後から声がした。
清帝は振り返った。
炊源が立っていた。
手には、小さな椀を持っている。湯気が立っていた。
「温かいものを」
炊源は静かに差し出した。
清帝は椀を見た。
「余を慰めるつもりか」
「いいえ」
炊源は首を横に振った。
「手が冷えておいででしたので」
清帝は自分の手を見た。冷えている自覚はなかった。だが、椀を受け取ると、指先に熱が染みた。
淡い野菜の湯だった。豆腐と青菜が少しだけ入っている。匂いは強くない。喉を通るための、穏やかな温かさだった。
「見ていたか」
「少し離れて、おりました」
「余は、あの者を斬った」
「存じております」
「国を保つためだった」
「その御判断であったことは、分かります」
「それでも、あの者は余を恨む」
炊源は、すぐには答えなかった。
「あの方には、恨むことしか残っておらぬのかもしれません」
清帝は椀を見下ろした。
炊源の返事は、どれも短かった。責めもせず、慰めもせず、清帝の言葉を一つずつ受け止めていた。
「こういうことは、生前にもあった」
炊源は黙っていた。
「斬った者の父が、宮門の前で余を呪った。流した一族の娘が、拝謁の場で余を睨んだ。赦さなかった罪人の母が、余に石を投げようとしたこともある」
清帝は淡い湯気の向こうを見た。
「死後も同じだ。こちらへ来た者は、なおよく覚えている」
清帝は、かすかに息を吐いた。
「間違いではない日もあった」
炊源は何も言わなかった。
清帝は一口、湯を飲んだ。
淡かった。だが、弱くはなかった。
「あの者は、余を許さぬと言った」
「聞こえておりました」
「許さぬままでよい」
炊源が、わずかに顔を上げた。
「余が見るべきは、赦しではない」
清帝は短く言った。
「切った後に、残ったものだ」
それだけだった。
多くを語らなかった。語れば、また裁きになる。
炊源も、それ以上は問わなかった。
「陛下」
「何だ」
「お冷めになります」
清帝は、わずかに目を伏せた。
「そなたは、そこでそれを言うのだな」
「料理人でございますので」
「そうか」
清帝は、椀をもう一度口元へ運んだ。
男の声はまだ残っている。
俺は許さない。
その言葉は、清帝の胸に沈んだ。沈んだまま、消えなかった。
消えないものとして、そこに置くしかない。
炊源は何も言わず、少し離れて立っていた。
湯気が、二人の間を静かに上っていった。
コメント
1件
うわあ、このエピソードめっちゃ沁みた……。清帝の「許さぬままでよい」って台詞、重たいけど貫かれた覚悟を感じたよ。それに炊源の「お冷めになります」で場の空気がふっと柔らかくなるところ、料理人としての距離感が絶妙で泣ける。罪と感嘆が同じ日々の中にあったって気づくシーンも、すごく人間臭くて刺さった。いい話読ませてもらったわ、ありがとう!