テラーノベル
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厨房へ戻ると、炊源はしばらく入口で足を止めた。
火は落ちていない。鍋はまだ温かく、次の仕込みを待つ食材が並んでいる。
青菜。豆腐。根菜。干した茸。小魚。白い身をした魚が、一尾、布の上に横たえられていた。
この食堂の食材は、生前の世にあったものと、まったく同じ仕組みで届くものばかりではない。かたちだけを与えられたものもある。誰かの懐かしさから生まれたものもある。かつて命だったものの名残に近いものもある。
それでも、炊源の手に乗れば、すべて料理へ向かう。
炊源は水場へ行き、手を洗った。
指の節には、もう黄河の冷えはない。だが、包丁を握ってきた年月は、死後の手にも残っている。
生前、炊源は多くの魚を捌いた。鳥を裂き、獣を切り、野菜の根を落とし、豆を煮た。死後もまた、食堂に立ち続けている。
数えきれないほどの命を、かたちを、匂いを、熱を、皿へ移してきた。
銀鯉だけではない。
特別だったから覚えている命もある。あまりに日々の中にあったため、名も形も思い出せない命もある。
そのどれもが、炊源の手を通った。
炊源は調理台の前に立った。
並べられた食材たちへ、胸の前で両手を重ねる古い礼を取る。
人へ向けるはずの礼だった。
だが炊源は、その形で食材へ頭を垂れた。
「ありがとうございます」
声は小さかった。厨房の湯気の中へ、すぐに溶けるほどの声だった。
それから、炊源はもう一度、深く頭を下げた。
「そして、申し訳ございません」
誰も返事はしなかった。
青菜は青菜のまま、豆腐は豆腐のまま、魚は静かに布の上にあった。
だが、炊源は頭を下げ続けた。
料理人の手は、いつも何かを終わらせる。そして、何かを渡す。
食べる者の体へ。記憶へ。明日へ。
どれほど丁寧に扱っても、命を扱う手であることは変わらない。
だから、礼を言う。だから、詫びる。
厨房の入口の外に、青鱗が立っていた。
炊源は気づかない。気づかぬまま、調理台の上に並ぶ食材へ深く頭を下げている。
青鱗は、何も言わなかった。
その言葉が、自分一人に向けられたものではないことは分かった。
銀鯉だけではない。名を残した命だけではない。炊源の手を通った、数えきれないものへ向けられた言葉だった。
青鱗は、わずかに目を細めた。
許しではない。
だが、知らなかった手の重さを、また一つ見た気がした。
厨房の奥で、炊源が包丁を取る前に、もう一度だけ食材を見る。
粗末には、いたしません。
声にはならなかった。けれど、その言葉は、今も手の内に残っていた。
青鱗は踵を返した。
水の気配をまとった衣の裾が、回廊の薄明かりの中で静かに揺れる。
その横顔には、まだ痛みがあった。
けれど、怒り一色ではなかった。
厨房では、湯気が上がっている。
火は、まだ消えていなかった。
コメント
1件
うわあ……もう、冒頭から引き込まれてしまいました。炊源さんが食材に「ありがとうございます」と、そして「申し訳ございません」と頭を下げる場面、本当に胸が熱くなりました。料理人の手が、いつも何かを終わらせて、何かを渡す存在だっていう――その言葉の重みが、じんわりと心に残りました。青鱗さんがそれを見ているのも、痛みを抱えながらも怒り一色でないのが、すごく好きです。この一編、とても好きです。