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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「……さようでございますか」
私は、門の内側で頭を下げた。
顔を上げたときには、紺色の車はもう坂を下りはじめていた。
五つ目のカーブのほうへ。去年の十一月、私の車が下りていった道を。
切り口が、きれい。
ブレーキホースは、事故で裂けたのではなかった。誰かが刃物で切った。
私がそれを知っているのは、竪穴の声を聞いたからだ。水無瀬さんが知っているのは、写真を見たからだ。
この家の外にも、あの夜を片付けきれずにいる人がいた。
その夜、榊さんにすべてを書き送った。
夢の話をしたこと。名刺のこと。ブレーキホースのこと。麗奈の、青い顔のこと。
返事は、短かった。
刑事が自分から手の内を見せたなら、それは誘いだ。乗るのは、まだ早い。
それから、もう一行。
約束を守ってくれて、ありがとう。
*
翌日、八月十八日。
半地下のランドリーで、洗濯物を仕分けていた。
麗奈のものは、別の籠に分ける。絹とレースは手洗い、タオルは高い温度で。
和館の檜風呂で使った白いバスタオルを広げて、手が止まった。
赤い染みが、ついていた。
端のほうに、三つ。
指でこすりつけたような、細長い跡だった。
妊婦のタオルに、血。
一瞬、胸の奥が冷えた。
もし本当に、何かあったのなら。
けれど、色がおかしかった。
血の染みは、乾くと茶色に変わる。縁から黒ずんで、布の目の奥へ沈んでいく。
この赤は、乾いているのに、まだ明るかった。絵の具のように、布の表面に浮いていた。
鼻を近づけた。
鉄の匂いがしない。かすかに、甘い。
洗剤棚から、酸素系の漂白剤の瓶を取った。
血の染み抜きは、まず水で。お湯を使うと、血は布に焼きついてしまう。
それから、酸素系の漂白剤を数滴。本物の血なら、白い泡が細かく立つ。血の中のものが、薬と反応して泡を吐くのだ。
家事ノートの、二冊目の最初のページに書いたことだった。
陽翔が鼻血を出した冬の朝に、自分で確かめて書いた。
一滴、染みの上に落とした。
泡は、立たなかった。
二滴、三滴。
液は、赤い染みの上に、ただ透明に広がっていくだけだった。
血ではない。
この染みをつけた人は、本物の血がどう乾くのかを知らない。
自分の手で、誰かの血を洗ったことが一度もない人だ。
*
麗奈が昼過ぎに美容院へ出かけるのを待って、主寝室に入った。
ドレッサーの右の一番下の引き出しは、二重底のままだった。
母子手帳とエコー写真が、前と同じ角度で寝かされていた。
探したのは、そこではなかった。
鏡の裏。
ドレッサーと壁のあいだの、指一本ぶんの隙間。
奥に、小さな紙袋が押しこまれていた。
中に、茶色い小瓶が一つ。
ラベルに、舞台用の血のり、と印刷されていた。半分ほど、減っていた。
私は、小瓶を紙袋ごと写真に撮った。
それから、元の隙間に、元の向きで戻した。
捨てれば、麗奈は別の手を考える。
中身を水に替えれば、それは私が作った嘘になる。
カメラが見るのは、起きたことだけ。
私が見るのも、起きたことだけでいい。
タオルは、いつもの手順で真っ白に洗い上げ、麗奈の籠に畳んで戻した。
小瓶の写真を、榊さんに送った。
返事は、すぐだった。
日が近い。土曜か日曜か、人の集まる日だ。
*
夕方、陽翔が熱を出した。
幼稚園の夏の預かり保育から帰ってきたときには、もう頬が赤かった。
夕食の時間に計ると、三十九度二分あった。
「りんさん……あまいの、たべたい」
ベッドの中で、陽翔がかすれた声で言った。
甘酒の卵焼きのことだった。麗奈に匂いを嫌がられてから、毎朝、換気扇の下でこっそり焼いている。
「熱が下がったら、一番に焼きますね」
陽翔は、ぴょんたの耳を口元に当てて、小さくうなずいた。
戸口から、麗奈の声がした。
「やだ、うつったらどうするの」
麗奈は、子ども部屋の戸口から一歩も入らなかった。
「お腹の子に悪いでしょ。蒼真さん、私、今夜は和館のお部屋で寝るから。凛さん、陽翔くんのことは全部お願いね」
蒼真は、書斎から顔だけ出した。
「凛さん、頼むよ。僕は明日、朝一で投資家と会うんだ。夜中に何かあったら、母さんを起こして」
扉が閉まった。
お義母さまは、九時過ぎに一度だけ、子ども部屋に上がってきた。
陽翔の額に、そっと手の甲を当てた。
「……熱いわね」
それから、私を見た。
「今夜は、あなたが看なさい」
戸口で、お義母さまは一度だけ足を止めた。
振り返らずに、言った。
「前の嫁は、この子が熱を出すと、一晩中、何か歌っていたわね。和館まで、聞こえてきたものよ」
扇子の先が、戸の枠に触れた。
「……あなたは、歌わないのね」
返事を待たずに、足袋の音は和館へ戻っていった。
*
十一時過ぎ、エプロンのポケットで、スマホが一度だけ震えた。
勝手口に。
それだけの文面だった。
陽翔の寝息を確かめてから、厨房へ下りた。勝手口の戸を開けると、榊さんが立っていた。
手に、ドラッグストアの白い袋を提げていた。
「離れの窓から、子ども部屋の灯りが、ずっと点いているのが見えた」
袋の中には、子ども用の経口補水液が三本と、冷却シートの箱と、小さなゼリーがいくつか入っていた。
「子どもの熱には、これがいいと、薬剤師に聞いた」
それから、袋の底から、ラップに包んだおにぎりを一つ出した。
「あなたの分です。どうせ、何も食べていない」
私は、袋を受け取ったまま、動けなかった。
「……榊さん、どうして」
「熱を出した夜に、誰かが戸口まで来ると、それだけで少し楽になる」
榊さんは、眼鏡を指で押し上げた。
「俺は、そうだった。……梅雨のころに」
雨の夜、ムギと一緒に私を待っていて、熱を出した人。
私が離れで、梅と生姜のお茶を淹れた夜のことだ。
榊さんの目が、私の手元に落ちた。
「手袋を、替えてください。汗で濡れている。そのままだと、指の傷がふやける」
「……はい」
「何かあったら、すぐ呼んでください。夜中でも」
戸が閉まった。
私は、おにぎりを両手に包んで、しばらく勝手口に立っていた。まだ、少し温かかった。
手袋を替えて、二階へ戻った。
*
夜中の二時。
陽翔の息が、浅く速くなった。
冷却シートを替え、経口補水液を吸い飲みで少しずつ含ませる。
小さな体が、毛布の中で何度も寝返りを打った。
「……ママ」
うわごとだった。
「ママ、どこ」
ぴょんたを探して、熱い手が宙をさまよった。
私は、ぴょんたをその手に入れてやった。陽翔は抱きしめずに、また宙に手を伸ばした。
探しているのは、ぬいぐるみではなかった。
ねんねの舟を、歌わない。
四月の終わりに、自分の手でそう書いて、燃やした。
花火の夜も、唇だけで止めた。
陽翔の手が、毛布の上に落ちた。
小さな胸が、苦しそうに上下していた。
私は、ベッドの脇に膝をついた。
ルールを書いたのは、私だ。
破るのも、私だ。この子の夜が少しでも楽になるなら、私はそれを、何度でも破る。
「……ねんねの舟は、ぎいこ、ぎい」
かすれた声だった。
喉を焼く前の声とは、似ても似つかない。それでも、節は、母が私に歌ってくれたままだった。
鎌倉の、店の奥の小さな座敷。
熱を出した私の額に、母は冷たい手を当てて、この歌を歌った。舟は朝の港で待っている。だから、安心して眠りなさい、と。
かすれた今の声なら、和館までは届かない。
届いても、かまわないと思った。
「あさの、みなとで、まってるよ」
陽翔の眉間の皺が、少しずつほどけていった。
もう一度、最初から。
ぎいこ、ぎい。
浅かった息が、ゆっくりと長くなっていく。
熱い手のひらが、毛布の上から、私のほうへ這ってきた。
私の人差し指を、握った。
手袋の下の、古い傷のある指を。
陽翔のまぶたが、ほんの少しだけ開いた。
熱でうるんだ黒い目が、私を見上げていた。
「澪ママ、帰ってきたの?」
コメント
1件
草さん、今回もヤバかったっす…!タオルの血のり、陽翔くんの熱、そしてラストの「澪ママ、帰ってきたの?」で全部の伏線が繋がった感じがして鳥肌立ちました。特にねんねの舟を歌うシーン、自分で書いたルールを破ってでもこの子の夜を守ろうとする覚悟と優しさが溢れてて、泣きそうになった。榊さんが持ってきてくれたおにぎりの温かさも含めて、静かだけど確かな優しさが詰まった回だった。次が待ち遠しい🔥