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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
私は、答えられなかった。
うん、と言えば、この子に嘘をつかせることになる。
ちがう、と言えば、この子に嘘をつくことになる。
握られた指の上で、陽翔の手から、ゆっくり力が抜けていった。
黒い目が、もう一度閉じた。
答える前に、陽翔は眠っていた。
私は、握られていた指を、そっと抜いた。
窓の外が白むまで、ベッドの脇の床に座っていた。
*
朝、熱は三十七度四分まで下がっていた。
陽翔は、ぼんやりした顔で、毛布から目だけを出した。
「りんさん。ゆうべ、ずっといた?」
「はい。ずっと、おりました」
「……ゆめ、みた」
心臓が、一度だけ強く打った。
「ママの、ゆめ。おうた、うたってた」
陽翔は、それだけ言って、ぴょんたの耳に顔をうずめた。
夢だと思っている。熱の夜の、夢だと。
私は、胸の奥で、詰めていた息を吐いた。
吐いてから、気づいた。
陽翔の目が、ぴょんたの耳の陰から、私の左手の人差し指を見ていた。
ほんの、一拍だけ。
「……卵焼き、焼いてきますね。約束でしたから」
厨房に下り、窓を全部開けて、換気扇を回した。
甘い匂いが和館へ流れていかないように。麗奈は、ゆうべから和館の客間で寝ている。
フライパンの上で、卵が甘く焦げる音がした。
陽翔は、ベッドの上で半分だけ食べた。
残りの一切れを、ぴょんたの口元に当てて、ぴょんたも、と言った。熱の下がった子どもの、いつもの顔だった。
*
水曜日の午後、厨房で銀器を磨いていた。
配膳リフトの竪穴から、声が降りてきた。
書斎の声ではなかった。
もっと近い。竪穴のすぐ上、二階の配膳室の中からだった。
「……うん。だから、誰もいないとこで話してるの。ここ、窓もないし、和館から一番遠いから」
麗奈だった。
スマホで、誰かと話している。
二階の配膳室は、配膳のときしか誰も入らない。
けれど、そこには竪穴の口がある。麗奈は、あの小さな扉の向こうが、厨房まで筒抜けの穴だとは知らない。
私は、厨房側のリフトの扉を、音を立てないように開けた。
箱の中に、肩まで頭を入れる。木の匂いと、古いロープの匂い。
竪穴の上から、声がまっすぐに落ちてきた。
「土曜の夜。お義母さまの誕生日の会、私が仕切ることになったの」
声が、弾んでいた。
「多恵子叔母さまも呼んだし、親戚も二組来る。おめでたのお披露目も兼ねてって言ったら、お義母さま、断れなかったのよ。……玲司さん? 叔母さまが、呼べってうるさいの。いいじゃない、見てる人は多いほうが」
私は、銀のスプーンを布に包んだまま、手を止めていた。
「みんなの前で落ちる。デザートのあと。上からプレゼントを取ってくるって言って、凛についてこさせるの。階段の途中で、腕を引っぱって」
竪穴の中を、くすくす笑う声が下りてきた。
「凛に押されたって言う。血のりも、もう試したし。ドレスは白にした。そのほうが、目立つでしょ」
電話の向こうの声は、聞こえなかった。
美津子さんだろう。何か言われたのか、麗奈は少し黙った。
「……平気よ。何段か落ちるだけ。踊り場から下の、五段くらい。下はホールだから、みんなから見えるし」
「病院? 大丈夫。救急車じゃなくて、ママの知ってる先生のとこに連れてってもらうから。蒼真さんには、私がそう言う」
少し、間があった。
「……凛が、その日いなかったら?」
麗奈の声が、軽くなった。
「そしたら、陽翔くんでいいわ。子どもがふざけて、ぶつかってきたって。五歳でも、お兄ちゃんなんだから」
布に包んだスプーンが、指の中で軋んだ。
熱の夜に、ママ、どこ、と宙に手を伸ばした子。
お兄ちゃんだから、がまんする、と言った子。
この人は、その子の名前を、ケーキの注文と同じ声で口にした。
私は、リフトの箱の中から頭を抜いた。
扉を閉める手が、少しも震えなかった。
*
夕方、ムギの散歩のあとで、離れの縁側に座った。
全部を話し終えたとき、榊さんは、しばらく庭の暗がりを見ていた。
それから、静かに言った。
「土曜は、休みを取ればいい」
「取りません」
自分でも驚くほど、早く答えていた。
「私がいなければ、奥様は坊ちゃんの名前を使います。熱が下がったばかりの五歳の子に、お腹の赤ちゃんを殺したって、親戚の前で言わせるんです」
膝の上で、手袋の手を握りしめた。
「そんなことをさせるくらいなら、私が階段にいます」
榊さんは、私を見た。
眼鏡の奥の目が、怒っているように見えた。
私にではなく、もっと別の何かに。
「……わかった」
榊さんは、縁側から立ち上がった。
「なら、俺がその場にいる」
庭のほうを向いたまま、言った。
「あなたが階段の上に立つなら、俺は下に立つ。落ちてくるのが誰でも、俺が受ける。……あなたが押したかどうかは、あの時計が見る。あなたが怪我をしないかどうかは、俺が見る」
言葉の終わりのほうで、敬語が崩れていた。
ムギが、縁側の下から顔を出して、榊さんの靴の匂いを嗅いだ。
「それから、病院」
榊さんの声が、仕事の声に戻った。
「知り合いの医者のところへ運ばせる気なら、それを止めるのは、あなたじゃない。止めるのは、大奥様だ」
「大奥様が」
「あの人は、御影の跡継ぎが本当にいるのかどうか、自分の目で確かめたい人だ。あなたが一番よく知っているでしょう」
あの夕食の席で、一瞬だけ冷たく細くなった目。
あなたは、何も見ていないのね、と言った声。
「……はい」
「警察は、たぶん蒼真が呼ぶ。妻が突き落とされたと騒ぐなら、あいつは必ず呼ぶ。……呼ばせればいい」
「呼ばせる」
「人前で騒いだぶんだけ、あとで取り消せなくなる」
榊さんは、眼鏡を押し上げた。
「土曜の夜、俺は玄関ホールにいる。食堂ではなく。それだけ、覚えておいてください」
*
木曜日の朝、八時。
柱時計のガラスの扉を開け、ねじを巻く。
八回目で、振り子の裏に、赤い点が一度だけ灯った。
今月の一日の朝も、お義母さまは、まだ暗いうちに洋館の階段を上っていった。
厨房の窓から、私はそれを見ていた。電池は、新しい。
「毎朝、ご苦労さまね」
階段の下から、声がした。
お義母さまが、和館へ渡る廊下の入口に立って、こちらを見上げていた。
「その時計は、止めてはいけないのよ。止まった時計は、誰かが裏を開けるから」
「……かしこまりました、大奥様」
お義母さまは、それ以上何も言わなかった。
私が文字盤から目を上げたときには、もう渡り廊下の向こうに消えていた。
金曜の朝も、赤い点は灯った。
*
金曜日の夜。
最後の洗い物を終えて、厨房の灯りを半分消した。
流しの上の小さな電球だけが、オレンジ色に光っていた。
明日の献立は、お義母さまの好物ばかりだった。
鯛の昆布締め、冬瓜の葛煮、白和え。麗奈が決めたのはケーキだけで、それも駅前の洋菓子店に頼んであった。
嫁いでから三度、私はお義母さまの誕生日の膳を作った。
一度も、ありがとうとは言われなかった。ただ三度とも、白和えの小鉢だけは、きれいに空になって戻ってきた。
手を拭いて、エプロンを外そうとしたときだった。
後ろで、スリッパの音がした。
振り向く前に、腕に何かが触れた。
細い指だった。
長い付け爪の先が、制服の袖の上から、私の二の腕をそっとつかんでいた。
ローズの香りが、暗い厨房に広がった。
麗奈が、私のすぐ後ろに立っていた。
暗がりの中で、白い顔だけが浮かんでいた。
笑っていた。
撮影の日以来、一度も私に向けたことのない、甘い笑顔だった。
「ねえ、凛さん」
付け爪が、腕の上で、とん、と一度だけ跳ねた。
「土曜は、私のそばにいてね」
コメント
1件
もう…第38話、読み終わってしばらく動けなかったよ。 リフトの穴から聞こえてきた麗奈の声、あれは本当に背筋が凍った。自分のお腹の子のために、陽翔くんの名前をああやって平気で使えるんだ……「五歳でも、お兄ちゃんなんだから」って、あの軽さが怖すぎる。 でもね、榊さんの「俺が受ける」って言葉には少し救われた。凛さんだけが戦ってるんじゃないんだって。敬語が崩れたあの一瞬、すごく響いた。 土曜の夜は、陽翔くんにも凛さんにも何もなく終わってほしい。そこはどうか守られて…。本当に続きが気になるし、ドキドキしながら待ってるね。