手を添えて立たされている。目をつぶって、と言われて。手足に伝わる、冷たいタイル、及び壁の感触。
「課長……」
電気は灯されている。だが、わたしの視界は暗く、閉ざされている。課長の動く気配を感じる。彼は――シャワーで水を出すと、なにかをしているようだった。きゅ、と蛇口を捻る音がする。
「先ずは――ここから」
「ひゃあ……っ」
冷たい。水をひっかけた課長にわたしは怒ってしまう。「んもう。馬鹿馬鹿。冷たい!」
「はは、ごめんごめん……なんか莉子。緊張しているみたいだったから、解きほぐしたくなってさ……」
「誰だって風呂場に連れ込まれて目をつぶってって言われたら怖くもなりますよ」
「おれが、――信じられない?」
「課長……」
「目を開けて」
「……はい」
すると目の前には、手のひらいっぱいに盛られた泡泡が。洗顔料のCMみたいにてんこ盛り。……課長はこれを、作っていたのか。
課長はわたしの脇の下から手を差し入れている。顔が見えなくとも、笑っているのが口調で伝わる。「これを――どうすると思う」
「……さぁ」期待に声を上ずらせながらもわたしが答えれば、
「――こうする」
いっぱいの泡に、わたしの乳房が包まれていた。
* * *
「莉子……莉子」
どうしてそんなに切ない声を出すの。――顔、見せて……。綺麗なあなたの顔が見たいよ。
「課長……課長、ああ……」
しっかりと胸を包まれ、うなじを舐められてしまっては。理性など保てようか。
「立ってきてる」と課長。「莉子のここが、……びんびんだ」
ただの、泡を足しただけなのに。場所を浴室に変えただけなのに。どうして享楽というものは常に高みを目指すのだろう。獰猛に。
自分でからだを洗うときに自分のからだに触れることはあった。行動主体が課長に変わるだけで、否が応でもわたしの官能は高められてしまう。
する、する……とやさしい手つきで鎖骨から、首筋――うなじを通って腕の外側――それから肘にかけてを、やさしく辿られ――そのなめらかな泡をつけられ――足ががくがくしてしまう。テレビで見た、生まれたての小鹿みたい。
「――気持ちいい?」ちゅ、と音を立ててわたしのうなじに口づける課長は、「我慢しないで……莉子の、えっちな声、いっぱい聞かせて。おれのなかをきみでいっぱいにして……?」
「課、長……」課長は執拗にわたしの胸を責める。好きだから。それに、されるのが好きだということを分かっているから。
課長は、全身くまなくわたしを愛撫した。触れられるたびに、ぬるつきと泡立ちのコントラストのなかで、あまい電流が流れ、わたしを理性の外へと追いやっていく。足をぶらぶらさせながら、どこか冷静な1パーセントくらいのわたしがわたしを見下ろしていた。――淫乱、と……。
確かに、いまのわたしを一言で形容するなら、淫乱というほかあるまい。こんなに……乱されて。
「……欲しい?」と課長。崩れ落ちそうなわたしのからだを支えながら、「でも――ほら。泡まみれだから。流さないとね……それで、莉子……」
彼はわたしのウエストを支え、鏡の前へと誘導した。「……てあ、曇ってて見えないね。待ってて……」
わたしは目を閉じていた。信じられるから――課長のことが信じられるから。目を開いたわたしに、課長は、
「ほら――ご覧」
鏡のなかに映るのは、まさに、女神そのものだった。目を輝かせ、頬を紅潮させ、黒く長い髪に、白い肌が特徴的なはだかの女。見たこともないほどに、美しい――これが本当に自分なのかと疑えるほどだった。
確かに、わたしは、課長と出会って、変わった。思考様式、性の認識、異性への偏見――自分の閉ざされた価値観を開いたのは、紛れもない、課長そのひとだったのだ。
「おれが見ているものをきみに見せたかったのさ」わたしの濡れた髪に口づける課長は、鏡のなかのわたしと目線を結び、
「泡まみれのおれの女神。――今夜、きみは、おれのもの」
* * *
ばしゃん、ばしゃん、と課長が腰を振る都度水音が鳴る。――初めての、体位。いかにも課長の腰に負担がかかりそうだが、わたしは繋がったまま課長にしがみつく。
「ああ……莉子。莉子……っ」
激しく腰を振る。課長がわたしのなかで膨らんでいく。その強さも――悲しみも、愛おしくて。繋がっているときにだけ感じられる孤独と悲しみ――その事実が、胸を焼く。
しっかりと課長とからだを重ね合い、浮かせた足を課長の腰の後ろで絡ませる。――いや、また……。
「いっちゃったね……莉子」課長はわたしの膣の収縮をペニスで味わいこみながら、「でも、莉子……おれはひどい男だから、もっともっと、きみを気持ちよくしてあげる。――乱れな。莉子……」
そうして課長は着実に忠実にわたしを追い込んでいく。愛という牢獄のなかで。一度はまったら抜け出せない閉ざされた部屋のなかへと。――鍵を握るのは課長だ、常に。
鮮血色をした薔薇が咲いた。鮮やかで、こちらの網膜を刺激する。その美しさに見惚れながら、わたしは、数え切れないほどの絶頂を味わい、自己を見出していた。
* * *
がく、と洗面台の前で歯磨きをする女が揺れた。誰でもない。自分だ。
「ああ……もう、莉子……」背後から課長に抱き締められると、鏡のなかの課長は頭ひとつぶん抜け出していることが分かる。見るからに美しいその男は、「アナルファック。初めての水族館デート。二穴責め。おまんこシャワー。泡プレイ。……駅弁。いろんなことが立て続けにあったからうん、疲れちゃったんだね……」
口をゆすぐともう自分の目がとろんとしているのが分かる。「おいで」と向き直る彼にしがみつくと、ぶらりぶらり。さきほどの淫靡な体位を思い起こさせる体勢で、ベッドへと、運ばれる。――もう、わたしの香りが、課長のベッドの匂いのなかに交じり込んでいる。シーツを通して、課長の匂いと、わたしの香りがセックスしているみたい。ふと――笑えた。
課長が怪訝な顔をして、ベッドに膝をつき、わたしの髪をかきあげる。「どした。莉子……。思い出し笑いなんかして……」
思考がアメーバみたいに蕩けて言葉が出ない。ふわふわとした眠気に揺られ、目を下ろすと伝わるなまあたたかい感触。課長が、わたしのまぶたにキスをした。
「おやすみ」と課長。「いっぱい、休みな……。明日は美容室なんだから、起きなきゃね。いつまでも飽きないくらいセックスなんか、していられないさ……」
『飽きない』と表現する辺りが課長らしい。「ああ、また笑った」と課長。彼はわたしのうえに覆いかぶさると、
「莉子。愛している……。こんな……こんな気持ちを感じるのは生まれて初めてだ。どうしようもなく、きみが、愛おしい……。
おれね。きみを感じたことのない幸せに導けるよう努力するから。……いや、セックスの話ばかりじゃなくってね。きみのことを理解して、一緒に悩み、考え――生涯を共にする伴侶でいたい。……て」
ほぼ、八割がた、わたしの意識は無意識の底に落ち込んでいた。課長のぬくもりと、耳触りのいい、声音に守られながら――深い、深い眠りへと落ちていった。
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