「私の胸に飛び込んでくるのが、そんなに難しいことなのかな…?」
彼の優しい手が、こちらへ伸ばされている。ほんの少しの自分の意思で、それを手にする事は出来る。でも…。私は首を振った。
「あなたの胸には飛び込まないよ。私はそうした」
「まだしていないよ。君はどうせ、私が死のうが生きようが生き残る。その運命によって」
「ええ、そうよ。私は、貴方とは違うもの」
自分で吐いた言葉に、縛られるようで胸が苦しい。けれど、真実以上はないのだ。
「貴方は殺される。今日、この日を持って。明日を越えられないの」
そう言いきった方が、心へ吹き溜まりが出来ないと思った。
「いいんだよ、これくらい。愛する人を守る強さは底知れないからね」
人間は愚かだ。自分の運命が他人に影響していると思っている。
「なら私のために生きるのは、そんなに難しいことなの?」
彼の言葉を反射する。彼は、愛のために死ねると言ったが愛のために生きる事は望まない。
「うーん…私は死ぬつもりなどないよ。ただ、死ぬことに後悔はないだけで」
彼の顔は、死ぬ前に人が見せるあの儚い表情だった。
「愛で満たされれば、人は生きる事にさえ無欲になるの」
「満たされることはないよ」
「いえ、欲求が朽ちることもまた満ちることよ」
「愛が満ちれば生死が決まるなんて、そんな簡単な話じゃないんだ」
しかし、人は人生に意味を求める。生きる理由も死ぬ理由も。
「私はただ、この瞬間に君を抱きしめたいだけなんだ」
無欲で言っているのならば、なぜこの瞬間なのか。彼は自身の生命線が少ないと理解してから、時間はあったはずなのに。
「いいよ、抱かれてあげる」
運命に基づいた行動をしてあげよう。私は貴方の望みを叶えて別れを告げる。いえ、貴方の命が私に別れを告げるのだ。
「おいで、チタニー」
その両手が広がった時、私はその胸に飛び込もうとした。言葉を尽くしても、人間の行動を理屈で当てはめようとしても。それが最後のチャンスだと気付いていたから。でも、そんな貴方の胸にうずくまる私が、想像出来なかったがために……。たった一瞬の躊躇いが、世界の歯車を狂わせてしまったように。
その情景は、わずかな瞬きのうちに消えてしまった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!