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第六話 ③【 見張られている夜】
相良が詩織の部屋に移って追加確認をすると言って出ていったあと、 ようやく誉とシオンだけが部屋に残った。
静かだった。
ホテルの空調の音。
遠くの車の走行音。
隣の部屋で誰かが水を使う音。
さっきまで人がいたせいで気づかなかったが、二人きりになると妙に落ち着かない。
「……なんなんですか」
誉が先に言った。
「何が」
「あなたの周り、ややこしい人間多すぎません?」
「北松に言われたくない」
「俺は巻き込まれただけです」
「でも巻き込まれ力、高いよ」
「そんな能力いりません」
シオンがベッドの端に腰を下ろす。
きし、とスプリングが鳴った。
「北松」
「はい」
「怖い?」
その聞き方が少し意外で、誉は瞬いた。
「……怖いですよ」
「だよね」
「だよね、じゃなくて。正直かなり」
誉は握っていたペットボトルのお茶を見た。
ラベルの端が少し浮いている。どうでもいいところに目がいくのは、緊張している証拠だ。
「自分の部屋知られてて、写真撮られてて、知らない男に名前呼ばれて、追われてるっぽくて。怖くないわけないでしょう」
「うん」
「あなたは?」
「怖くないわけじゃない」
「そう見えないんですよ」
「見せてないから」
その一言に、誉は少しだけ黙った。
見せてない。
なんとなく、そういう人だろうとは思っていた。
軽口も、図々しさも、全部が本音ではない。
「……本名」
誉がぽつりと言う。
「かなり嫌なんですね」
「かなり嫌」
「俺、無理に聞こうとは思ってないです」
「ありがと」
「でも」
「でも?」
「捨てたかったっていうのは、ちょっと分かる気がする」
シオンが顔を上げた。
「分かるの?」
「少しだけ。俺は名前そのものを捨てたいってほどじゃないけど、“誉”って言われるたびに、立派でいなきゃみたいな気持ちになることあるので」
「へえ」
「名前負けしてるってずっと思ってるし」
「してないと思うけど」
誉は思わずシオンを見る。
「……適当言ってます?」
「言ってない」
シオンはあっさり言った。
「名前負けしてるやつって、もっと他人のこと見ないし、いちいち立ち止まらない」
「それ、褒めてます?」
「半分」
「半分なんだ……」
誉は少しだけ肩の力が抜けた。
こんな状況で何をやっているんだと思う。
でも、ずっと張り詰めていた神経が、ほんの少しだけゆるんだのは確かだった。
「北松」
「なんですか」
「たぶんだけど」
「はい」
「高瀬が探してる“本命”、俺に関係ある」
「それはまあ、そうでしょうね」
「でもそれだけじゃないかも」
「どういう意味ですか」
シオンは少し考えるように黙ってから言った。
「昔、バンドの金回りで変な話があった」
「金」
「うん。機材費とか出演料とか、そういう細かいやつじゃなくて、もっと大きい金。誰がどこから引っ張ってきたのか分かんないような金」
誉の眉が寄る。
「危ない匂いしかしないんですけど」
「俺も当時は深く聞かなかった。でも高瀬だけ、妙に顔が利いてた」
「じゃあ、その頃から変なつながりがあった?」
「かもね」
「秋山さんはそれを追ってた?」
「ある」
誉は天井を見上げた。
音楽の世界の揉め事だと思っていた。
名前や執着や、個人的なこじれ。
でもそこに金が入ると、急に別の色が混ざる。
「……なんか、ただのストーカー案件じゃないですね」
「最初からそう言ってる」
「もっと早くちゃんと説明してほしかったです」
「俺もこんなにつながると思ってなかった」
その時、またノックが鳴った。
二人ともぴたりと止まる。
シオンと誉が視線を合わせる。
数秒後、外から相良の声。
「相良です」
誉は息を吐いた。
いちいち寿命が削れる。
「はい」
ドアを開けると、相良が少し険しい顔で立っていた。
「追加情報です」
「多いですね」と誉。
「今夜は多いです」
相良は部屋に入り、扉を閉める。
「秋山さんのICレコーダーの一部が再生できたそうです」
「何が入ってたんですか」
「断片ですが、こう言っていたそうです。——“阿佐ヶ谷の倉庫はもう空だ”」
誉が目を瞬く。
「倉庫?」
「ええ」
「阿佐ヶ谷に?」
「場所まではまだ分かりません。ただ、駅名のメモと一致します」
シオンが眉をひそめた。
「倉庫なんて話、俺は知らない」
「高瀬さんが使っていた場所かもしれません」と相良。
「何のために」
「それはこれからです」
相良は二人を見た。
「明日の朝、阿佐ヶ谷周辺を確認します」
「俺たちもですか」と誉。
「本来は連れて行きたくありません」
「ですよね」
「ですが、北松さんの“最初に見たもの”の記憶と、シオンさんの高瀬に関する認識が必要になる可能性がある」
「つまり行くんですね……」
「そうなります」
誉はベッドに沈み込みたくなった。
明日も仕事どころではない。
もう何日休むことになるのか想像もしたくない。
「今日は少しでも寝てください」と相良。
「無理では」と誉。
「無理でもです。明日は動きます」
それだけ言って、相良は今度こそ部屋を出ていった。
⸻
再び、静寂。
誉はベッドに腰を落としたまま、ゆっくり顔を覆った。
「……明日、阿佐ヶ谷」
「うん」
「倉庫」
「うん」
「絶対ろくでもない」
「うん」
「あなた、全部“うん”で済ませないでください」
シオンは少しだけ笑った。
「北松」
「なんですか」
「寝なよ」
「寝られます?」
「寝られなくても横になるだけで違う」
「妙にちゃんとしてますね」
「失礼」
シオンは立ち上がって、カーテンをしっかり閉めた。
それからドアの内鍵を確認し、チェーンも見て、最後に電気を少し落とす。
「……ほんと、慣れてるんですね」
誉が言うと、シオンは背を向けたまま答えた。
「言ったでしょ。ゼロじゃないって」
誉はベッドに横になった。
上着は脱いだが、完全に眠る気分にはなれない。
それでも、目を閉じると少しだけ意識が沈みそうになる。
隣のベッドでは、シオンがまだ起きている気配がした。
「……シオン」
「何」
「昔のバンド、好きだったんですか」
少し間があった。
「……好きだったよ」
その答えは思っていたより静かで、まっすぐだった。
「だから余計、終わり方が最悪だった」
誉は目を閉じたまま、小さく息を吐く。
名前も、音楽も、過去も。
この男には、軽口でごまかしているものが多すぎる。
でもその全部が、明日には少しずつ表に出てくるのかもしれない。
ホテルの天井は白くて、味気ない。
なのに今夜は、その白ささえ落ち着かなかった。
しばらくして、シオンが低く言った。
「北松」
「はい」
「明日、変だと思ったらすぐ言って」
「何がですか」
「些細なことでも。あんた、見ちゃうタイプだから」
「嬉しくない評価だなあ……」
「でも助かる」
誉は返事をしなかった。
返す代わりに、眠れもしないまま、ただ薄い布団を握った。
その夜、夢は見なかった。
けれど、眠りの浅い時間のどこかで、廊下を誰かが通る足音を何度も聞いた気がした。
それが本当にホテルの客の足音だったのか、
それともまだ誰かに見張られている気配だったのか、
朝になっても分からなかった。
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ruruha