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第七話 【 阿佐ヶ谷の空倉庫】
朝は、やけに普通だった。
ホテルのカーテンの隙間から差し込む光。
遠くで聞こえる車の音。
廊下を歩く誰かの足音。
北松誉は、ほとんど眠れないまま目を開けた。
体が重い。頭も鈍い。けれど、昨日のことは嫌になるほどはっきり覚えていた。
「……最悪の朝だ」
小さく呟くと、隣のベッドから声が返る。
「更新し続けてるな」
「起きてたんですか」
「さっき起きた」
シオンは天井を見たまま、軽く伸びをした。
「顔やばいよ、北松」
「知ってます」
「ゾンビ寄り」
「やめてください」
誉はベッドから起き上がり、顔をこすった。
眠れていないのに、妙に目だけ冴えている。
こういう状態が一番嫌だった。
ノックが二回。
「相良です」
ほっとするのと同時に、少しだけ緊張が戻る。
ドアを開けると、相良と詩織がすでに準備を整えて立っていた。
詩織の顔色はあまりよくないが、それでも昨夜よりは落ち着いているように見える。
「行きましょう」と相良。
⸻
阿佐ヶ谷は、朝の匂いがする街だった。
通勤する人。開き始める店。
新宿の夜とはまるで違う、日常の中にいる感じ。
それなのに誉は、ずっと落ち着かなかった。
「……ここ、ほんとに関係あるんですか」
駅前から少し歩いたところで誉が言うと、相良は手元のメモを確認しながら答えた。
「秋山さんのICレコーダーに残っていた発言。“阿佐ヶ谷の倉庫はもう空だ”」
「“もう空だ”ってことは、今行っても何もないんじゃ」
「何もないこと自体が情報です」
「なるほど……」
納得しかけて、やっぱり納得しきれない。
「北松」
隣でシオンが小さく言った。
「何ですか」
「周り」
誉は反射的に見回した。
だがすぐに視線を戻す。
「……分かりません」
「俺もまだはっきりしない。でも、完全にフリーではない感じ」
「朝からそれやめてほしいんですけど」
「やめられない」
詩織が小声で言う。
「昨日の人、ついてきてるってこと?」
「可能性はある」と相良。
「ただし、今は確証なし。だからこそ不用意な行動は避けてください」
「不用意な行動しかしない人が一人いるんですけど」と誉。
「誰」とシオン。
「あなたです」
「偏見だなあ」
「事実です」
そんなやり取りをしながら、住宅街へ入っていく。
阿佐ヶ谷駅から少し離れたエリア。
古い建物が多く、道も狭い。
小さな工場や、使われていない倉庫らしき建物がぽつぽつある。
相良が立ち止まった。
「……ここです」
誉も足を止める。
そこにあったのは、二階建ての古い倉庫だった。
外壁はくすんだ灰色。
シャッターは半分閉まっていて、錆びた音を立てそうな見た目。
窓はあるが、中は暗くて見えない。
「……いかにもって感じですね」
「いかにもだね」とシオン。
「嫌な意味でいかにもです」
周囲には人の気配がほとんどない。
住宅街なのに、この一角だけ時間が止まっているみたいだった。
「まず外から確認します」
相良がそう言って、建物の周囲をゆっくり回る。
誉もついていく。
地面は少し湿っていて、足音が吸い込まれるようだった。
倉庫の裏手に回ると、鉄製のドアがあった。
鍵はかかっているが、無理やりこじ開けたような痕跡はない。
「ここから出入りはしていないな」と相良。
「じゃあ正面?」と誉。
「可能性は高い」
シオンが壁を軽く指で叩く。
「中、音しない」
「そりゃ“空”なんでしょうね」
「でも」
「でも?」
「完全に空って感じでもない」
「どういう意味ですか」
「なんとなく」
「それ一番困るやつ」
相良が正面へ戻る。
シャッターの前に立ち、少し屈んで隙間を確認した。
「……開けられます」
「え」と誉。
「鍵がかかっていない」
「それもう“どうぞ入ってください”って言ってるようなものでは」
「そうですね」
「怖いんですけど」
相良は若い警官に合図を送り、ゆっくりとシャッターを持ち上げた。
ぎ……と鈍い音。
中は暗い。
埃の匂いが少し流れ出てくる。
「ライト」
警官が小型のライトをつける。
白い光が倉庫の中をなぞる。
何もない。
本当に、何もない。
棚も、箱も、機材も。
広くはない空間が、ただ空っぽに広がっている。
「……ほんとに空ですね」
誉が呟く。
「“もう空だ”は事実だった」と相良。
「でも、ここに何かあったんですよね」
「ええ」
相良は中へ一歩踏み込む。
誉たちも続いた。
コンクリートの床。
ところどころに黒ずみ。
そして——
「……これ」
誉が足元を見て言った。
床に、薄く四角い跡が残っている。
「何か置いてた形」
シオンがしゃがみ込む。
「サイズ的に……段ボールじゃないな。もっと重い」
「機材とか?」と誉。
「かも」
詩織も中を見回している。
「でも、全部持ち出したってこと?」
「そうでしょうね」
相良は床の跡をじっと見ていた。
「複数あります。ここだけじゃない」
ライトが別の場所を照らす。
同じような跡が、いくつか。
「……倉庫っていうより、仮置き場」
「ええ。長期間保管していた形跡はない」
誉は周囲を見回した。
空っぽなのに、妙に圧迫感がある。
「なんか……変ですね」
「何が」とシオン。
「空なのに、何もなさすぎるというか」
「空ってそういうもんじゃない?」
「いや、そうなんですけど……」
誉は目を細めた。
壁。
床。
天井。
その中で、ひとつだけ違和感があった。
「……あ」
「何」とシオン。
「壁」
誉が指さす。
倉庫の奥の壁。
そこだけ、ほんの少し色が違う。
相良が近づき、手で触れる。
「……新しい」
「塗り直してる?」と詩織。
「いや」
相良は壁を軽く叩いた。
コン、と鈍い音。
別の場所を叩く。
こちらは、コンクリートらしい重い音。
「違うな」
「何が」と誉。
「ここだけ、素材が違う」
シオンがすぐに言った。
「偽壁」
誉は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「え?」
「裏に空間あるってこと」
「そんなことある?」
「あるよ。倉庫とかなら」
相良が警官に目配せする。
「確認します」
数分後。
壁の一部が外された。
中には——
「……うわ」
誉の口から、素で声が漏れた。
狭い空間。
そこに、いくつかの黒いケースが並んでいた。
スーツケースのような形。
鍵がかかっている。
「……残ってた」
シオンが低く言う。
「全部持ち出したわけじゃなかった」
「これは……」と相良。
慎重に一つを引き出す。
ずしり、と重い音。
「中身、分かりますか」と誉。
「開けてみないと」
「ですよね」
嫌な予感しかしない。
相良がケースを床に置き、ロックを確認する。
「番号式か……」
「またですか」と誉。
「慣れてきた?」
「慣れたくないです」
シオンがしゃがみ込み、ケースをじっと見る。
「……これ」
「何か分かる?」
「いや。でも見覚えある」
「どこで」
「ライブの機材ケースに似てる。でも……」
「でも?」
「中身、楽器じゃない」
「分かるんですか」
「なんとなく」
「その“なんとなく”が一番怖い」
相良が番号をいくつか試すが、開かない。
「強制的に開けるしかないな」
「お願いします」と誉。
警官が工具を取りに行く間、四人はケースを見つめていた。
静かだった。
外の生活音が、逆に遠く感じる。
「……北松」
シオンが小さく言う。
「何ですか」
「ここ、最初に見た時より嫌な感じする」
「それ昨日からずっと言ってません?」
「でも今が一番」
「やめてください」
その時だった。
外から、微かな足音。
全員が振り向く。
倉庫の入口の向こう、光の中に——
誰かが立っていた。
黒いコート。
帽子を深くかぶっている。
「……来た」
シオンが低く呟く。
相良がすぐに前へ出る。
「警察です! 動くな!」
男は一瞬だけ立ち止まり、こちらを見た。
そして、にやりと笑ったように見えた。
次の瞬間。
走った。
「逃げた!」と誉。
「追うな!」と相良。
だがシオンは一歩踏み出していた。
「シオン!」
「分かってる!」
シオンはそこで止まる。
歯を食いしばって、拳を握る。
外の足音はすぐに遠ざかった。
静寂が戻る。
「……今のが」と詩織。
「たぶん、高瀬側の人間」と相良。
「見に来たってことですか」
「ええ。こちらの動きを確認しに」
誉は喉を鳴らした。
やっぱり見られている。
完全に。
「……最悪」
誰も否定しなかった。
その時、工具を持った警官が戻ってきた。
「開けます」
ケースに手がかかる。
誉は思わず息を止めた。
ガキン、とロックが外れる音。
ゆっくりと蓋が開く。
中にあったのは——
「……は?」
誉の声が漏れる。
それは、予想していた“危ないもの”ではなかった。
黒いケースの中に、整然と並べられていたのは、
大量のスマートフォンだった。
同じ機種。
電源は落ちている。
未使用に見える。
「……これ」
シオンが呟く。
「どういうこと」
相良の顔も険しくなる。
「……通信端末の保管か」
「こんなに?」
「不自然ですね」
誉はただ呆然と見つめた。
楽器でも、金でも、薬でもない。
ただのスマホ。
でも、この数。
「……普通じゃない」
ぽつりと呟くと、シオンが小さく頷いた。
「うん。普通じゃない」
その瞬間、誉の中で何かがつながりかけた。
終電。
受け渡し。
見張り。
複数の端末。
「……もしかして」
「何」とシオン。
「これ、“連絡用”じゃないですか」
「連絡用?」
「誰かが誰かと連絡取るための、使い捨ての……」
シオンの目が細くなる。
「使い捨てスマホ」
相良がゆっくり頷いた。
「いわゆる“飛ばし”の可能性が高い」
誉の背筋に冷たいものが走る。
ただの個人的な揉め事じゃない。
もっと組織的で、もっと厄介な何か。
そしてその中に、自分たちは入り込んでしまっている。
「……最悪」
今度は、シオンも同じ言葉を口にした。
#あたたかい目で見てください!
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