テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第七話 【 阿佐ヶ谷の空倉庫】
朝は、やけに普通だった。
ホテルのカーテンの隙間から差し込む光。
遠くで聞こえる車の音。
廊下を歩く誰かの足音。
北松誉は、ほとんど眠れないまま目を開けた。
体が重い。頭も鈍い。けれど、昨日のことは嫌になるほどはっきり覚えていた。
「……最悪の朝だ」
小さく呟くと、隣のベッドから声が返る。
「更新し続けてるな」
「起きてたんですか」
「さっき起きた」
シオンは天井を見たまま、軽く伸びをした。
「顔やばいよ、北松」
「知ってます」
「ゾンビ寄り」
「やめてください」
誉はベッドから起き上がり、顔をこすった。
眠れていないのに、妙に目だけ冴えている。
こういう状態が一番嫌だった。
ノックが二回。
「相良です」
ほっとするのと同時に、少しだけ緊張が戻る。
ドアを開けると、相良と詩織がすでに準備を整えて立っていた。
詩織の顔色はあまりよくないが、それでも昨夜よりは落ち着いているように見える。
「行きましょう」と相良。
⸻
阿佐ヶ谷は、朝の匂いがする街だった。
通勤する人。開き始める店。
新宿の夜とはまるで違う、日常の中にいる感じ。
それなのに誉は、ずっと落ち着かなかった。
「……ここ、ほんとに関係あるんですか」
駅前から少し歩いたところで誉が言うと、相良は手元のメモを確認しながら答えた。
「秋山さんのICレコーダーに残っていた発言。“阿佐ヶ谷の倉庫はもう空だ”」
「“もう空だ”ってことは、今行っても何もないんじゃ」
「何もないこと自体が情報です」
「なるほど……」
納得しかけて、やっぱり納得しきれない。
「北松」
隣でシオンが小さく言った。
「何ですか」
「周り」
誉は反射的に見回した。
だがすぐに視線を戻す。
「……分かりません」
「俺もまだはっきりしない。でも、完全にフリーではない感じ」
「朝からそれやめてほしいんですけど」
「やめられない」
詩織が小声で言う。
「昨日の人、ついてきてるってこと?」
「可能性はある」と相良。
「ただし、今は確証なし。だからこそ不用意な行動は避けてください」
「不用意な行動しかしない人が一人いるんですけど」と誉。
「誰」とシオン。
「あなたです」
「偏見だなあ」
「事実です」
そんなやり取りをしながら、住宅街へ入っていく。
阿佐ヶ谷駅から少し離れたエリア。
古い建物が多く、道も狭い。
6,522
#参加自由
重田💋(omoda)
259
小さな工場や、使われていない倉庫らしき建物がぽつぽつある。
相良が立ち止まった。
「……ここです」
誉も足を止める。
そこにあったのは、二階建ての古い倉庫だった。
外壁はくすんだ灰色。
シャッターは半分閉まっていて、錆びた音を立てそうな見た目。
窓はあるが、中は暗くて見えない。
「……いかにもって感じですね」
「いかにもだね」とシオン。
「嫌な意味でいかにもです」
周囲には人の気配がほとんどない。
住宅街なのに、この一角だけ時間が止まっているみたいだった。
「まず外から確認します」
相良がそう言って、建物の周囲をゆっくり回る。
誉もついていく。
地面は少し湿っていて、足音が吸い込まれるようだった。
倉庫の裏手に回ると、鉄製のドアがあった。
鍵はかかっているが、無理やりこじ開けたような痕跡はない。
「ここから出入りはしていないな」と相良。
「じゃあ正面?」と誉。
「可能性は高い」
シオンが壁を軽く指で叩く。
「中、音しない」
「そりゃ“空”なんでしょうね」
「でも」
「でも?」
「完全に空って感じでもない」
「どういう意味ですか」
「なんとなく」
「それ一番困るやつ」
相良が正面へ戻る。
シャッターの前に立ち、少し屈んで隙間を確認した。
「……開けられます」
「え」と誉。
「鍵がかかっていない」
「それもう“どうぞ入ってください”って言ってるようなものでは」
「そうですね」
「怖いんですけど」
相良は若い警官に合図を送り、ゆっくりとシャッターを持ち上げた。
ぎ……と鈍い音。
中は暗い。
埃の匂いが少し流れ出てくる。
「ライト」
警官が小型のライトをつける。
白い光が倉庫の中をなぞる。
何もない。
本当に、何もない。
棚も、箱も、機材も。
広くはない空間が、ただ空っぽに広がっている。
「……ほんとに空ですね」
誉が呟く。
「“もう空だ”は事実だった」と相良。
「でも、ここに何かあったんですよね」
「ええ」
相良は中へ一歩踏み込む。
誉たちも続いた。
コンクリートの床。
ところどころに黒ずみ。
そして——
「……これ」
誉が足元を見て言った。
床に、薄く四角い跡が残っている。
「何か置いてた形」
シオンがしゃがみ込む。
「サイズ的に……段ボールじゃないな。もっと重い」
「機材とか?」と誉。
「かも」
詩織も中を見回している。
「でも、全部持ち出したってこと?」
「そうでしょうね」
相良は床の跡をじっと見ていた。
「複数あります。ここだけじゃない」
ライトが別の場所を照らす。
同じような跡が、いくつか。
「……倉庫っていうより、仮置き場」
「ええ。長期間保管していた形跡はない」
誉は周囲を見回した。
空っぽなのに、妙に圧迫感がある。
「なんか……変ですね」
「何が」とシオン。
「空なのに、何もなさすぎるというか」
「空ってそういうもんじゃない?」
「いや、そうなんですけど……」
誉は目を細めた。
壁。
床。
天井。
その中で、ひとつだけ違和感があった。
「……あ」
「何」とシオン。
「壁」
誉が指さす。
倉庫の奥の壁。
そこだけ、ほんの少し色が違う。
相良が近づき、手で触れる。
「……新しい」
「塗り直してる?」と詩織。
「いや」
相良は壁を軽く叩いた。
コン、と鈍い音。
別の場所を叩く。
こちらは、コンクリートらしい重い音。
「違うな」
「何が」と誉。
「ここだけ、素材が違う」
シオンがすぐに言った。
「偽壁」
誉は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「え?」
「裏に空間あるってこと」
「そんなことある?」
「あるよ。倉庫とかなら」
相良が警官に目配せする。
「確認します」
数分後。
壁の一部が外された。
中には——
「……うわ」
誉の口から、素で声が漏れた。
狭い空間。
そこに、いくつかの黒いケースが並んでいた。
スーツケースのような形。
鍵がかかっている。
「……残ってた」
シオンが低く言う。
「全部持ち出したわけじゃなかった」
「これは……」と相良。
慎重に一つを引き出す。
ずしり、と重い音。
「中身、分かりますか」と誉。
「開けてみないと」
「ですよね」
嫌な予感しかしない。
相良がケースを床に置き、ロックを確認する。
「番号式か……」
「またですか」と誉。
「慣れてきた?」
「慣れたくないです」
シオンがしゃがみ込み、ケースをじっと見る。
「……これ」
「何か分かる?」
「いや。でも見覚えある」
「どこで」
「ライブの機材ケースに似てる。でも……」
「でも?」
「中身、楽器じゃない」
「分かるんですか」
「なんとなく」
「その“なんとなく”が一番怖い」
相良が番号をいくつか試すが、開かない。
「強制的に開けるしかないな」
「お願いします」と誉。
警官が工具を取りに行く間、四人はケースを見つめていた。
静かだった。
外の生活音が、逆に遠く感じる。
「……北松」
シオンが小さく言う。
「何ですか」
「ここ、最初に見た時より嫌な感じする」
「それ昨日からずっと言ってません?」
「でも今が一番」
「やめてください」
その時だった。
外から、微かな足音。
全員が振り向く。
倉庫の入口の向こう、光の中に——
誰かが立っていた。
黒いコート。
帽子を深くかぶっている。
「……来た」
シオンが低く呟く。
相良がすぐに前へ出る。
「警察です! 動くな!」
男は一瞬だけ立ち止まり、こちらを見た。
そして、にやりと笑ったように見えた。
次の瞬間。
走った。
「逃げた!」と誉。
「追うな!」と相良。
だがシオンは一歩踏み出していた。
「シオン!」
「分かってる!」
シオンはそこで止まる。
歯を食いしばって、拳を握る。
外の足音はすぐに遠ざかった。
静寂が戻る。
「……今のが」と詩織。
「たぶん、高瀬側の人間」と相良。
「見に来たってことですか」
「ええ。こちらの動きを確認しに」
誉は喉を鳴らした。
やっぱり見られている。
完全に。
「……最悪」
誰も否定しなかった。
その時、工具を持った警官が戻ってきた。
「開けます」
ケースに手がかかる。
誉は思わず息を止めた。
ガキン、とロックが外れる音。
ゆっくりと蓋が開く。
中にあったのは——
「……は?」
誉の声が漏れる。
それは、予想していた“危ないもの”ではなかった。
黒いケースの中に、整然と並べられていたのは、
大量のスマートフォンだった。
同じ機種。
電源は落ちている。
未使用に見える。
「……これ」
シオンが呟く。
「どういうこと」
相良の顔も険しくなる。
「……通信端末の保管か」
「こんなに?」
「不自然ですね」
誉はただ呆然と見つめた。
楽器でも、金でも、薬でもない。
ただのスマホ。
でも、この数。
「……普通じゃない」
ぽつりと呟くと、シオンが小さく頷いた。
「うん。普通じゃない」
その瞬間、誉の中で何かがつながりかけた。
終電。
受け渡し。
見張り。
複数の端末。
「……もしかして」
「何」とシオン。
「これ、“連絡用”じゃないですか」
「連絡用?」
「誰かが誰かと連絡取るための、使い捨ての……」
シオンの目が細くなる。
「使い捨てスマホ」
相良がゆっくり頷いた。
「いわゆる“飛ばし”の可能性が高い」
誉の背筋に冷たいものが走る。
ただの個人的な揉め事じゃない。
もっと組織的で、もっと厄介な何か。
そしてその中に、自分たちは入り込んでしまっている。
「……最悪」
今度は、シオンも同じ言葉を口にした。