「あたし、……今夜、『彼』とデートする」
なかなか気まずいランチタイムを送っていた一週間の終わりに、高嶺が、爆弾発言をした。
「で、デートって……そんな……」わたしは高嶺と荒石くんのことが心配になる。「でも高嶺。そのひとのこと……本当に好きなの? 荒石くんのことを、忘れられる……?」
「分かんないわよそんなの」高嶺は、どうやら、今日これを打ち明けると決めていたらしい。わざわざ会議室を予約までして。よってわたしたちのこの会話を、誰かに聞かれる可能性はゼロに等しい。「そんなの……実際喋って、話してみないと分からない!」
「最後までしようとか……考えているの?」
正論を振りかざすことを、高嶺は望んじゃいない。敢えて、わたしが切り込むと、高嶺は、
「分からない」
と答える。荒石くんとのことを、きちんと整理してから……と話すのは簡単だけれど、そんな正論で切り捨てたとて、なんになる。
「高嶺の事情は分かった。……全部分かったとまでは言えないけれど……。でも、とにかく。高嶺が望むほうへと……高嶺が本当に望む相手と、望ましい関係を築けることを……願っているよ……親友として」
「――あんたに、なにが、分かんの!」
高嶺が、声を荒げた。「なにもかもを最初っから持っていて……恵まれた、正社員という立場のあんたに……あたしの、なにが分かるっていうのよ……」
「――知ってる? 高嶺……」わたしは動じず、低い声で告げた。「わたし……課長と入籍してから、避妊なんかしてないの。でも、毎月きっかり、25日周期で、あれがやってくる……。
中野さんが羨ましいと思うよ。……正直、妬ましい。
誰にも言えない、こういう醜い感情を抱え込むのは、辛いよね……。
わたしはこういう立場の人間だけれど。でも、……わたしで力になれることがあったら……なんだって」
「――だったら、正社員の座を譲ってくれる?」
声が、出なかった。高嶺は低い声で妖艶に笑い、「……でしょうね」と頷く。
「あたしが欲しいのは正社員の座。誰かと正々堂々と結婚し、妊娠する権利……。そりゃ、自分の立場は分かっているつもりよ。中野さんのピンチヒッターとして入った。
けど、……中野さんの赤ちゃんを抱っこしたときに、いいな、と思ったんだ……。それまで子どもなんか一切関心がなかったのに。自分のなかに、ぶわぁ、と感情が湧いてきて……。この自分の素直な気持ちに、……嘘がつけない。
蓋なんか出来ない。この想いに……。
だから、今夜、決める。
貴将と一緒になるのか……それとも『彼』を選ぶのか……」
わたしに言えることはなにも残っていなかった。
* * *
――でも。出来ることは残っている。
(いいの? 荒石くん……)
よりによってこんなときに、海外の営業と電話会議だなんて。ああもどかしい……! 向こうとは時差があるので、こちらは夜でも、向こうは朝なのだ。ああ……じれじれする!
結局わたしは課長に、晩御飯が作れない旨メールを打ち、無事、荒石くんが電話会議を終えるまでを見守った。
* * *
「――そんなのは、高嶺が決めるべきことでしょう……。桐島さん。なにを……考えているんですか。あなた、ひとのことばっか構っている場合ですか。家に帰ってご飯とか……することとか……」
「そんなことよりもいまは、高嶺が、大事」わたしはきつく彼を見据え、告げた。「いまの……高嶺を止められるのはあなたしかいないんだよ。いいの? 高嶺が……よくも知らない男にかっさらわれて……。
ふたりのなかがこじれているのは知っている。けどね、荒石くん……。
この世でたったひとり、愛せるひとが見つかること自体が、奇跡なの。
そんな素晴らしいひとに巡り合えた幸せを……守るべき。
妊娠出産のことは一旦置いておいて。……荒石くん。あなたは……高嶺のことが、もう、どうでもいいの? 高嶺が他の男に奪われていいと……思っているの?」
そのとき、わたしは気づいた。燃えるような感情を宿した彼の瞳に。――うん。わたしに出来ることは、もうなにもない。あとは……幸せな結末を待つばかりだ。
その夜、久しぶりにわたしは課長に抱かれた。避妊は、勿論していない。このときにはもう、わたしは別の結論を弾き出していた。――なるようになるさ。妊娠するでもいい、しないでもいい……誰にでも妊娠の可能性はある。ならば……同じ職場で働く同士、手を取り合い、仲良く過ごしていけたらいいな、と……。
翌朝、高嶺から電話があった。無事、荒石くんと仲直りしたとのこと。それを聞いてわたしは安心した。荒石くんの、高嶺に向けるまなざしが、いままでにないくらいに熱っぽいものだったから……。ビデオを撮るためにうちに来てくれたときも、ふたりとも、つき合いたての恋人同士に特有の、アッツアツの空気を放っていて……。このふたりは結ばれるべきだとわたしは思ったのだ。
「――それで。紅城くんは、結婚と出産を考えているんだよなあ?」
朝食の席にて、だしぬけに言われ、わたしはスコーンを吹き出しそうになる。「いや……あのその……」
「そりゃあ、中野さんの赤ちゃんを抱っこして、おれたちの結婚式にも出たら……そうだよな。母性刺激されるよなあ……。
紅城くんにも、自分の幸せを追求する権利があるはずだ。どちらが先とか、そんなのは関係ない。
中野さんは、四月には復帰するから……そうだな。もし、いま、妊娠したとしても、出産は十ヶ月後だ。その頃には中野さんは働いているはずだから……。
もし、おめでたいことが起きたなら、仲間として……同僚として、彼女たちの幸せを祝福してやりたい。おれは、そう思う」
「課長……」
なにもかもを分かっていて、このひとは、自然とそのひとが立ち上がるそのときを待っていたのだ。
「ありがとう。――そうだね」
それから一ヶ月後の一月に、高嶺は無事、正社員として採用され、かつ――入籍。それからお腹のなかに新しい命を宿し、六月には結婚式を挙げることとなる。
それまで、平穏無事に日々がただ流れていくのかと思えば……そうでもない、といった話であり。
誰しもに平等に訪れる、平凡で起伏に満ちた日々。……そんな日常に埋没しそうななかで、見つけ出す幸せ……。
わたしは、その過程のなかで、また課長の違った顔に――触れることとなる。
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