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「莉子ー。ただいまー」
「おかえりなさい」とわたしは玄関まで課長を出迎える。「ご飯にするー? お風呂にするー? それとも、わ、た、し? ☆」
「勿論――莉子さ」
時々、怖くなることがある。こんなにも幸せが……目の前に幸せが広がっていていいのかと。
抱き締めるあなたのぬくもりに浸りながら、自分の感情を言い表す、正確な言葉を探す。
今日は――金曜日。一週間のなかで、大好きな日だ。課長とべったりの休日もたまらないけれど、仕事に追われたここちよい疲労感と達成感に浸りながら、ビールを飲むかのように、課長のぬくもりを――感触を味わう。
終わりのない明日が見える。幸せは――この手のなかにある。
と、思っていたのだけれど。
「莉子は……子どもが、欲しい?」
課長の手は、いつもほどにはなめらかには動かない。戸惑いを感じるものの、わたしは頷いた。「はい……勿論」
「おれは……正直、複雑。……や、勿論、授かったらちゃんと……父親として、育てていきたいと思っているよ。……けど女のひとってさ。『持ってかれる』じゃん。……病院で、中野さんの表情を見て……思ったよ。
きみのなかで、ぼくは、一番でありたい……こう願う、おれは、エゴイストだろうか……」
――どうだろう。赤ちゃんが生まれたらやっぱり……赤ちゃんが一番になるのだろうか。課長が……二番目に?
そう思うとなんだか……恐ろしい。怖くなる。欲しい。赤ちゃんが欲しい。けど……課長のことも、大切。
ねえ神様。大切なものが一度にふたつ生まれたら、わたしは、いったいどうしたらいいの……?
答えが、出なかった。課長は、わたしの腕のなかではインナーチャイルド。小さな……傷ついた子どもだった。
そんなあなたを救うことを、わたしは最優先にしなければならない。――『ぼく』の正体だって、まだ掴めていない。
「いいんです……課長。焦らなくったって……。わたし、あなたがいれば、もう、なにもいらない……」
その日、わたしは、嘘をついた。本当は欲しくてたまらないのに……どうしてなのかは、分からない。誰もが当たり前のように手にしている幸せを……渇望しているのに。
課長の前で、嘘をついた。その事実は……思った以上に、自分を苦しめることになろうなどとは、露知らずに。
* * *
「ごめんな……おれ。莉子の気持ちを分かっているのに……我が儘言っちまったな。ごめん……」
一緒にベッドに入り、課長はそっとわたしを抱き締める。いいの、とわたしは課長の腕のなかで首を振り、
「課長のことが、一番大好き。誰よりも大切……だから。
無理しないでいこうよ。子どもは……欲しくなったタイミングで考えればいいよ。焦らなくていい」
「嘘なんか言わなくていい。……本当は、欲しいんだろ……莉子。
おれの前で、嘘なんかつかなくていい。
中野さんの赤ちゃんを抱っこしたときの、きみの顔を……忘れられない。
おれも、素直に、なる。だから莉子も……本当の気持ちを聞かせておくれ」
わたしの頬を撫で、うるんだ瞳で見つめるあなた。あなたに……嘘は、つきたくない。
「どうして欲しいのかまでは……分からない」気持ちの整理がつかないままに、言葉を放つ。「でも……街中で、よく見かけるじゃない。赤ちゃんや……小さな子ども。幸せそうなお母さん。子どもをあいだに挟んで歩く家族……。ああいう光景を見ていると、自分も手に入れたいなあ……って、思って……。
でも、その前に、わたしたちの関係がしっかりしてからでないと……だよね。
親が、親になる前に、きちんと、自立した人間にならないと……」
「おれが聞くのもなんだけど。じゃあ、いつになったら莉子は……子どもが欲しいと思っている?
そもそもおれたち、避妊なんかしてないじゃん。これからは……するべき?
結婚して。みんなに祝って貰って。……なのに、こんなマイナス思考しちまう自分がすげえ、やだな……って思うよ。
なんで、莉子を苦しめる発言をしちまうのかが分からない。
馬鹿なのか、って思うことがあるよ……自分でも、無茶苦茶なのは分かっている。
紅城さんが、子どものことで悩んで迷ったのと同じように。きみにも……『選ぶ』権利があると思っている」
「なにを……言っているんですか。今更ですよ。課長。わたし……あなたしか見えない。あなたしか、いらない。あなたさえこの世にいればいいとさえ思っている。……だから、そんな悲しいことを……言わないで」
「――おれ。おれは……」
深い悲しみを宿した目で、課長は、
「自分が、本当に、きみにふさわしい男なのか……分からなくなっている」
―番外編4・完―