夕暮れの陽光が、サンダリオス家の窓辺を優しく染めていた。
石造りの邸宅は、かつての威厳を保ちつつも、今は少し柔らかな空気に包まれている。
庭の木々が風に揺れる音が、かすかに聞こえてくる。
葉ずれのささやきが、静かな広間にまで届くようだ。
パイオニア・サンダリオスは、暖炉の前に座っていた。
炎のぱちぱちという音が、部屋を温かく満たす。かつての冷酷な表情は影を潜め、今は穏やかな目で家族を見守っている。
隣には妻のエリザがいて、手に編み物をしている。糸のすべる音が、穏やかなリズムを刻む。
しかし、その空気を切り裂くように、ルナの声が響いた。
「…本当にうんざりするわ」
ルナはダイニングテーブルの端に立っていた。
髪が肩まで流れ、影のように揺れている。彼女の瞳は、暗く沈んだ色をしていた。
制服のブレザーを羽織ったまま、まるで家に帰ってきたばかりのような様子だ。
手には魔法書を抱えていて、指先が少し白くなるほど強く握りしめている。
パイオニアがゆっくりと息を吐いた。
煙草の匂いが、かすかに部屋に残る。
「ルナ……レクトは、もう家族だ。
お前も知っているだろう。あの戦いで、彼は私たちを救ったんだ」
父の声は低く、優しい。
だがルナの表情は変わらない。むしろ、唇をきゅっと引き結んで、視線を逸らした。
部屋の隅で、影がゆらりと動いた。彼女の魔法が、無意識に反応している証拠だ。
エリザが編み棒を置いて、立ち上がった。
彼女のドレスから、柔らかなラベンダーの香りが漂う。母らしい、優しい匂いだ。
「そうよ、ルナ。いい加減、レクトを受け入れてあげましょう?
あの子は、あなたの弟なんだから。
昨日も、せっかく食事に来たのに……」
母の言葉に、ルナの肩がぴくりと震えた。
昨日、レクトが訪れた時の記憶が、鮮やかによみがえる。
あの時、テーブルに並んだ温かいスープの匂いが、鼻をくすぐっていた。
オムレツの黄金色が、夕陽に輝いていた。
でも、ルナの胸は冷たかった。
「受け入れる? 何を言ってるのよ。
レクト、レクトって……みんなあいつのことばっかり!」
声が少し高くなる。
ルナは自分でも驚いたように、口を押さえた。
部屋の空気が、重くなった。
暖炉の炎が、ぱちりと爆ぜる音が、沈黙を強調する。
パイオニアとエリザは、
困惑した顔で互いを見合わせた。
父はゆっくりと立ち上がり、ルナに近づこうとしたが、
彼女は一歩下がった。
足音が、カーペットに沈む。
「ルナ、何をそんなに……。
レクトのフルーツ魔法が、そんなに嫌いか?
あれはもう、恥なんかじゃない。
お前も知っているはずだ。あの黄金のバナナが、世界を救ったんだぞ」
父の言葉に、ルナの胸がずきりと痛んだ。
知っている。知っているけど、それが問題じゃない。
フルーツ魔法なんて、どうでもいい。
問題は、それじゃないのに。
(みんな、レクトのことばっかり……。
私の影魔法が、強くなってるのに。誰も気づいてくれない)
ルナの心の中で、言葉が渦巻く。
影魔法は、最近さらに洗練された。
戦いの後、彼女は一人で鍛錬を続けた。
影を操って、物体を隠すだけでなく、攻撃にも転用できるように。
昨夜も、庭で練習した。
月の光の下で、影が蛇のようにうねる感触が、手に残っている。
冷たくて、滑らかな感触。
自分の力が増している実感が、胸を高鳴らせる。
でも、家族は気づかない。
父はレクトの和解に夢中だし、母はレクトの体調を心配する。
みんな、レクト、レクトって。
うるさい。もっと、私にかまって欲しい。
私の成長を見て欲しい。褒めて欲しい。
(家族なんだから……言わなくても、気づいてよ)
直接言うのは、嫌だ。
プライドが許さない。
影のように、静かに存在して、でも認められたい。
言いたくないのに、気づいてくれないのが、悔しい。胸の奥が、熱く疼く。
涙がにじみそうになるのを、ぐっと堪える。
「嫌いよ。あんな魔法、くだらないわ。
私の魔法が1番サンダリオス家に相応しい!」
ルナはそう吐き捨てて、部屋を飛び出した。
階段を駆け上がる足音が、響く。
自分の部屋のドアをばたんと閉めると、ようやく息を吐いた。
部屋は暗く、窓から入る夕陽が、床に長い影を落としている。
影が、彼女の周りを優しく包む。
冷たい空気が、肌を撫でる。
ベッドに座って、膝を抱える。
手が少し震えている。
なぜ、こんなに苛立つのか、自分でもわからない。
いや、わかっているけど、認めたくない。
レクトが戻ってきたせいで、家族の視線が分散している。
それが、寂しい。
私は影魔法を、サンダリオス家の長女として誇れるような強い魔法にしたっていうのに、
気づいた時には誰も見てくれなくなったんだ。
みんなレクトのことに夢中になってさ。
外から、鳥のさえずりが聞こえてくる。
夕暮れの柔らかな光が、部屋をオレンジに染める。
ルナはゆっくりと息を吸った。
影が、足元でゆらゆらと踊る。
自分の魔法だけが、味方だ。
パイオニアとエリザは、広間に残されたまま、困惑した。
父は暖炉の前に戻り、ため息をついた。
炎の熱が、顔を温める。
「ルナはどうしたのか。……
もっとレクトに感謝するべきだろう。
本当なら記憶の鏡の影響でレクトのことを忘れているはずだった。
でもレクトはダルトリアに抗って、
ルナとエリザの記憶をドリアンで取り戻したんだぞ。」
エリザは頷いて、夫の肩に手を置いた。
ラベンダーの香りが、優しく広がる。
「きっと、時間が必要よ。
レクトも傷ついているわ。あの子、昨日も悲しそうだった」
二人は黙って、夕陽を見つめた。
家の中の空気が、重く沈む。
ルナの反発は、家族の最後の砦のように、固く閉ざされている。
セレスティア魔法学園の教室は、
午後の陽光に満ちていた。
窓から差し込む光が、机の上を金色に輝かせる。
黒板には、複雑な魔法陣の図が描かれていて、チョークの粉がふわりと舞う。
空気には、かすかなインクの匂いが混じっている。
レクト、カイザ、ビータ、ヴェルの四人は、机を寄せ合って座っていた。
魔法理論の授業が終わったばかりで、みんな頭を抱えている。
教科書が開かれ、ページの端が少し折れている。
「うわー、これ全然わかんねぇ。電気魔法の応用なんて、俺の得意分野なのにさ」
カイザが髪をくしゃくしゃにかきむしりながら、笑った。
ぱちぱちと小さな電気の粒が、指先から飛び散る。
陽気な声が、部屋に響く。
ビータは冷静に教科書をめくり読み進める。
「ここ、間違ってるよ。
魔法の流れを逆算してみて。時間軸を考慮すると、こうなるはず」
彼の声は静かで、部屋の温度を少し下げたような感じだ。
外から、風が窓を叩く音が聞こえる。
ヴェルは隣で頷きながら、ノートにメモを取っていた。
茶髪が光を受けて、きらきら輝く。
時折、レクトの横顔をちらりと見る。
心臓が、どきんとする。
昨日の一件を思い出すと、頬が熱くなる。
(また、変なこと考えちゃう……。勉強に集中しなきゃ)
レクトはみんなの話を聞きながら、
ぼんやりと窓の外を見ていた。
青い空が広がり、雲がゆっくり流れる。
頭の片隅に、昨日の姉の言葉が残っている。
ー今すぐ出て行けー
あの冷たい声が、耳に響く。胸が少し痛む。
「よし、みんなで本気の勉強会やろうぜ!
ワイワイやれば、わかるかも」
本気の勉強会ってどゆこと。
カイザの提案に、みんなが頷いた。
机をさらに寄せ、教科書を広げる。
笑い声が飛び交う。
ビータが説明し、カイザが冗談を飛ばす。
ヴェルが時折笑って、レクトの肩に触れる。
触れた瞬間、ヴェルの胸がまたドキドキする。
レクトは気づかず、微笑む。
しばらくして、お腹が鳴った。カイザが大笑い。
「おいおい、腹減ったな。購買行って、お菓子買おうぜ」
みんなで立ち上がり、廊下を歩く。
足音が軽やかだ。購買部は学園の1階にあり、棚に色々なお菓子が並んでいる。
甘い匂いが、店内を満たす。
「見て、チョコが売れ残って安売りしてる!」
ヴェルが指差す。チョコレートの袋が、山積みだ。
少し溶けかけたような、甘い香りが漂う。
レクトの目が輝いた。
「じゃあ、みんなでチョコバナナしよう! 俺、バナナ作るよ」
フルーツ魔法で、手のひらにバナナが現れる。新鮮な果物の匂いが、広がる。
皮をむくと、柔らかな実が露わになる。
みんなでチョコを溶かし、バナナに掛ける。
チョコの温かい感触が、指に残る。
「わー、美味しそう!」
ヴェルが一口かじると、甘さと酸味が混じり、口いっぱいに広がる。
みんなで笑いながら食べる。
カイザがチョコを顔に塗って、ビータがため息をつく。楽しい時間だ。
でも、レクトの笑顔の奥に、影がある。
姉の言葉が、頭から離れない。
バナナの甘さが、胸の苦さを少し溶かすけど、完全に消えない。
(どうしたら乗り越えられるかな……)
そんな時も、レクトはそれを気にしていて、心がざわつく。
学園の喧騒から少し離れた校長室は、静かだった。
重厚な木のドアを開けると、古い本の匂いが迎える。
棚に並ぶ書物が、埃っぽい空気を生む。
窓から入る光が、カーペットを淡く照らす。
アルフォンス校長は、大きな机の向こうに座っていた。
白い髭が、優しく揺れる。
眼鏡の奥の目が、レクトを優しく見つめる。
「レクト君、どうしたのかね? 珍しいな、君が相談に来るなんて」
校長の声は、低く温かい。
お茶の湯気が、部屋に立ち上る。紅茶の香りが、心地よい。
レクトは椅子に座り、深呼吸した。
外から、遠くの生徒たちの笑い声が聞こえる。
学園の日常が、続いている。
「校長先生……姉のことなんです。
姉のルナがまだ俺のフルーツ魔法を、受け入れてくれなくて」
言葉を紡ぐ。昨日の出来事を、ゆっくり話す。
校長は黙って聞き、時折頷く。
お茶をすすり、湯気の向こうで考える。
「ふむ……影魔法使いのルナ様か。
あの方は、プライドが高いからな。
影魔法の才能も、相当だ」
校長は立ち上がり、窓辺に寄った。
外の庭が見える。木々が風に揺れ、葉のささやきが聞こえるようだ。
「レクト君、家族の絆は、
簡単には修復されない。
戦いが終わっても、心の傷は残る。
ルナ様は、おそらく寂しいんだ。君が戻ってきたことで、家族の注目が分散したと感じているのかもしれん」
レクトの目が、少し潤む。
校長の言葉が、胸に染みる。お茶の熱さが、手を温める。
「でも、どう向き合えば……。ルナは、話も聞いてくれないんです」
校長はゆっくりと振り向いた。髭を撫で、微笑む。
「時間だよ、レクト君。急がないこと。
まずは、自分を信じるんだ。
フルーツ魔法は、君の力。恥じゃない。
ルナ様も、いつか気づくさ。だから強引に押すな。影のように、静かに待つんだ」
校長は本棚から、古い本を取り出した。
ページをめくり、魔法の理論を説明し始める。
家族の心理について、魔法の比喩を使って。
時間遡行のように、過去を振り返る方法。
影を操るように、心を包む術。
レクトは聞き入る。
部屋の空気が、穏やかになる。
外の光が、徐々に夕暮れに変わる。紅茶の香りが、優しく残る。
相談は長く続き、レクトの心が少し軽くなる。校長の言葉が、道しるべになる。
「ありがとうございます、校長先生」
レクトが立ち上がると、校長は頷いた。
「がんばれ、レクト君。
君なら、きっとまた家族と居られるよ。」
ドアを閉め、外に出る。
廊下の冷たい空気が、頰を撫でる。
学園の鐘が、遠くで鳴る。夕陽が、赤く染まる。
レクトは歩きながら、姉のことを思う。
最後の砦は、まだ固い。
でも、いつか、溶けるはず。
コメント
4件