テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
部屋の明かりは、ベッドサイドの小さなスタンドライトだけ。
淡いオレンジの光が、ヴェルの茶髪の髪をぼんやりと照らしている。
窓の外はもうっすらと霧がかかり、学園の尖塔さえぼやけて見えた。
ヴェルはベッドに座って魔法書を読んでいた。
もう何度も読んでいるのに。
指が紙をめくるたびに、秒針もぐるっと円を描いてゆく。
最近、眠れない夜が続いている。
その時携帯電話から着信音が鳴った。
画面に表示されたのは「母」。
ヴェルは一瞬、息を止めた。
母とはあまり仲が良くない。
こんな時間に。
ヴェルは疑問に思いながら着信を押す。
「……もしもし」
『ヴェル? 今すぐ帰ってきて』
いつもの、感情を削ぎ落とした氷のような声だった。
ヴェルは背筋が冷たくなるのを感じた。
『お前の知り合いだって子が来たわ。
ボロボロで、お前の名前しか言わない。
面倒事は避けたいから他言無用でとっとと会ってあげて。
それですぐ連れて帰って』
それだけ言って、ガチャリと切られた。
呼び出し音すら残さない、完璧な一方的な終わり方。
ヴェルは携帯電話を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
知り合い? ボロボロ? 名前しか言わない?
誰だろう
当てはまる人なんて一人もいない
ため息をひとつ吐いて、ヴェルは立ち上がった。
クローゼットから大きめのバッグを取り出し、必要最低限の服と、学園指定の外套を詰め込む。
寮の門限はとっくに過ぎているけれど、母の声には逆らえない。
学園の門を出るとき、警備の魔導人形に「家族の急用です」とだけ告げて、夜行バスに乗った。
キリサキ町は霧が深かった。
まるで世界が牛乳に沈んだみたいに、白く濁った夜だった。
夏になるとそうなるものだった。
それでも霧がすごかった。
タクシーが家の前で停まると、
運転手すら
「こんな霧、初めてだ」と呟いていた。
家についた。
表札には「ルナリア」とだけ彫られている。
ヴェルが鍵を開けて中に入ると、土間の奥、台所に母の背中があった。
黒い作務衣姿で、流しで何かを洗っている。
振り向きもしない。
「遅い」
それだけ。
まるで「バカ」と責めているわけでもなく、ただ事実を述べているだけのような、感情のない声。
ヴェルは靴を脱ぎながら、小さく答えた。
「……急いで来たんだけど、ごめんなさい」
母は手を拭きもせず、居間の方を顎で示した。
居間の明かりはこたつだけのオレンジ。
そのこたつに、毛布にぐるぐる巻きにされた少女が座っていた。
紫色の短い髪、
蒼白すぎる顔。
そして、虚ろな紫水晶のような瞳。
「……ミラ!?」
ヴェルは思わず駆け寄った。
ミラはゆっくりと顔を上げた。
「あ、ヴェルちゃん」
掠れた声だったけれど、いつもの落ち着いた、だけど感情の起伏が少ない調子だった。
「どうしてここに……?」
ミラは毛布を少しずらして、泥だらけの戦闘服を見せた。
その黒い服は、まるで何日も山野を彷徨ったように破れ、汚れている。
腕には新しい切り傷が無数に走り、血が滲んだまま乾いていた。
「あのあとパイオニア様に吹っ飛ばされて、気がついたら山奥だった。
歩いてたら、ルナリアって表札見つけて。
ヴェルちゃんの実家だってすぐにわかったから」
母が台所から冷たく告げた。
「明日までには連れて帰って」
まるで汚れた洗濯物でも追い出すような言い方だった。
ヴェルは頷きながら、ミラの隣に腰を下ろした。
「怪我、大丈夫?」
「大したことない」
ミラは平然と答えたけど、指先が小刻みに震えているのをヴェルは見逃さなかった。
「あ……そういえば!」
ヴェルはすぐに携帯電話を取り出し、レクトにメッセージを送った。
【今、実家にいるんだけど、ミラが突然来た!
杖の修理でキリサキ町に来てるって言ってたよね?
もしよかったら寄ってくれる?】
……ちょうど良かった。
私が暇していたのはレクトが寮にいなかったからなのもある。
もしかしたら会えると思っていたけど、
浮かれてる場合じゃないと思ってたから。
そして
返信は三十秒もしないうちに来た。
【修理終わったところ!
今から行く!
てかミラ無事だったの!?】
三十分後。
玄関のチャイムが鳴った。
開けると、レクトが立っていた。
黄緑の髪を無造作に後ろに払い、息を切らしながら。
でも、顔が真っ青だった。
唇まで血の気がない。
「……レクトどうしたの!?」
レクトは室内を見回してから、震える声で言った。
「……ヴェル、すごいもの見ちゃった」
「え?」
「こっちに来る途中の、山道で……道路の真ん中に、金髪の女の子が倒れてた」
ヴェルもミラも、息を呑んだ。
「白いワンピース着てて……仰向けで……
血は一滴も出てなくて、でも……完全に死んでた。
目が開いたままだった」
ミラが、毛布の中で小さく頷いた。
「……それなら私も見た。同じ場所」
レクトは携帯電話を握りしめたまま、震える手で通報しようとした。
でも、電波マークがゼロ。
キリサキ町の山奥は、元々電波が悪いのに、今夜は特にひどい。
「霧がすごかったから、くっきりは見えなかったんだけどね」
ヴェルは窓の外を見た。
ガラスに自分の顔が映るほど、霧が濃い。
街灯の光すら呑み込んで、白い闇だけが広がっている。
「……明日、朝になったら警察に連絡しよう」
ヴェルが呟くと、レクトもミラも小さく頷いた。
でも、三人とも、誰もすぐに眠れそうになかった。
沈黙が落ちる。
ミラがぼそっと呟いた。
「……とりあえず、お腹空いた」
ヴェルはふっと苦笑いして立ち上がった。
「カレー、温めるね。
母が作ったやつ、まだ残ってるから」
台所に行くと、母はもう姿を消していた。
寝室にでも引き上げたらしい。
ヴェルは冷蔵庫からタッパーを取り出し、鍋に移して火にかける。
カレーの匂いが立ち上り、ようやく少しだけ、空気が和らいだ。
三人でこたつを囲んでカレーを食べながら、誰もあの話を口にしなかった。
ただ、時々窓の外をチラ見するだけ。
スプーンを置いたミラが、ぽつりと言った。
「……あの子、なんで道路の真ん中で死んでたんだろう」
ヴェルとレクトは同時に顔を上げた。
「道路で寝てる変な人なのかもって思ったけど、しっかり目を見開いて息してなかった。」
レクトが震える声で付け加えた。
「確かに気味悪いよな。
それに近所だし」
ヴェルはスプーンを握ったまま、言葉を失った。
そしてミラが口を開く。
「ところであなたは誰?ヴェルちゃんの……友達?」
「……!!!!」
レクトはその言葉に反応する。
そうだった。
レクトに関する記憶は、ダルトリアの暴走によって国民からは消されていた。
「あ……うん!
友達だよ、な、仲良くしてね……!」
ヴェルは気まづそうに言った。
「………………そっか、よろしく」
外の霧は、ますます濃くなっていく。
まるで家ごと呑み込もうとするように、白く、静かに、押し寄せてきていた。
コメント
5件