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エドガーは、倒れた魔神を見ていなかった。
見ていたのは、“残された一拍”だけだ。
あのシールド。魔法を滑らせ、弾き、無効化する、嫌味みたいな防壁。
ただの火力では割れない。連射で叩き潰すこともできない。——エリーほどの出力と手数がなければ。
(なら、精度だ)
喉の奥で息が細く鳴った。焦りで声が震えそうになるのを、歯で噛み殺す。
精度百。いや、百では足りない。二百へ。二百の“詠唱の形”を、この瞬間に作る。
魔神は地面に伏していながら、まだ笑っていた。
黒い球体が、傷だらけの腕の先に滲み出る。だが不安定だ。形が歪み、膨らんでは潰れ、まだ“閃光”になりきれない。
——狙っている。
エドガーにはわかった。わかってしまった。
この黒い閃光は、自分に向く。次の瞬間、胸を貫く。もしくは頭を砕く。
けれど、避けない。
避けたら、途切れる。
ダリウスが腕を落とし、ミラが石になりかけ、オットーが腱を切ってまで繋いだ“時間”が、ただの徒労になる。
(リズムは……これで正解か? 違う。まだ良くなる。発声、もう一段落とせ。抑揚を……緩急を、載せろ)
エドガーの唇が、乾いた文字列を刻む。
魔導書のページは汗で湿り、指が紙に貼りつく。虫眼鏡の向こうで、文字が波打つ。
魔神の黒い球が、ようやく“完成”の輪郭を持った。
空気がひしゃげる。雷を纏った黒の線が、放たれる。
——来る。
エドガーは、一歩も動かなかった。
その代わり、詠唱だけが加速した。心臓が喉までせり上がり、声が裏返りそうになる。それを“整える”ことに全神経を使う。
次の瞬間、前に影が差した。
エリーだった。
青い髪が揺れ、細い背中が、盾みたいに立ちはだかる。
躊躇のない動き。恐れのない眼。
「——《シールドバッシュ》」
打ち鳴らされた光が、黒い閃光を砕いた。
砕いた、はずだった。
砕け散ったはずの欠片が、たった一本の針みたいに残っていた。
それが——エリーの腹部を、貫いた。
どさり、と音がして、エリーが崩れ落ちる。
床に赤が広がる。信じられないほどの赤。
エドガーの顔から血の気が引いた。
喉が詰まり、声が出ない。視界の端で、魔神が笑っているのが見えた。
——だが、詠唱は止めない。
止めたら、エリーはただ死ぬ。
止めたら、全員が無駄になる。
魔神が、もう一つ黒い球を作る。今度は“弱々しい”。さっきのような圧はない。
けれど狙いは違う。あれは——殺すためではなく、折るための一撃だ。
閃光が走った。
パキン、と乾いた音。
虫眼鏡が、砕けた。
ガラス片が散り、光が乱反射して、魔導書の文字が一気に滲む。墨が溶けたみたいに読めない。
「くそっ……!!」
エドガーの声が、初めて感情で割れた。
「あと一節だったのに……!」
魔導書を見る。見えるはずの文字が、ただの黒い染みになる。
世界の輪郭が崩れる。息が浅くなる。指が震える。
(考えろ。考えろ。みんなが作った時間だ。無駄にできない——)
その瞬間、記憶が差し込んだ。
青い髪。乾いた口調。
岩場の端で、何気なく投げられた言葉。
『——あ、そうだ。エドガー。
このダンジョンは“若い”。もしかしたら——魔導書なしで、魔法が使えるかもしれないわよ?』
若い。
新しい。
ルールが固まっていない。
(魔導書が読めないなら——)
エドガーは、立ち上がった。
膝が笑う。心臓が暴れる。喉が焼ける。
それでも、立ち上がる。
(作ればいい)
魔導書は道具だ。
構文は骨格だ。
単語は部品だ。
リズムと発声は——魔法の点火だ。
何千、何万の魔導書を読んだ。人生の大半を捧げた。
なら、ここで素手になれないわけがない。
空気が変わった。
戦場の音が遠ざかる。
剣戟も悲鳴も、松明の爆ぜる音も、全部が薄い膜の向こうになる。
エドガーは、まっすぐに魔神を見つめた。
目の奥が冷える。冷えたまま燃える。
「フォル・フェテム・イルス・ドゥアガ——」
それは今までの詠唱と違った。
滑らかで、速く、激しい。
魔導書に合わせた声ではない。自分の喉に合った声だ。
魔神の顔色が変わる。
黒い球体を出そうとするが、形が崩れる。不安定だ。間に合わない。
「ミリョ・ナゥ・レテナ——《無名の魔法》」
言葉が落ちた瞬間、空間の継ぎ目がきしんだ。
魔神の胸元から、あり得ない速度で樹が伸びた。根が肉を押し広げ、幹が骨を割り、枝が角へ絡みつく——生命のふりをした侵食。
次いで、幹の裂け目から溶岩が噴き出した。
赤い粘液が血のように脈打ち、熱で空気が波打つ。床がじゅっと鳴き、松明の炎が一斉に横へ倒れた。
暴風が来た。
風は音ではなく圧だった。鼓膜の奥を殴り、肺の空気を奪い、円形の広間そのものを撹拌する。
そこへ、雹が落ちる。
拳ほどの氷塊が砲弾みたいに魔神を叩いた。黒い装甲が砕け、溶岩の熱で瞬時に蒸気が立ち上がる。白い霧が渦を巻き、視界の奥で——風が炎を抱いた。
炎の竜巻。
焼けた空気が唸り、黒い巨体が持ち上がり、削られ、裂け、ほどけていく。
叫びが上がった気がした。だがそれは途中で砂になり、灰になり、チリになって散った。
風が止まる。
残ったのは、焦げた床と、熱の揺らぎだけだった。
魔神の影は、どこにもない。
エドガーは一拍、呆然と立ち尽くした。自分の声がまだ喉の奥で震えている。手が、空を掴むみたいに震えている。
——次の瞬間、視線が赤に引っ張られた。
床に広がる血。
その上に、青い髪。
現実の色が急に濃くなった。さっきまで世界を裂いていた魔法の光景が、夢だったみたいに遠ざかる。代わりに、血の匂いが刺さる。鉄の匂いが喉の奥まで入り込む。
エドガーは走った。
足がもつれる。足が震える。魔導書が腕にぶつかり、痛みすら感じない。
血まみれの赤と、美しい青が並んでいる。
その取り合わせが、あまりに不釣り合いで、現実感を奪った。
「エリー!!」
叫びが、円形の広間に跳ね返った。
返ってくるのは、松明の爆ぜる音と、遠くで誰かが息を呑む気配だけだった。
#ハッピーエンド
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