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エドガーは転がるように駆け寄り、膝をつくより早くエリーの身体を抱き上げた。
腹部から溢れた血が指の隙間をぬるりと抜けていく。量が多すぎて、熱いはずなのに冷たく感じた。
「エリー! 何をやってるんです、速く——加護で回復を!」
叫びは壁にぶつかり、硬い反響になって戻ってきた。
エリーは真っ青な顔でエドガーを見上げる。焦点は合っているのに、まばたきが遅い。
「……無理よ」
吐く息が細い。
「苦しむ時間が……伸びるだけ……」
「そんな——」
エドガーの視界の端に、倒れたミラが映った。頬まで這い上がった石化、額の血。
瞬間、胸の奥の何かが裏返る。
「ミラ!! ミラ!!! 起きてください!!!」
それでもエリーは咳き込むように口元を歪め、赤を吐いた。
血が唇を染める。鮮やかすぎて、現実味を奪った。
「……気にしないで、エドガー……」
「気にしないでって——!」
エドガーは首を振る。否定するように何度も、何度も。
頭の中だけが暴走して、言葉が追いつかない。
「ダメだ! もっと……もっと私は、あなたと魔法の話をしたり……もっと……あなたから教わることが……!」
エリーは力なく笑った。笑っていい場面じゃないのに、その笑みだけがひどく優しい。
「ふふっ……最後まで、あなた……魔法のことなのね」
エリーは震える手でネックレスを引き出した。女神の刻印が淡く光り、加護の光が彼女の身体を包む。
血の勢いが、ほんの少しだけ穏やかになる。――それだけだった。
それでもエリーは、どこか満足そうに息をつき、エドガーに小さく笑いかけた。
「……気が変わった……」
声が糸みたいに細い。
「もう少しだけ……あなたと話したくなったわ」
血まみれの手が、エドガーの頬に触れる。
ぬるいはずの血が冷えていて、指先がやけに軽い。
「あなた、初めて会った時から……魔法の講釈ばかり……」
エリーの瞳から、ゆっくりと精気が抜けていく。
それでも嬉しそうに続けた。
「……でも、こう言ったわよね。『魔術師は物語を紡ぎ、私たち魔法使いはその物語をなぞる』って……」
言葉の端が震える。
「……あの言葉、友達が帰ってきたみたいで……本当に嬉しかった」
「エリー……っ、う――」
声が喉の奥で詰まり、エドガーは言葉にならない息を漏らした。
その腕の中で、エリーの身体が淡く光る。炎でも月光でもない、どこか透けるような光だった。
背筋に冷たいものが走る。
(なんだ……? エリーと出会った頃の記憶が……思い出せない……)
頭を掻きむしりたくなる。
初めて彼女の名前を聞いた瞬間。部屋に入った。魔導書を渡した、あの表情。
そこに、ぽっかりと穴が空いている。
(いつだ……どこだ……? 思い出せ、思い出せ……!)
焦れば焦るほど、指先から砂が零れるみたいに輪郭が崩れていく。
(ダメだ! ダメだ! ダメだ! 記憶を……繋ぎ止めろ!)
エドガーは祈るようにエリーを抱きしめた。
力を込めれば込めるほど壊れてしまいそうで、結局、震える腕で触れているだけになる。
エリーは目を閉じ、微笑んだ。まるで、ずっと前から知っていた結末みたいに。
「……ダメね。塔が、記憶を食べ始めたのね」
その言葉の直後だった。
エリーを包む光が泡のようにぷつぷつと弾け、離れていく。光は上へ、上へと天井の暗闇へ吸い込まれていった。
塔が、奪っていく。
「……エドガー」
エリーが目を開ける。
“愛おしいもの”を見る目で、彼を見つめた。
「私……愛する人や友人を、看取って……看取って……本当に疲れた」
息が途切れそうになる。
「でも……もう一度だけ……看取ってもいいかなって……思ったのよ。あなた達を」
「えぇ、ですから……これからも、一緒に……!」
エドガーは必死に言葉を繋ぐ。未来へ押し出すみたいに。
けれどエリーは、弱々しく吹き出して笑った。
「あなた達……本当に面白いのよ。すぐ息切れするし、痛風だし……それに、魔法使いは老眼もち」
エドガーは涙を噛み殺し、笑いかける。笑わなければ崩れてしまう。
「えぇ……情緒ある詠唱を、あなたも楽しめたでしょう?」
エリーは、死にかけているという現実が嘘みたいに、心底幸せそうに頷いた。
「だから……私、本当に幸せなの。人生で初めてよ」
胸の奥の光が、また一つ泡になって溶ける。
「“愛した人”の腕の中で……看取られるのは」
「だめだ!! エリー!!」
叫びは、救いにならない。
エリーは諭すように、柔らかく笑った。
「ふふっ……泣かないで、エドガー。皆いつか死ぬわ。平等で、絶対なのよ」
かすれた声に妙な自信が混じる。
「私が言うからには……間違いないわ」
「まだだ! 何かあるはずだ、エ――」
呼ぼうとして、舌が止まった。
名前が、出てこない。
喉の奥が凍りつく。
目の前にいるのに、腕の中にいるのに。
(……嘘だ。名前が……思い出せない……!?)
エリーは、ふっと笑みを消した。
その目だけが、最後に残った火みたいに真剣だった。
「少しでも私を“未来”に連れて行って欲しいから……最後に足掻くわ」
言葉の端に、いつもの毒が混じる。
「あなた達、どうしようもない中年みたいに」
エリーは腰のポーチに手を伸ばした。
魔導書――古い革表紙。けれど、その重みが今は岩みたいに感じるのか、指が震れて何度も落としかける。
エドガーは息を止めた。
抱いた腕の中で体温が少しずつ遠ざかっていくのに、視線だけは確かに彼を捉え続けている。
「フォルス・ジェルゥ・キンドゥス・アメル――《想い紡ぎ》」
音が、世界を縫い合わせる。
詠唱が終わった瞬間、エドガーの身体が光に包まれた。暖かい。けれど、それは回復の光じゃない。もっと、繋ぐための光だ。
「なっ……何を……?」
理解が追いつかない。
それでも、胸の奥がぞわりとした。何かが今まさに動いたと、本能が告げている。
エリーは幸せそうに微笑んだ。痛みで顔が青いのに、その笑みだけがやけに綺麗だった。
「最後の魔法よ。じゃあね……愛しい魔法使い……」
その言葉が終わる前に、エドガーの腕から力が抜けた。
だらん、と。
重かったはずの命が、ただの重量になる。支えるべき理由が、ふっと消える。
さっきまで。
さっきまで彼は、泣いていた。
名前を呼べずに叫んで、記憶を繋ぎ止めたくて、喉が裂けるほど必死だった。
なのに。
次の瞬間、世界は乾いた。
感情の熱が、すっと引く。
涙の痕だけが頬に残り、本人だけがその理由を知らない。
叫びたい喉が、なぜか落ち着いた声を選んだ。
「……エルフ?」
エドガーは、床に横たわる青い髪の女を見下ろした。
視線は冷静で、瞳の焦点は正確で、声には震えがない。
「一体誰だ? 仲間ですか?」
返事がない。
当然だ。彼女はもう、息がない。彼にとってはただの状態だった。
エドガーはすぐに顔を上げた。
戦場の空気を測り、優先順位を並べ替える。
「……それより、みんなの応急処置を!」
さっきまで世界の中心だったものが、音もなく端へ押しやられる。
胸の穴は空いたままなのに、痛みがない。
痛みがないことが、いちばん怖い。
エリーの微笑みだけが、彼の中から剥がれ落ちた何かを、静かに見送っていた。
エドガーは迷いなく走った。
さっきまで胸を握り潰していたはずの焦燥は、もう手順に変わっている。
最重症――まず一人。
床を蹴って辿り着いた先、オットーが転がっていた。巨体が崩れた岩みたいに歪んでいる。
脚は、生き物の関節が取りうる角度じゃない方向へ折れ曲がり、脂汗が皮膚をぬめらせていた。
エドガーは膝を折り、視線だけで状態を読み取る。
「オットー! 大丈夫です!?」
呼びかけは大きい。だが声は冷たいほど落ち着いている。
オットーは歯を食いしばり、苦痛で顔を引きつらせながら、かすれた声を返した。
「あぁ……でも、すまねぇ……歩けねぇ……」
「わかりました。すぐ応急処置をします」
エドガーはポーチを引き寄せ、瓶をねじ開ける。
その手際の良さが、皮肉なくらい正確だった。
「とりあえずポーションを飲んでください。――今です」
オットーの喉が動くのを確認すると、エドガーはもう次を見ていた。
戦場を一瞥。
音、匂い、呼吸の荒さ。生きている者の数。倒れている者の位置。
次は――部屋の奥。両腕を地面につき、肩で息をしているダリウス。
エドガーは顔を上げ、壁に声をぶつけるように叫んだ。
「ダリウス! 無事ですか!? 治療は必要ですか!?」
返事は反響を引き連れて戻ってきた。苦しそうなのに、芯だけは折れていない声だ。
「大丈夫だ。……俺より、ミラを」
「了解です!」
エドガーはすぐ踵を返した。
床に伏せるミラへ駆け寄り、その小さな身体のそばにしゃがみ込む。
呼吸はある。
意識はない。
額の出血は止まりかけている。
(大丈夫。気絶しているだけだ。今は……生きている)
確認が終わると、エドガーは顔を上げた。
ダリウスの方へ、はっきりと声を返す。
「ミラ、大丈夫です! 命に別状はありません!」
言い切った瞬間、ようやく部屋の空気が終わったと気づく。
魔神の気配はもうない。
黒い閃光も、巨剣の風圧も、嘲るような笑みも。
あるのは、血の匂いと、焦げた石と、散り散りになった呼吸だけ。
こうして魔神との激闘は終わった。
誰も名を知らない――それでも確かにそこにいた犠牲のおかげで。
#ハッピーエンド
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