テラーノベル
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羽根ペンを握りながらも、リリアンナの手は時折止まってしまっている。
紙の上をなぞる視線はどこか虚ろで、ランディリックの助言もほとんど耳に入っていないのか、先ほど桁をそろえるよう言ってみたが、リリアンナの心を反映したみたいに数字の並びは全然整っていなかった。
その様を横目に確認したランディリックは、手にしていた書類を置くと、静かに言った。
「……少し休憩しようか」
その声に、顔を上げたリリアンナへ、ちょっとだけ考えてから静かに続ける。
「気分転換に、ナディエルのところへ見舞いに行ってはどうかな? ナディエルもきっと喜ぶと思うぞ?」
「そのついでにカイルのところにも――」
「それは却下だ」
淡い期待を込めて告げられたんだろうリリアンナの声を、だが、ランディリックは低く、硬い声で即座に遮る。
一拍置いて、噛んで言い含めるように付け加えた。
「そっちは約束しただろう? 彼が意識を取り戻すまでは、行かせられない」
「……でも」
リリアンナの〝でも〟という声に、ランディリックは静かに視線を向ける。
「約束が守れないなら、カイルが意識を取り戻したあとも会いに行くのを禁止するけど……それでもいいのかい?」
こんな言い方をすれば、リリアンナが自分に従うしかなくなることを分かっていてなお、ランディリックはそう告げるしかなかった。
素直に従うしかないと思い知らされたんだろう。
リリアンナはギュッと小さな手を握りしめて、一瞬だけランディリックを睨んだ。
でも、すぐさま小さく吐息を落とすと「分かりました。ナディのところにだけ顔を出します」と素直にランディリックへ従うと意思表示をする。
表情にこそ一瞬しか現れなかったけれど、リリアンナの胸の奥にじくじくとした不満が溜まっているであろうことが、ランディリックには手に取るように分かった。
その証拠にリリアンナの手の下で、紙の端にわずかな皺が寄っていた。
***
リリアンナが椅子を引き、立ち上がろうとしたその瞬間、ランディリックが彼女を制し、机上の小さな呼び鈴を鳴らした。
甲高く、澄んだ音色が執務室に響く。
「旦那さま、お呼びでしょうか?」
執務室傍へ控えていたんだろう。すぐさまノックとともに戸口へ顔を出した侍女に、ランディリックは簡潔に告げた。
「ブリジットを呼んできてくれるか?」
「かしこまりました」
綺麗なお辞儀をした侍女が立ち去ってほどなくして現れたブリジットに視線を向けると、ランディリックが淡々と命じる。
「忙しいところ申し訳ないが、リリアンナをナディエルの部屋まで案内してやってくれるかな? 一人で行かせるのは不安だからね」
「……!」
ランディリックがそう告げた途端、リリアンナの唇がきゅっと噛み締められた。
ランディリックの言葉の裏にある意図を見抜くのは容易だったからだ。
(私を一人で出歩かせれば、途中でカイルのところへ足を向けるかもしれないって思ってるんだわ)
だから、監視役としてブリジットをつけたのだ。他の侍従ではリリアンナに丸め込まれる可能性がある。それすらも見透かされているようで、リリアンナは悔しかった。
(カイル……)
そうしてランディリックの警戒はある意味正しい。リリアンナは、口では素直にランディリックに従うふりをしたけれど、ほんのちょっとだけ、医務室に寄ってカイルの様子を見ようと思っていた。
老医師セイレン・トーカに見咎められて、苦言を呈されてしまうかも知れないけれど、きっと……リリアンナが本気でお願いすれば折れてくれる。
そんな淡い期待が打ち砕かれたのを、
「承知いたしました、旦那さま」
ブリジットが恭しく頭を下げ、こちらに向けて手を差し出してくる様を眺めながら、リリアンナは痛感させられたのだ。
リリアンナは小さく吐息を落とし、その手を取るしかなかった。
胸の奥に渦巻く苦々しい思いを隠しながら――。
***
執務室に残ったランディリックは、静かに書類へ視線を戻した。
本当なら自分がついて行きたかった。だが、仕事は山のように積まれている。今日はリリアンナに付きっきりでこの部屋にこもっていたから、実地の職務がおざなりになっている。
明日はそれもこなさねばならないだろう。
剣の鍛錬も、毎日続けなければ腕がなまる。
リリアンナとともに昼食を済ませたら、セドリックとブリジットによくよくリリアンナのことを頼んで、外の業務もこなさねば――。
日頃なら領民のため、また国境警備のため、忙しく兵士らと外を駆け回る時間が執務室に座っている時間より好きだ。
だが、リリアンナのことを思うと、城外へ出ることがこれほどまで不安になる。
「……気を引き締めなくては」
誰にともなく呟き、羽根ペンを取り上げる指に力がこもった。
コメント
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ランディリック、リリアンナに嫌われちゃわないかな?