テラーノベル
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エレベーターの扉が開くと、廊下の窓の隙間から雨風が吹き込み、水溜まりができていた。
黒いクロックスがカポカポと力なく進み、靴底の跡が一番端の臙脂色の玄関扉の前で止まった。
801号室 。
瑠璃から「他に好きな人ができた」と告げられた瞬間、胸に重いものが迫ってきた。
本当にこれで良かったのか。どこかで間違えたのではないか。
テーブルの上に残された瑠璃色の指輪を掴み、手のひらに乗せると、かすかな温もりがまだ残っているような気がした。
二年前、金沢21世紀美術館のパティスリーで、瑠璃の手に青いリボンのついた白い小箱を渡した日のことを思い出す。
(わぁ、4℃! ありがとう!)
ハーフアップの巻き髪、笑顔、白い店内。全面ガラス張りの窓の向こうは青い芝生。
テーブルの白い皿には赤いいちごのミルフィーユ、銀のカトラリー、飲みかけのアイスティーとアイスコーヒー。
ただ、その場面を思い出せても、あの瞬間の逸る鼓動は、もう蘇らない。
(これで……良かったんだよな)
801号室のインターフォンに、右手の人差し指を伸ばした。
しかし指は止まる。
佐川さんとの約束の時間から、もう三時間が経っていた。
ザリザリ。
クロックスが床の砂を噛む音を立て、身を翻したその瞬間――鍵の音がして、扉が開いた。
「奈良くん、帰っちゃうの?」
「佐川さん……」
「い、行かないで」
佐川さんの目は大きく見開かれ、暗がりの中でも白目がギラギラと光っていた。
縋るような黒い瞳と、細く白い指が、俺の腕を強く掴む。
一瞬、俺は怯んだ。
豆の形のテーブルには、二つのグラスに注がれた立山が、静かに輪を作っていた。
それを挟んで向かい合って座った俺と佐川さんは、水滴の付いたグラスを交互に口に運んだ。
日本酒は喉で熱を持ち、空になった胃に落ちていく。
部屋の空気は重く、互いの目は俯きがちだった。
やがて、佐川さんが小さな声で言った。
「奈良くん」
「うん」
「る、瑠璃さんは……?」
瑠璃さんをマンションのロビーで見かけたとき、彼女が奈良くんの部屋に泊まるのではないかと、酷く不安になった。
約束の時間を過ぎても訪ねてくる気配はなく、眠れない私は電気を消して、丸いシェードランプの灯りの中で木製の壁掛け時計をただ眺めていた。
午前二時。
クロックスの足音が廊下の向こうから近づいてきて、臙脂色の玄関ドアの前で止まった。
しかし奈良くんは、インターフォンを鳴らそうとはしなかった。
「佐川さん、やっぱり瑠璃とやり直す。ごめん」
そう告げられるのではないかと、鼓動が早まり、耳の血管が膨らむのが分かった。
「瑠璃さんは……?」
「帰った」
「こんな夜中に?」
「うん。駅前のホテルに泊まるって言ってた」
「……そう」
胸を撫で下ろした。
けれど、不安はまだ消えない。
「あ、明日……」
「明日?」
「瑠璃さんと、金沢に行くの?」
「なんで?」
「昨夜、土曜日に金沢に帰るって言っていたから」
「あぁ……うん。行かないよ」
私の不安げな表情に何かを感じ取ったのだろう。
奈良くんは私の目を見て、力なく呟いた。
「瑠璃とは、別れた」
「え……」
「別れたから」
奈良くんは瑠璃さんと別れた。
彼は私の前からいなくならない。
安堵した私の頰に、一筋の涙が伝った。
「別れたから……」
「うん」
そう言うと、奈良くんは立ち上がり、黒いハーフパンツのウエストのゴムを引き上げた。
前屈みになってグラスを手に取り、残り僅かな日本酒をぐいっと飲み干す。
「奈良くん」
「うん。今夜は帰る」
「……」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
奈良くんの背中はやや猫背で、私に触れることなく部屋を後にした。
ザリザリと引きずるクロックスの足音が遠ざかっていく。
何故か、涙が止まらなかった。
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