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朝の遮光カーテンの向こうは、きれいな青空だった。
ホテルの十二階から見渡す富山の街は、昨夜の雨で洗われたように鮮やかだった。
荷物一つない一泊旅行。
身軽にチェックアウトを済ませ、瑠璃は富山駅南口まで小走りに向かった。
歩行者信号は青。
瑠璃の進む道を遮るものは、何もなかった。
北陸新幹線「はくたか」の停車時間は一分。
指定席の切符を手に、瑠璃は窓際の席に腰を下ろした。
朝日が眩しい。
ロールカーテンを引くと、背後に流れてゆく景色が、すべてを押し流してゆくような気がした。
ピンクの携帯電話を取り出し、LINE画面を開く。
建のアイコンは、高校時代に飼っていた顔のモサモサなヨークシャーテリア。
瑠璃はなんの躊躇もなく、そのアカウントをブロックした。
(バイバイ、建)
指で画面をなぞり、次に開いたのは白い丸に赤文字の(寿)のトーク画面だった。
軽快なタッチでメッセージを打ち込む。
おはよう
既読
寝てた?ごめん
既読
建と別れてきた
既読
目を見開いたオタマジャクシのスタンプがビョンビョンと跳ね、すぐに紙吹雪を撒き散らし始めた。
明日の日曜日、インド料理のシャルマでランチを奢ってくれるらしい。
最近の寿は景気が良い。
ありがとう。
◇◇◇
金沢市示野のショッピングモール駐車場に、深緑色のミニクーパーが停まっていた。
運転席から降りてきた黒髪セミロングの女性は、白いシャツにデニムのジーンズ、黒いパンプス。
助手席から降りるのは、白いブラウスに黒い肩紐の可愛らしいくるぶし丈フレアスカートの瑠璃だった。
不慣れな手つきでシートベルトを外している。
「なに、まだ外せないの!」
「だ、だって……」
「今どき車の免許持ってない若人なんて、あんたくらいよ」
「若人って……」
「さ、食べるよ! 行くよ! お腹空いた!」
エスニックな外装と、妙な目つきの薄紫色の派手な象が出迎えるインド料理店『シャルマ』のガラス戸を押すと、ドアチャイムが鳴り、スパイスの香りが鼻腔の奥まで押し寄せてきた。
「いらさりませー、お好きな席にどぞー」
縦に長い店の一番奥、窓側の席に腰を下ろす。
椅子に座ると同時に、ラミネートされたランチメニューと銀のカトラリー、レモンの輪切りが浮かぶグラス、おしぼりが手際よくセッティングされた。
「瑠璃、ターリーセットでいい?」
「うん」
「ターリーセット、二つお願いします」
「かしこまりましたー」
頭に白いターバンを巻いたウエイターが片目を瞑って寿にウィンクすると、寿は笑顔で手を振って見送った。
次の瞬間、彼女はテーブルに肘をつき、身体を前に乗り出してきた。
「で、なんでまたいきなり別れ話になったの?」
「もう、いいかなぁって」
「またまたぁ、なんかあったんでしょ? 話してみ? ん? ん?」
瑠璃は大きくため息をつき、上目遣いに寿の顔を見た。
寿はピンクの唇から何が飛び出すのかと、ワクワクした顔をしている。
人ごとだと思って、本当に。
「驚いてよ?」
「うんうん、驚く驚く」
「あのね」
「勿体ぶらないの!」
「口紅があったの」
「……」
寿は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になり、その後で眉間に深い皺を寄せた。
赤い唇がへの字になる。
「あ、中身は無かったんだけど、空っぽの箱が」
「何よ、そのドラマみたいな展開……」
「あぁ、まじかーって」
「ご愁傷様です」
寿はまるで仏壇に手を合わせるように、深々と頭を下げた。
「お待たせしましたー、ターリーセット二つねー」
貝殻を模った銀色のプレートには、焦げ目の美しいナン、カレーは三種類(ムガールチキン、グリーンカレー、ビーフマサラ)、サラダが付いていた。
「それを見たらもう、馬鹿らしくなってさ」
「そうだろ、そうだろ」
「うん」
バターの香るナンを指でちぎり、カレーに浸す。
ただ「馬鹿らしくなった」と言っても、建に別れ話を切り出したのは金曜の雨の夜。
いくら日曜日が青空で太陽が眩しくても、胸の奥はまだ切なかった。
「あ、瑠璃、手、手!」
「あ、あぁ」
ぼんやりとグリーンカレーに目を落としていた指先が、ナンを摘んだまま銀のプレートに沈み込んでいた。
おしぼりで拭い、レモン水を喉に流し込む。
沈み込む心を、胃に落とすように。寿が何か言いながらナンを頬張っている。
「ふぁのさぁ」
「寿、カレーついてる」
「ふぁ、ん」
紙ナフキンで口元を拭くと、せっかくの赤い口紅が取れてしまった。
素顔の、高校時代のような寿の顔だ。
「で、なに?」
「明日の夜さ」
「うん」
「コンパ、あるのよ」
「今度は何? 金沢大学? 市役所? 県庁?」
「ノンノンノンノン!」
寿はちっちっちっと舌を鳴らし、人差し指を左右に振った。
その表情はどこか悪戯っぽくて、嫌な予感がする。
「灯台下暗しよ、灯台下暗し」
「どういう意味」
「ふっふっふっ、瑠璃、私の名前は?」
「む、村瀬寿」
「そ!」
「寿の名前と何が関係あるのよ」
「こ、と、ぶ、き退社」
「なに、寿、会社辞めちゃうの?」
「馬鹿ね! 寿退社よ!」
「はい?」
「社内コンパ、どう!?」
「社内、何それ。いつも会ってるじゃない」
「馬鹿ねぇ! 営業部なんて見飽きてるわよ」
「まぁね」
「そこで! 部署関係なく、どばーーーんと!」
「どばーーーん」
「ざばーーーんと大漁よ!」
「ざばーーーん」
「そう! 建よりも良い奴、いるって」
「建より……いる?」
その時、目の前に白いヨーグルト風味のラッシーが置かれた。
ラッシーを見るだけで、建の冷蔵庫に整然と並んでいたヨーグルトの箱を思い出してしまう。
「はい、どぞー。私の奢りねー」
「え、いいの?」
「いいよー。お客さん美人ねー」
「ありがとう」
二人同時にストローを口に含み、吸引力マックスで濃厚なラッシーを飲んだ。
「寿、彼でも良いじゃん」
「国際結婚はパス!」
「あ、そ」
「だから! 明日はいつもより気合い入れた格好で出社しなさいよ!」
「ええ、強制参加なの?」
「当たり前よ。あんたのためにセッティングしたんだから!」
「え、こ、ことぶきぃ……」
「嘘、ぴよーーーん」