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凪が硬直している間に千紘はさっとそれを回収した。元のポケットへ戻ったスマートフォン。
「別に俺は悪用する気なんてないんだけどね。思い出の為に貰っただけだし。でも、もしかしたらうっかり誰かに見せちゃうかもねぇー」
ゆったりとした口調で千紘は言う。凪は自分でも唇が震えているのがわかった。
「お、俺の事脅す気かよ……」
「脅さないよ。酷いことも痛いこともしないし、無理矢理するのも好きじゃないって言ったじゃん」
「てめっ……無理矢理しとして何言って」
「凪が可愛く俺を求めてくれたらそんなことしないし」
「ばっかやろ……そんなことするわけないだろ!」
「はい、大きな声出さない。ドライヤーかかってなかったら店内に響く声だよ」
千紘はしれっとそんなことを言う。凪の正面に位置する席でドライヤーを使用していたため、かろうじて千紘にだけ聞き取れる声量だった。
凪はぐぬぬっと奥歯を噛み締める。あんな写真をばら撒かれでもしたら、女性相手のセラピストにとっては致命傷である。
男とも寝られる男として傷がつけば、あっという間に客は離れていくだろう。
「で、パーマとカットとカラーだっけ? とりあえずトリートメントしとこ。こんなに傷んでるのはないわ」
さらりと話を戻した千紘はカラーチャートを手にとってうーんと考える。
「おい、美容院変えるって」
「とりあえず今日はやっていきなよ。トリートメントは俺がサービスしてあげる。この前イジメちゃったお詫び」
綺麗に片目を瞑って指先を自分の唇に当てた。そんなキザな行為すら絵になる千紘にもはや殺意すら芽生える凪。
「てんめ……」
「俺も今仕事中だからね。仕事はちゃんとやらせてもらうよ。責任感強いの好きでしょ?」
「……それ言ったのはお前だろうが」
「ちゃんと覚えてんじゃん。さて、俺の凪の髪をこんなに傷ませたアイツは後でシメるとして、先にシャンプー行こう。色、俺が決めていい?」
またしても不吉な言葉が放たれて、凪は震え上がった。
「緒方くん、シャンプーして」
千紘は後ろを振り向くと、少し大きな声でアシスタントを呼び寄せた。
「凪に触れさせるのは本意じゃないんだけど、さすがにシャンプーまでしてあげられないから、行ってきてね」
軽く頭を撫でられた凪は、バッと勢いよく振り返った。他の客や美容師に見られたらどうするつもりかと気が気ではない。
「てめっ」
「ごめんね、凪。後でね」
あんなにも執着心の強い千紘がさらりとそう言い残してその場を去った。成田ブースへ向かう彼の横顔は真剣そのもので、「仕事中」と言ってた千紘の言葉がこだまする。
なんなんだよ……。あんな顔もできんのかよ。
心の中でそう呟いた凪だったが、美容院を変えるといいつつ既にシャンプーをする流れになっていることに気付く。
「お願いします。シャンプーさせてもらいますね」
そう言って声を掛けてきた緒方には、凪も何度となく今までにシャンプーをしてもらっていた。
「あ、いや……俺は」
美容院を変える。そう言いかけて米山への敵意を孕んだ千紘の瞳を思い出す。年齢も経験も上の美容師に対しての態度があれなのだ。
アシスタントである緒方が凪を帰らせたとあれば、その後千紘になにをされるかわかったもんじゃない。
ゲイであるはずの千紘。若くて愛嬌のある顔立ちをしている緒方が、自分のように手首を縛られ無理矢理襲われるところを想像した。
……やりかねない。あの鬼畜野郎ならやりかねないぞ。俺が帰ったらこの人、俺よりも酷い目に遭わされるかもしんねぇ……。
そう考えたらゾッとした。更に後ろめたい気持ちにもなる。他人のことよりも自分の身の方が大事。そうは思うものの、これ以上犠牲者を増やしてはいけない気がした。
「どうしました?」
全く状況を理解していない緒方は、つぶらな瞳で凪を見つめ、小首を傾げた。
「いや……なんでもないです。お願いします」
あー……クソっ! アイツが戻ってきたら帰る。シャンプーだけだ、シャンプーだけ……濡れた髪じゃ帰れねぇじゃん……。
うーわ、タイミング逃した。最悪だ。カットされたらなに要求されるかわかんねぇし。
震えながら延々と考える凪だったが、にこにこと笑顔を浮かべる緒方に案内され、渋々シャンプー台に背中を預けた。
軽くシャンプーしてもらった凪は、パーマとカラーを終えて再びシャンプー台へと案内された。
時折千紘がやってきては確認をしてまた成田ブースへ帰っていく。そんなことを繰り返していた。
まあ……このくらいの頻度ならいいか。もっと色々言ってくんのかと思ったけど、アイツ忙しそうだしそれどころじゃないか。
凪の角度からは見えない成田ブース。しかし、続々と客が帰っては入ってくるを繰り返している様を見れば、あれだけの大人数を相手にしていることに驚く。
普段1対1で仕事をしている凪には考えられないことだ。よくもあんなに同時進行してメニュー間違えないな、と感心すらした。
「米山さんいなくなっちゃうの悲しいですね」
不意に緒方に話しかけられた凪は、千紘の低い声を思い出す。
「そうですね……2年もお世話になったんで」
「そうですよね! でもいいなぁ……。俺も早く成田さんに認めてもらえるように頑張らなきゃって思ってます」
健気にそんなことまで言う。そして米山が認められて本店に移籍するわけではないことは口が裂けても言えなかった。
「あの……成田さんってどんな人なんですか?」
「成田さんですか? もう、圧倒的なカリスマですよね。優しいし、カッコイイし、仕事できるし」
「……優しい?」
「はい。スタッフ皆に優しいですよ。そりゃ、仕事中、ミスしたりしたら凄まれることはありますけど……」
余程怖い経験をしたことがあるのか、一瞬緒方の目が泳いだのを凪は見逃さなかった。
「……怒ると怖いんですね」
「えっと、まあ……。でも、それもプロ意識が高いからであって、成田さん自身はめちゃくちゃ仕事ができるので仕方ないですよね」
怖いよな……。いや、怖ぇよ。アイツ、ニヤニヤしながら人の腕縛って無理矢理挿入するようなヤバいヤツだぞ。
そりゃ震え上がるほど怖いって。
凪は緒方に同情しながらも、他のスタッフから「仕事ができる」と好評なのは認めざるを得なかった。