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ポットの注ぎ口から立ちのぼる湯気が、俯いてしまったマリアンヌの頬を優しく撫でる。
(いけないっ。お茶が冷めてしまうわ)
再び歩き出したマリアンヌの足音と重なるように、誰かの足音が近付いてきた。
「え?……あっ」
振り返った先には、クリスがいた。
彼はマリアンヌと目が合うと歩調を早め、すぐ側で足を止めた。
「あの……お茶の到着が遅いから、様子を見てこいと兄に言われましたか?」
「まぁ、そんなところです」
苦手な相手とはいえ、クリスは兄の護衛騎士だ。
自分がもたもたしていたせいで、使用人のような真似をさせてしまったことに、マリアンヌは心苦しく思う。
「そうですか。ご足労かけました。えっと……見ての通りです。すぐにお持ちしますので、先に行って、兄にそうお伝えいただけますか?」
社会的な立場としてはマリアンヌの方が上だが、クリスはウィレイムの幼馴染でもある。
だから丁寧な言葉を選びつつ、この場から立ち去って欲しいと遠回しに伝えてみたけれど、彼は頷くだけで動かない。
それどころか、マリアンヌが持っていたお盆を素早く取り上げてしまった。
部屋に戻ってもいいということなの?と、都合の良い解釈をしたいけれど、クリスの目は「行くぞ」と訴えている。
嫌と言って背を向けたら、そのまま首根っこを掴まれそうな予感がして、マリアンヌは息を呑む。
「これは、わたくしが運びます。ですが、ウィレイム様のお部屋にはマリアンヌ様もご一緒に来てください。わたくしがウィレイム様にお茶を出すと茶が不味くなると言い出し、不機嫌になりますので。どうかマリアンヌ様の手で渡してあげてください」
「……まぁ」
目を丸くして、マリアンヌは口元に手を当てた。
クリスが語るウィレイムは、自分の持っているイメージとかけ離れていている。でも、クリスの表情は真剣で、嘘や冗談を言っている様子はない。
「兄が……その……失礼なことを言って申し訳ございません」
「いえ。謝罪が欲しくて、お伝えしたわけじゃないので。お気になさらず」
「で、ですが」
「事情をわかっていただけたなら、足を動かしていただけると幸いです」
「わ、わかりましたわ」
兄のせいで、もうゴネることすら許されなくなったマリアンヌは、すぐに歩き出した。
並んで歩いてみると、クリスは思っている以上に背が高いし、しっかりした体躯だ。
マリアンヌは、窓に映る彼と、本物の彼をこっそり見比べる。当たり前だが、違いなどあるわけない。でも生身のクリスの方が冷たく感じるのはなぜだろう。
動きに無駄がないせいなのか、それとも腰に差してある剣と、真っ黒な騎士服がそう思わせているからなのだろうか。
とにかく黒豹のような、しなやかさと鋭さを感じさせる美しい青年だ。……でも、顔が良いからといって、好印象を持てるかどうかは別問題だ。
「そういえば、婚約されたとか」
2回目の角を曲がった途端、唐突にそう言われ、マリアンヌは思わず彼を見る。
「あ、はい。本当に最近なんですが……」
「お相手は、幼馴染のレイドリック・リッツさまと伺いましたが、本当ですか?」
「そうです」
マリアンヌが頷いた瞬間、クリスはピタリと足を止めた。
「では、おめでとうございます……と、言った方がいいですか?」
「……っ」
随分と最後の方に余計な言葉があり、マリアンヌは返答にしばしの時間を要した。
「えっと……どちらでも構いませんわ」
「なら、わたくしはその言葉を言わないでおきます」
「……どうぞ、ご勝手に」
なんて、性格がひん曲がった方なんだろう。
マリアンヌははしたなくも、そんな悪態を心の中で吐き、むっとした顔を隠すことなく歩き続ける。
(もう二度と彼から話しかけられても、返事などしてやるもんか)
長い廊下に、二人の足音とカチャカチャと陶器の揺れる音だけが響く。
マリアンヌは、子供のように不貞腐れた顔をしながら、歩くことだけに集中している。
それをクリスは、歩きながら見下ろしている。口元には柔らかな弧を描きながら。そして、その形の良い唇が動く。
「……ただあの男に対しては、羨ましいという気持ちを捨てきれないけどね……君を妻にできるのだから」
そう言ったクリスの声はあまりに小さくて、マリアンヌには聞き取れなかった。