サイド赤
樹は元気にやってるかな。
俺なしでも、学校生活を楽しく送れてるかな。まあでもあいつは明るいし、友達も多いからきっと大丈夫だろう。
でも俺は、ここには誰も友達がいない。
樹が来てくれない限り、笑えない。
樹がいないと寂しい。
早く樹、来ないかな。
一緒にいて、バカな話をして、いつものように笑い合いたい。
白い天井を見つめながら、そんなことを思う。
俺が入院するのは、人生で2回目。1回目は、病気が見つかったときだった。
今でも断片的に覚えている。治療が嫌で、泣いて両親に当たったり、病室から逃げ出したこともあったっけ。
でももう高校生。治療も我慢して、頑張らないと。
病院には定期的に通っている。それで、『検査結果がちょっと悪くなっている』と医師から告げられたのは、2週間くらい前だった。病院での治療に専念するための入院、と言われた。
その瞬間、頭に浮かんだのは『樹に会えない』という気持ち。いつもみたいに一緒に学校に行って、一緒に帰っていた。それが、できなくなる。
ここは街中にある大きな総合病院だから、俺と樹の家からは遠いところにある。来たくてもすぐに来れるような距離ではない。
でも、と医師は付け加えた。治療の効果次第で、すぐに退院できるかもしれない。俺は頑張ろうと思った。絶対に良くして、また戻りたい。
だけど、俺を待っていたのは、酷な現実だった。良薬は口に苦し、というから、治療に辛さはつきものだろう。だけど、先週から始めた治療は、うんざりするほど副作用が襲ってくる。
今日もベッドからほとんど動かないまま、半日が過ぎた。
何もすることがなく、暇つぶしにスマホを取り出す。と同時に、それは着信音を響かせた。
「…え、樹」
届いたのは、樹からのメールだった。すぐに開き、内容を確認する。
『元気か? 今日、そっち行ってもいい?』
僅か17文字の短い文章。でも、それを読んだ俺の心は嬉しさで満たされた。
「樹…来てくれるの? ほんと?」
途端にワクワクが止まらなくなる。
『嬉しい! ありがとう、待ってるよ!』
しばらくウキウキして待っていると、ドアがノックされる音がする。返事をする前にドアが開く。顔を出したのは、案の定樹だった。
「やっほ」
いつもの調子で、笑って声を掛けてくれた。そのことが何よりも嬉しかった。
「樹~! 待ってたよ!」
「ハハ、嬉しそう」
「そりゃ会いたかったんだもん。ありがとね、来てくれて」
「ううん。休み少ないし、部活が忙しくて全然行けなかったんだよね。ごめんな」
「そんな、謝らないでよ」
しばらく見ていなかったせいか、なぜか樹の着ている制服が新鮮に見えた。同じものが、今は家で眠っている。
樹は、そばに置いてあった丸椅子を手に取り、ベッドの横に腰掛けた。
「どう? 体調とか」
意外と真面目なことを訊いてくるので、少し面食らう。
「うん…。結構副作用がきつくてさ。特に吐き気とか」
「そっか。辛いな」
樹はいかにも自分事かのように、眉をひそめてうつむく。
「ずっと樹に会いたかった」
「っは笑」
樹はぱっと顔を上げると、顔をくしゃっとさせて笑った。
「なんだよそれ笑。恋人かよ」
「だって寂しかったんだもん!」
「電話してたじゃねーかよ」
「でもぉ…」
「俺もなるべく早く見舞いに行きたかったんだけどな。ここ遠いし。全然来たことないとこだよ」
「え、今日なにで来たの?」
「電車。いつも使う駅から路線乗り換えて、近くの駅で降りた。ナビって便利だね。…っていうか、めっちゃでかくね? この病院。来たときびっくりした!」
「まあ、総合病院の中でもおっきいほうらしいね。俺みたいな珍しい病気でも診てくれるから」
「あー、なるほど。っていうか、勉強とかちゃんとしてんの?」
「してるよー。遅れをとらないようにね。樹が毎日送ってくれるから、ありがたいよ」
「よかった」
樹は毎日、授業で進んだ範囲をメールで教えてくれる。それを頼りに、病室で教科書を開き勉強している。
「樹は今日、何してきたの?」
「まあ、いつも通りの授業だよ。っつーかさ、聞いて? 5時間目が古文だったんだけど、めちゃくちゃ眠くて。うつらうつらしてたら、先生に急に当てられた」
「ええ? 田中ー起きてるかー、って?」
「いや、普通に『はい田中、これ分かるか』って。今日の日付の出席番号を当てるやつ。あんま聞いてなくて答えれなかったんだけど、後から考えたらめちゃくちゃ簡単だった」
「へえ笑。まあ要するに、寝るなってことよ」
「そりゃそうだと思うけどさ、ねみーんだよ…。ご飯のあとはマジで眠い」
「HAHA。……んっ」
突然、頭痛が襲う。樹が反応し、顔をのぞき込んできた。
「え、どうした?」
「…ああ…痛い」
こめかみを押さえ、ベッドに身体を倒す。樹の手が背中に触れ、さすられる。
「大丈夫だよ、ジェス。大丈夫」
ちょうどいい低音が耳元で響く。心がほわっと解けるような気分だった。
「痛み止め、あるから…取って、くれる?」
「あ、気づかなかった。はい、飲める?」
薬と水のペットボトルを渡され、それを胃に流し込む。
「…ふう。もう大丈夫だよ」
「うん。……俺、そろそろ帰るわ」
「ん。わざわざありがとね、ひとりで帰れる?」
「ハハ笑、そんな心配すんなよ。子供じゃねーんだから。ジェスこそ大丈夫か? 辛かったらまた電話なり何なりしてよ」
「わかったよ。ありがと」
「ああ。それじゃ、またな」
病室を出ていく背中を見送る。
樹は「また“明日”」とは言わなかった。それがなぜか、すごく寂しいことに思えた。
静かになった部屋。
この病室には俺以外に3人が入院している。満室状態だ。でも樹は特に気にしていない様子だった。なぜなら、全くうんともすんとも言わないから。
まず、ほぼ寝たきりのおじいさんが一人。
最近集中治療室から移動してきた、酸素マスクを付けてほとんど眠っている女性が一人。
がんを患っていて、これまたほぼ寝たきりのおばあさんが一人。
そして俺。
要するに、この病室はいつも静かだ。たまに家族の人が会いに来るが、服などを置いて帰るだけ。
無言の静寂が、喋る相手がいなくなったという事実をいやが上にも引き立てる。
なにか面白い番組はやっていないかな、とテレビを付けてみるが、特に見たいものは見つからなかった。
適当にニュース番組にし、そのまま付けておく。アナウンサーのよく通る声が、静まり返った部屋に行き渡る。でも無機質すぎて、逆に不安になった。
リモコンを操作して、別の番組に変える。バラエティー番組だが、あまり知らない人たちばかりだ。音声だけを聞き、布団にもぐる。
ときおり聞こえてくる笑い声が、ほんの少しだけ不安を消してくれた。
続く
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