金沢市広坂にある金沢21世紀美術館は「まちに開かれた公園のような美術館」をコンセプトとして2004年に開館した。
芝生の中央にガラス張りの建物があり、気軽に入場できるような作りで、年間250万人以上が訪れる人気のスポット。
ふたりにとっては、思い出の残る場所だった。
「んー、気持ちいい」
沙羅は、開放感のある広い芝生の上で、雲をつかむように両手を上げて、大きく息を吸い込む。
さしずめ”雲を測る男”ならぬ”雲をつかむ女”といったポーズだ。
「昔、よく来たよな」
「無料ゾーンがあって、おこづかいの少ない高校生に優しい施設だったから」
付き合っていた高校生の頃は、一般家庭の沙羅に合わせて、無理のないデートをしていた。
「そうそう、時間を忘れていろんな話をしたよな。友達の事や勉強の愚痴とか、先生の裏話とか」
「ふふっ、慶太はいつも面白い話しをしてくれたよね。体育の金子先生、厳つくて強面なのに、お弁当がめちゃめちゃ可愛いキャラ弁で、しかも自作とかギャップありすぎて、この話し忘れられない」
「これは話したかな? 女子にカッコ良いって人気だった古文の林田先生。実はズラで、ある日ズレていたのを先生にこっそり”髪乱れてますよ”って教えてあげた事があるんだ。林田先生大慌てでトイレに駆け込んで行ったよ」
「あはは、とんでもない情報を隠していたのね」
「他にも聞きたい?」
リラックスした様子の沙羅は、昔の面影のままの笑顔を向けた。
慶太は、あの頃へと気持ちが引き戻される。
当時、父親も母親も、自分の用事で忙しく、たまに顔を合わせても、話すのは学校でのテストの結果。TAKARAグループの後継ぎとして、良い成績なのは当たり前とプレッシャーをかけられていた。彼らにとって息子は、自分のステータスを上げるための道具でしか無いのだ。
表面上は上手く繕っていたが、自分の中にある孤独や重圧に押し潰されそうになり、負の感情を消化できずに心のバランスを取るのが大変だった。
そんな中で、打算や偽りの無い、真っ直ぐな気持ちを向けてくれる沙羅の存在に、どれほど癒やされた事だろうか。
その沙羅が、離婚をしたと言って、酷く傷ついた様子で涙を流していた。
願うなら、今度は自分が沙羅の心の傷を癒せる人で在りたいと、慶太は思う。
「沙羅……」
「なに? 先生の裏話しの続き?」
「いや、それより、あの楽器のチューバみたいなのが埋まっている作品、覚えている?」
慶太が指差したのは、アリーナのための クランクフェルト・ ナンバー3という作品。
地中を通る管が2個ずつペアでつながり、管楽器のような形をしたオブジェが12個、不規則に地上の芝生に顔を出している。そのペア同士が、どこで繋がっているのかわからないという。仕組みとしては、伝声管の応用だ。
「もちろん、覚えている。いろいろな組み合わせをふたりで試して、あの2つ並んでいる右側のと、ガラス窓前にあるのがペアになっているのを一番最初に見つけたのよね」
自信満々で答えた沙羅の横で慶太は首を傾げる。
「あれ? そうだったかな」
「絶対に合ってると思う。私、ガラス窓の前の所まで行って来るから、慶太は右側の前に居てね」
大切な思い出を間違えて覚えているはずがないと、沙羅は芝生の上を小走りで急いだ。
ガラス窓前にあるオブジェの前に辿り着くと、直ぐにオブジェに顔を近づける。
「もしもし、聞こえていますかー?」
おっかなびっくり話しかけ、ドキドキしながら待って居ると、少し間が空いて、離れた場所に居る慶太の声が返ってくる。
「聞こえているよ」
「ほら、合っていたでしょう?」
沙羅はエッヘンと胸を張った。
「そうだね。最初に見つけた時にどんな話しをしたのか、覚えている?」
慶太に問われて、沙羅の心臓の鼓動がいっそう早くなる。
大切な思い出となったその時に、慶太から「好きだよ」と告白された記憶が鮮明によみがえる。
沙羅は自分の顔に熱が集まるのを感じていた。
「……覚えてる」
心の奥にそっと仕舞っていた慶太との大切な思い出を忘れるはずもない。
「昔も今も、沙羅を大切に想ってる。って、言ったら困らせるかな?」
オブジェから慶太の声が聞こえて、沙羅は顔を上げる。
思いがけない告白に、嬉しいのに怖くて、感情が揺れ動く。
立ちすくむ沙羅の元へ、離れた場所に居る慶太が、だんだんと近づいて来る。
瞳が潤み、その姿が揺れて見えた。
「ごめん、迷惑だった?」
そばに来た慶太の不安気な声が聞こえる。
応えようとしても、想いが溢れて唇がわななき、言葉に出来ない。
代わりに首を横に振った。
「沙羅、泣かせるつもりは無かったんだ」
慶太の手が沙羅の頬に触れ、そっと涙を拭う。
「私……」
慶太には「バツイチで子供の居る自分は相応しくない」と言わなければいけない。
それなのに、自分の意思とは裏腹に絶たれてしまった想いが、沙羅の心の奥底に残り続け、再び慶太の手を取りたいと願っていた。
これが正しい答えとは思わない。
むしろ、自分勝手で最低な事だと思う。
でも、今だけ、我が儘を言わせて欲しかった。
「私……東京に戻るまでのわずかの間でいいの。慶太の恋人でいたい」
「それが、沙羅の望みなんだね」
慶太に確認するように問われて、うなずいた。
慶太は、寂しそうに微笑みながら、両手を広げた。
「おいで、恋人同士のハグをしよう」
沙羅は、慶太へと足を一歩踏み出す。
筋肉質な腕が背中にまわり、包み込むように抱きしめられた。そっと目を閉じ、広い胸に耳を寄せる。慶太からトクトクと少し早い心音が聞こえて、自分の鼓動と重なり合う。
傷ついていた沙羅の心に慶太の温もりがゆっくりと滲み込んでいく。
暫くの間、抱き合い、お互いがお互いの温もりを感じていた。
「……ありがとう。慶太」
「いいよ、彼女の言う事は何でも訊くよ。我が儘でもお願いでもたくさん言って、俺に甘えて」
耳心地の良い声にほだされて、このまま慶太から離れられなくなりそうな自分が怖かった。
だから、あえて線を引く。
「東京に帰るまで、一緒に居てくれるだけでいいの」
「ん、いいよ。一緒に居る」
金沢に居る間だけの恋だと沙羅は言う。
けれど、慶太はそれだけで終わらせるつもりは無かった。
新幹線で近くなった東京と金沢の距離をどうにか埋めようと考えていた。
左腕に巻かれたクロノグラフに慶太は視線を落とした。
「そろそろ、予約した時間だ。行こうか」
そう言って、沙羅へと手を差し出した。
沙羅はおずおずと慶太の大きな手に自分の手を重ねる。
「予約って、もしかしてスイミング・プール?」
「そうだよ」
「昨日、予約をしようと思って、ホームページを見たけど、いっぱいでダメだったのに」
目を丸くしている沙羅をよそに、慶太はイタズラっぽく微笑む。
「ああ、ちょうど予約を入れていた知り合いが、都合が悪くなったとかで譲ってもらえたんだ。ついでに入場券も、ラッキーだったよ」
「ふふっ、どんな知り合いなのか、あえて聞かないでおく。でも、スイミング・プール見たかったの。チケットありがとう」
「どういたしまして」
金沢21世紀美術館にある作品の中でも、人気のあるレアンドロ作のスイミングプール。
光庭のひとつに設置されたプールは、上部から波打つプールの中に人が佇む不思議な光景を見る事ができる。また、内部に入るのも可能で、ゆらゆら揺れる水上を見上げる事が出来るという。内部に入るのには、事前に予約が必要なほどの人気の展示物だ。
総合案内で、前売りチケットを出して入場する。
ガラス張りの明るい館内をゆったりと歩いていると、いつの間にか、繋いだ手の指と指が絡んで、恋人繋ぎに変わっていた。
繋いだ手の温かさに、気恥ずかしい思いで、横に居る慶太の顔をチラリと伺う。背の高い慶太とは身長差で自然と上目遣いになる。
沙羅の視線に気づいた慶太が問い掛けた。
「ん?どうしたの」
「何でもないの。ただ見てただけ」
「なんだ、甘えてくれているのかと思った」
慶太が僅かに顔を寄せ、耳元で囁いた。
慣れないシチェーションに沙羅の心は、そわそわと落ち着かなくなる。
「あ、甘えるなんて……」
後半はモニョモニョと口籠もる。
19歳で両親を失い天涯孤独になってしまってから、甘えてなんて居られ無かった。
政志と恋人同士になった頃は、少しは甘えて居た時期はあったと思う。
結婚して、家族を支え、子育てや家事を頑張っているうちに、いつの間にか政志との関係は、子供の父親で、相談相手になり、甘えるような蜜月の関係では無くなって居た。
長い間、甘えていなかったから、上手に甘えるなんて芸当は、紗羅にはハードルが高く感じられた。
口籠もる沙羅に、慶太は優しく語り掛ける。
「自分のやりたい事を口に出して良いんだよ。沙羅は我慢するのに慣れてしまって、欲求……んー、望みがあっても言えないみたいだから、先ずは、欲しい物は欲しいって言ってごらん」
「甘えるのが、難しいって考えた事もなかったから、ちょっと新鮮。自分に足りない物が見えて不思議な気がする。でも、欲しい物を欲しいって言って居たら、お財布が軽くなっちゃうわ」
「そこは、ご心配なく」
「そんな事言って、私が悪い女で貢がせたらどうするの?」
上手くおねだりすれば、可愛い女になれるのに、正論を言ってしまうのは、ダメな女だと思う。
それなのに慶太はふわりと微笑み、それを受け流す。
「いいよ。沙羅の好きなだけ我が儘言って、俺貢ぐから」
「ばか……」
甘い感情が沙羅の心を埋め尽くしていく。
レアンドロ作のスイミングプールは、総合案内から入って直ぐの光庭にあった。美術館の中に突然現れたスイミングプールはそれだけで不思議な感じがする。
ゆらゆらと揺れる水面を覗いて見ると、プールの底を普通に歩いている人が見え、手を振ると振り返してくれる事もある。
他の来館者のマネをして、沙羅も大きく手を振る。
プールの底に居合わせた小学生ぐらいの女の子が、手を振り返してくれた。
その女の子は両親の元へ戻り、ふたりにも手を振るように言っているようだ。やがて、3人そろって大きく手を振ってくれた。
幸せそうな親子連れの様子に、少し前にあった幸せを思い出してしまった。沙羅の胸はツキッと痛み、楽しい気持ちが急激にしぼみ始め、表情を曇らせる。
プールの水面が揺れていて、相手の表情がわからない作りで良かったと思いながら沙羅は手を振り続けた。
大きく息を吐き出し、気持ちを整えてから慶太へ顔を向ける。
「いつまでも、ごめんね。プールの中にも行かないと」
「まだ、時間あるから、ゆっくりでいいよ」
「ううん、上から見ていたら中に入りたくなったの。あのプールの中に入ったの学生の頃だったでしょう。あの時は、水族館の魚になったような気がしていたけれど、大人になった今なら違う事を思うかも知れないでしょう。楽しみなの」
沙羅は無理に笑顔を作り、大げさな手ぶりで明るく振舞う。
それをなだめるように、慶太は沙羅の頭を優しくポンポンとする。
「そうだな。じゃあ、行こうか」
地上からプールの中へ向かうには、階段を下り、長く曲がりくねった通路を進んで行く。通路は薄暗く余計な装飾が無い。
これは、水中に潜る疑似体験を意味しているらしい。
薄暗い通路の先に、小さめの入り口があり、そこを|潜《くぐ》れば、青いプールの底だ。
遠近法を使った作りで、実際の面積よりも広く感じる。その証拠に奥に行く程、上り坂になっているのだ。
頭上からは、ゆらゆら揺れる水面を模したガラスから柔らかな光が差し込む。本当の水中に居るような錯覚に陥り、不思議な感覚だ。
「大人になった沙羅が、プールの底に着いた感想は?」
「胎内回帰かな」
「胎内回帰?」
「薄暗い通路が産道で、そこを進んでお腹に帰って行くの。プールの底は子宮で、水は羊水」
「女性ならではの解釈だね」
沙羅は少し恥ずかしそうに、ふふっと微笑み話しを続けた。
「母親のお腹の中で、羊水に温かく包まれて過ごした事は、幸せな記憶として心の奥底に刻まれている。母親のお腹の中で安心して過ごして居た頃に帰りたいと願う気持ちは、誰もが持ち合わせているらしいの」
「DNAに刻まれているんだ」
「そう、それでね。似たような環境に来ると、お腹に居た頃の安心感を思い出して、辛い記憶がリセットされるらしいの。すると、心が新しく生まれ変わって、また歩き出す事が出来るんですって」
「沙羅の辛い記憶もリセット出来た?」
慶太の問い掛けに沙羅はうつむき瞼を閉じた。そして、大きく息を吸い込み顔を上げる。
「リセットしたから、慶太と一緒に新たな幸せの記憶を心に刻みたい……」
輝く水の光がさざめく青く深い世界は、現実感を失わせるのかも知れない。
夫の不倫。しかも、相手が妊娠していると言う問題は現在も継続している。
離婚届を出しても、子供のために半年は一緒に家族ごっこを続けなければいけない。
重たすぎる現実を沙羅は簡単にリセット出来るはずもなかった。
でも、僅かな期間だけでも慶太だけを想い、恋人として過ごせれば、辛い現実が待ち構えていたとしても、幸せな記憶を胸に生きて行く事が出来るような気がした。
沙羅に向けられた真っ直ぐな瞳。
その瞳を慶太は見つめ返した。
「沙羅の心が、幸せで埋め尽くされるように一緒にいるよ」
「我が儘言って、ごめんね」
「これは、我が儘の内に入らないよ。望みを聞いただけ」
慶太の柔らな声のトーンは、沙羅の弱った胸に沁みる。
「慶太、ありがとう。優しいのね」
「優しくするのは沙羅限定だから」
自分を見つめる慶太から、沙羅は視線を泳がせ、小さくつぶやく。
「ちょっと、恥ずかしい」
火照った顔を隠すように頬を抑えた。
その様子を見て、慶太はクスリと笑う。
不意に「こんにちは」と声が響く。他の観覧者が見学に来たのだ。「こんにちは」と挨拶を返すと、さっそく写真撮影を頼まれる。
スイミングプールは、撮影OKの映えポイントなのだ。
快く応じて、シャッターを切ると、かわりに撮影してくれるという。
スマホの画面には、慶太と沙羅のふたりが仲良く寄り添う姿が残った。
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