テラーノベル
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彼は銀鯉を見た。次に、炊源の手を見た。
荒れて、冷えて、指先に小さな傷がいくつもある手だった。黄河へ通い詰めた冷えがまだ抜けていない。爪の際には泥が残り、節は赤く腫れている。
だが、その手が魚を洗う時、身を潰したことは一度もなかった。魚の腹を探る時、力任せに裂いたこともない。鱗を落とす時、余計な傷をつけたこともない。
他の者は見ていない。だが、頭厨は見ていた。
「炊源」
「はい」
「欲で捌けば、魚を殺す。怖れだけで捌けば、料理を殺す」
頭厨は一歩、魚籠へ近づいた。
「誓いで捌けるか」
「捌きます」
「俺が見る。少しでも乱れれば、即座に代わる。失敗すれば、お前だけではない」
「はい」
「立て」
炊源は立ち上がった。膝がまだ震えていた。
恐ろしいからではない。逃げられなくなったからだ。
銀青の鱗が、湯気の向こうでかすかに光っている。炊源はもう一度、深く頭を下げた。
「粗末には、いたしません」
まず、炊源がしたのは、刃を入れることではなかった。
桶の水を替えた。泥を落とし、濁りを流し、銀鯉の身を清める。冷たい水が指先に刺さる。魚の表面を撫でるたび、鱗の下にある力が分かった。
よい魚だった。身が締まり、尾に力があり、腹は美しい丸みを保っている。
炊源は水を切り、銀鯉を俎板へ置いた。
御膳房の誰も口を挟まない。頭厨だけが、炊源の斜め後ろに立っていた。
炊源は包丁を取った。鱗に刃を当てる前に、手を止める。そして、ほんのわずかに頭を下げた。
頭厨の目が細くなる。
炊源は鱗を落とし始めた。
銀の光が、少しずつ俎板の上に散っていく。水に濡れた鱗は、小さな月の欠片のようだった。刃を入れるたび、魚であった光が剥がれ落ちていく。
銀の鱗は失われる。だが、それは消えることではない。料理へ移るために、姿を変えていくのだ。
炊源はそう自分に言い聞かせた。
鱗を落とし終えた時、俎板の端には銀の欠片が散っていた。
炊源はその中から、傷の少ないものを数枚、指先で拾い上げた。
「何をしている」
「……銀を、残せないかと。鱗を、皿に」
頭厨はしばらく黙った。その目は怒っているというより、炊源がどこで迷ったのかを見ている目だった。
「飾りに逃げるな」
低い声だった。
「料理で銀を残せ」
それだけ言うと、頭厨は炊源の手元から目を離さなかった。続きは言わなかった。
炊源の指が震えた。拾い上げた銀鱗が、灯を受けて淡く光っている。これを皿の縁へ添えれば、誰の目にも分かる。この魚は銀鯉だったのだと。
だが、それは魚を料理にしたことにはならない。ただ、失われたものを横に置くだけだ。
炊源は銀鱗を水へ戻した。
「はい」
短く答え、魚へ向き直る。
腹を開く時、指は震えなかった。内臓を傷つけぬよう、刃を浅く入れる。苦みを残さぬよう、余計な濁りを洗い流す。骨の位置を確かめ、身の厚みを読む。
魚は沈黙している。言葉はない。抗いもない。だが、俎板の上にある重みが、炊源に一瞬も油断を許さなかった。
炊源は尾を見た。胸びれを見た。背びれを見た。
そこを壊してはならない。
身は開く。鱗は落ちる。腹は裂かれる。油も通る。それでも、黄河で跳ねた時の形だけは、皿の上へ連れていく。
「飾り包丁」
頭厨が短く言った。
「深すぎれば身が崩れる。浅すぎれば花が開かん」
「はい」
炊源は身に包丁を入れた。
一筋。二筋。三筋。
斜めに、均一に、骨へ届きすぎぬ深さで。油の中で身が反り、外は張り、中は崩れない。その形を思い描きながら、刃を進める。
包丁は祈りではない。だが、乱れれば冒涜になる。
炊源はそう思った。
下味を施し、粉を薄くまとわせる。魚の身が呼吸するほど薄く、それでいて熱を受け止めるだけの衣をつける。
火場では、油が熱を帯びていた。表面が静かに揺れる。湯気ではない。熱の気配が、空気を歪ませている。
「今だ」
頭厨が言うより早く、炊源は銀鯉を持ち上げた。
両手で形を支える。尾の向き。身の反り。頭の角度。
その一瞬、炊源には黄河が見えた。
朝霧を打った銀の尾。泥の上で跳ねた光。濁った川の奥へ返された最後の揺らぎ。
炊源は息を止め、銀鯉を油へ入れた。
じゅ、と音が立った。
御膳房の空気が熱で震える。
魚身が反った。包丁を入れたところから身が開き、尾が持ち上がり、鰭が張る。銀鯉は、油の中でもう一度、黄河を跳んだ。
龍門を越えようと、水面を破った瞬間のようだった。
誰かが息を呑んだ。
コメント
1件
「銀鯉は、油の中でもう一度、黄河を跳んだ」——この一文に全部持ってかれました。頭厨の「飾りに逃げるな」も刺さるし、炊源が魚に頭を下げる所作が、ただの調理じゃなくて“命を預かる”覚悟に見えて。包丁さばきが祈りみたいに描かれるの、すごく好きです。Hp2さんの文体、一行ごとに空気が変わってて、読んでるこっちまで息を止めちゃいました。続き、もっと見たいです。