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ネタバレ…? いや、むしろ、この料理の描写が美しすぎて、それだけで一つの芸術作品を読んでる気持ちになりました。 銀鯉の淡い光を残すために、餡の色を薄くする判断…あの「隠さない」という選択が、炊源の中に確かな料理人の眼が宿ってる証拠で、心が熱くなりました。 それに、帝が「美しい」「誠に美味である」と評したのも、ただの言葉じゃなくて、皿が空になるという形で証明されたのが、すごく料理人の矜持に響く。感動しました。
炊源は油から目を離さなかった。
火を強めすぎれば焦げる。弱ければ身が眠る。返すのが早ければ形が崩れ、遅ければ硬くなる。
頭厨は何も言わなかった。ただ、炊源の手元を見ている。
揚がった魚を引き上げた時、銀の鱗はもうなかった。
だが、衣の下には、どこか淡い光が残っていた。
普通の黄河鯉なら、揚げ上がりはもっと力強い黄金へ寄る。けれど、この銀鯉は違った。薄い衣の奥に、白身の澄みが残っている。反った尾の縁、張った鰭の筋、開いた身の起伏に、水面を走った銀の名残が淡く透けていた。
黄金ではない。黄河の朝霧をくぐったような、淡く澄んだ色だった。
次は餡だった。
炊源は鍋を替えた。酢。砂糖。生姜。葱。澄ませた湯。
醤へ手を伸ばしたところで、指が止まる。
「少ない」
頭厨が言った。
「色が薄くなるぞ」
「はい」
炊源は、醤をほんのわずかだけ落とした。
濃くすれば、味は深くなる。照りも強くなる。御前に上げる皿として、見栄えもする。
だが、濃い餡は魚を隠す。それは、今日の銀鯉には違う気がした。
「味まで薄ければ、代わる」
「はい」
炊源は火を見た。薄く。だが、弱くはしない。酸味を立てる。甘みを追わせる。香味を底へ沈める。
火の上で、餡がゆるく光を持った。濃い赤ではない。重い琥珀でもない。朝霧に透ける黄河の光のような、薄い琥珀色だった。
頭厨が静かに言った。
「かけろ」
炊源は深く息を吸った。薄琥珀の甘酢餡を、魚へ流す。
熱い餡が淡い身に触れ、音を立てた。
じゅ、と。
餡は魚を覆い隠さなかった。反った尾を残し、鰭の線を残し、開いた身の淡い銀を透かしたまま、もう一枚だけ朝の膜をかけた。
銀の鱗は失われた。けれど皿の上には、まだ銀であった魚の記憶が残っていた。
糖醋黄河鯉魚。
御前に上げる皿が、そこにあった。
膳が運ばれていく。
炊源は御膳房の入口で足を止めた。これより先へは、下働きが容易に進める場所ではない。料理人の手を離れた皿は、進膳役に預けられ、帝の前へ向かう。
炊源にできることは、もう何もなかった。ただ、待つことだけだった。
白磁の大皿が、静かに帝の前へ置かれた。
反った尾。開いた身。薄琥珀の甘酢餡をまとい、黄河鯉は皿の上で水を跳ねる形を保っていた。
進膳役が深く頭を下げる。
「糖醋黄河鯉魚にございます。黄河にて得ました、銀鯉を用いております」
帝の視線が、わずかに動いた。
「銀鯉……噂に聞いたことがある。水神の落とし鱗とも言うそうだな」
帝はしばし、皿の上の魚を見た。
普通の糖醋黄河鯉魚であれば、もっと濃い照りを帯びる。だが目の前の一皿は違った。餡の色は淡く、揚げ色も軽い。それでいて、貧相ではない。薄琥珀の膜の下に、静かな光が残っている。鱗はすでにない。だが、反った尾の端に、黄河で跳ねた銀の名残があった。
「美しい」
帝は箸を入れた。
身は崩れすぎず、しかし硬くない。甘酢は舌に先に立たず、魚の身の味を受けてから、遅れて酸味と甘みを返した。
餡で押していない。魚を隠していない。
帝は二口目を取った。
「……誠に、美味である。この魚を上げた者は、惜しい思いをしたであろうな」
進膳役が、わずかに眉を寄せた。
「惜しい、と仰せになりますのは」
「噂のままなら、生かして眺める価値も
ある魚だ。だが、皿の上にある方が、確かに美味い」
御膳房の火は止まらない。次の汁物、次の菜、次の膳。人は動き、包丁は鳴り、鍋は煮える。
それでも、その場にいる者たちは皆、どこか耳を澄ませていた。
◆
やがて、御膳番の者が戻ってきた。
御膳房の空気が張る。
御膳番は、まず頭厨を見た。次に、炊源を見た。
炊源の喉が鳴った。
「陛下が、誠に美味である、と」
その瞬間、御膳房の奥で誰かが小さく息を吐いた。
御膳番は続けた。
「御膳を下げた時、皿には頭と尾、骨ばかりが残っていた」
御膳房に、低いざわめきが広がった。
それは、料理人にとって最も明確な褒賞だった。言葉だけではない。箸が進み、身が余さず取られ、皿の上から料理が消える。
「陛下は、調理した者の名を問われた。頭厨の監督のもと、炊源が調理したと申し上げた」
御膳房の視線が、一斉に炊源へ集まる。
「陛下は仰せになった。よい頭厨を置いている、と」
頭厨は何も言わなかった。ただ、炊源を一度見た。
その目に、叱責はなかった。褒めもしなかった。だが炊源には、その沈黙だけで十分だった。
「そして、炊源の名も、覚えておこう、と」
炊源は深く頭を下げた。
「ありがたき、幸せにございます」
声は震えていた。
喜びだった。恐れだった。信じられないほどの誇りだった。
その日から、炊源の扱いは変わった。
すぐに大役を任されるようになったわけではない。御膳房は甘くない。昨日まで桶を運んでいた男が、翌日から御膳の中心に立てる場所ではなかった。
だが、誰も炊源をただの下働きとは呼ばなくなった。
魚を見る目のある男。銀鯉を捌いた男。帝に、皿を空けさせた男。
その名は、火場の隅から少しずつ広がっていった。