◆◆◆◆
瞼を開けた。
白い天井。
白い壁。
白いカーテンに白いベッド。
壁と天井の境が見えない真っ白い部屋は異様に明るくて、まるですべてが夢か作り物のように思えた。
しかしーーー
「!!」
ぐるりと囲むように立っている頭のない石膏の像と、シーツに広がるどす黒い赤い染みだけが、昨日ここで起きたことが現実だったと教えてくれる。
(逃げなきゃ……!でも、どうやって……)
手首を見上げる。
「……!!」
(縛られて……ない……!)
昨日は確かにポールにくくりつけられていた手首は赤く生々しい痕を残したまま、目の前にあった。
慌てて足を引き寄せベッドの上に起き上がると、下半身に脈打つような激痛が走った。
それでも、起きなければ。
それでも、逃げなければ。
自分はきっと、殺される。
四肢の全てを使って這い、爪先を白く冷たい大理石の上に頼りなく下ろした。
あまりの痛さに膝がガクガクと震える。
両の足の間、ふさがっていない裂け目から、乾いていない血が伝う。
しかしそれを気にしている暇などない。
一歩。
また一歩。
紫音は初めて歩行を覚えた赤ん坊のごとく、窓とは反対側に見えるドアに近づいていく。
(逃げなきゃ……)
輝馬の顔が浮かぶ。
いつも優しくてかっこいい兄。
(逃げなきゃ……)
健彦の顔が浮かぶ。
なぜかいつも不機嫌そうな父。
(逃げなきゃ……)
凌空の顔が浮かぶ。
全てを分かっているような生意気な弟。
(逃げなきゃ……。家族の元に……!)
「……………」
紫音は足を止めた。
母の顔が――――
母の顔だけが――――
思い出せない。
「やあ、起きた?」
その時、正面のドアが開いた。
「おはよう。朝ごはん出来てるよ」
深雪は昨日までと同じ涼し気な笑顔で、紫音を見下ろした。
◇◇◇◇
寝室とほぼ変わらない白くて広いリビングキッチン。
そこにあるウィールナットのダイニングセットが妙に浮いて見える。
「さあ、どうぞ。こちらへ」
まるでお姫様を出迎えるように、深雪は紫音の椅子を引いた。
ズキズキと痛む下半身をやっとのことで椅子につけると、彼はにっこりと笑って正面に座った。
家族の気配もなければ生活感もない部屋。
独り暮らし?それとも自宅ではない別宅なのか。
テーブルの上には、スクランブルエッグ、炒めたベーコンにドレッシングがかかったサラダ。
それに湯気が出ているフォカッチャとカフェラテが並んでいる。
「いただきます」
深雪はそう言い手を合わせた。
「紫音は朝ごはんはちゃんと食べる系?」
そう言いながらフォークでスクランブルエッグをつついている。
「だめだよ、朝は食べなきゃ。一日に対するやる気が変わってくるから」
答えてもいないのに、勝手に会話を進める深雪に薄気味悪さを感じながら、次の言葉を待つ。
「ーーーー」
しかしリビングにはカチャカチャとフォークと皿の触れ合う音が響くだけで、それ以降の言葉はない。
(……え。それだけ……?)
昨夜のことを謝りもしなければ、取り繕いもしない彼に、底知れぬ恐怖を抱く。
そしてそれは「彼は謝ったり取り繕ったりしなければならないことをしたつもりがない」という絶望的な結論を導き出す。
狂っている。
性癖はもちろん、人間として。
どうにかして逃げ出さなければ……。
紫音は視線を走らせた。
ドアは1つ。
キッチンの横。深雪の後ろ。
今おもむろに立ち上がってあそこに走れば、手前にいる深雪に捕まってしまう。
バルコニーに続く掃き出し窓が一つ。
しかしレースカーテンの向こうに見える景色から、ここがマンションで、かつ結構な高さがあることがわかる。
(……どうしよう……!)
振り返ると展示棚があって、綺麗な花が生けられている花瓶やら、深雪の物と思われる陶芸作品が並んでいる。
(作品……)
紫音がそこまで目を走らせたところで、
「……食事が済んだら」
深雪がフォークを持っている手を止めた。
「お母さんに電話してね。授業の製作で忙しいから、当分学校のそばの友達の家に泊まるって」
紫音は目を見開いた。
「それといつも一緒にいる友達にも、遠くに住む親戚の具合が悪いから、お見舞いと葬儀が済むまで向こうにいることになったって……あ、いいや。これは俺が文面打つから」
深雪は微笑んだ。
「あとはいる?君がいなくなって心配する人」
「…………」
「いないよね。こう見えてそれなりにリサーチしたから。
彼氏無し。友達もほぼなし。休日も夜も家に閉じこもって、家族と出かけたりもしないから、関係も良好ではない。でしょ?」
深雪は満足そうに微笑んだ。
「俺が求めていた、理想の女性だ」
(ーーー全然、嬉しくない)
恐怖を通り越して浮かんできた感情は、
怒りだった。
「………ッ!!」
紫音は立ち上がった。
すかさず深雪が、通せんぼをするようにドアの方向に立ちはだかる。
しかし紫音は反対方向に踵を返すと、棚に並んでいる陶芸作品を持ち上げた。
「……え」
背後で深雪の短い声が聞こえると同時に、それを大理石の床に叩きつけた。
「ああっ!!」
彼は紫音に掴みかかる前に、床の上で真っ二つになったよくわからないものに駆け寄った。
(ビンゴ……!)
紫音はもう1つ、臙脂色の何かを床に投げつけた。
深雪の悲鳴が響く。
さらに紫音はもう1つ持ち上げ、それをバルコニーのガラスに向けて投げつけた。
深雪がそちらに駆け寄る。
本来であれば、元凶の紫音の凶行を止めるべきなのだが、冷静さを欠いた今の彼には、作品を破壊する紫音よりも、目の前で散らばっている作品の方に体が動いてしまうらしい。
紫音は最後に大きな花瓶を、中身が入ったまま持ち上げた。
「……!!」
振り返った深雪が目を見開く。
「やめろ……!紫音ちゃん、それだけは……!」
「……私を行かせて!」
紫音はそれを掲げると、後ろ向きでじりじりとダイニングテーブルの周りをまわった。
「私をここから出して……!」
「わかった!わかったから……!!」
深雪が紫音を宥めるように手を翳す。
「そこにいて!そこから一歩も動かないで!」
「ーーわかった」
花瓶を盾にするように、そのまま後ろ向きでキッチンの方へ向かう。
じりじりと後退する紫音を、深雪はバルコニーの前から黙って見つめている。
おそらく深雪にとっては、自分の性癖よりも、やっと手に入れた玩具よりも、この花瓶の方が大事なのだろう。
紫音は花瓶を握りしめた。
とにかく重い。
30㎝ほどある筒状のそれに水が入り、溢れんばかりの花まで入っているのだから当然だ。
しかし“人質”は無傷でこそ意味がある。
紫音はそれを慎重に抱えながら移動を続けた。
キッチンのドアを開ける。
短い廊下の先に玄関が見える。
「………っ!」
そこからは少しだけ背を向け小走りで移動する。
深雪は動かない。
玄関のドアに届いた。
慌てて靴を履く。
「………!」
ドアノブはレバー式ではなく回すタイプだ。
花瓶を両手に持ったままでは回せない。
滴り落ちる汗を飛ばしながら顔を上げる。
深雪はバルコニーのそばから動いていない。
ちょっとくらい……。
ほんの一瞬、それを床に置いても大丈夫だろうか。
紫音はゆっくり屈むと、花瓶を上がり框に置いた。
パン!
確かに、スターターピストルが鳴った気がした。
その瞬間、今まで微動だにしなかった深雪がこちらに向けて走り出した。
「……いや……!!」
紫音は目の前にある花瓶を持ち上げるよりも、背後にあるドアを選んだ。
ロックを解除し、いつもならとても素手では触れないドアノブを回し、外に飛び出す。
視界に飛び込んできた青空。
はるか下に見える街並み。
やはりマンション。かなり高い。
出口は―――
遥か下……!
紫音は走り出した。
エレベーターに乗ればもしかしたら誰かと乗り合わせて助けてくれるかも知れない。
そうじゃなくてもこんな精神状態で、こんな身体状況で、この高さの階段をまともに走り抜けられる気がしない。
エレベーターまで全速力で走る。
そのとき、背後からドアが開く音がした。
振り返らない。
振り返れない。
そのまま突っ走り、エレベーターの下ボタンを押す。
見上げる。
そこには「12」の文字があった。
つまりここは12階。
今箱があるのは……。
「……やった!」
13階。
そこで紫音は初めて振り返った。
「……ひぃ!」
紫音の瞳には、ものすごい形相でこちらに向けて走り出している深雪が映っていた。
「早く……!!早く早く!!」
無駄だと分かっていても、下ボタンを連打してしまう。
こちらに走ってくる深雪の足に比べて、たった1階の高さを降りてくるエレベーターがやけに遅く感じる。
ポン。
高い音がして、ドアが開いた。
紫音は開き切るのを待てずに僅かに開いたその隙間に身体を滑り込ませた。
そして素早く身をひるがえすと、文字盤の前に立った。
慌てて「閉」ボタンを押し込む。
そして同時に「1」ボタンを強打する。
どちらも不特定多数の人間が指先で触れるものだ。
普段なら触れないそれらを必死に連打する。
「早く……早く!!」
エレベーターに向かって叫ぶ。
パタパタと踵を踏みつぶしたスニーカーの足音が近づいてくる。
「お願い……!!」
紫音は押し続けた。
深雪の鼻先で扉が閉まり、エレベーターが下降し始めても彼女は押し続けていた。
「11」
「10」
「9」
「8」……
下降していく。
深雪は諦めただろうか。
それとも今まさに非常階段を使って全速力で1階に向かっているだろうか。
(誰か……乗ってきて!誰でもいいから!!)
願うがエレベーターは止まらない。
先に降りた深雪が待ち構えているかもしれない、かつ唯一の出口のある1階へと、紫音を強制的に連れていく。
「……助けて……!助けて……!」
紫音は目を瞑り、両手を顔の前で組んだ。
「誰か……!」
『――紫音』
その時脳裏に浮かんだのは、
幼いころからずっと、
怖いものから、
汚いものから、
自分を守ってきてくれた、
兄、輝馬の顔だった。
ポン。
音がした。
ガクンと箱が止まり、扉が開く。
目を閉じていてもわかる。
―――目の前に、誰かいる。
逃げる気力はない。
突き飛ばす勇気もない。
思えば幼い頃からそうだった。
守ってくれる兄がいない鬼ごっこでは、追われる恐怖に耐えきれず、自ら捕まっていた。
(……終わった……)
諦めかけたとき、
「あの……降りないんですか?」
「…………!?」
その声に紫音はゆっくりと目を開けた。
「あれ、紫音さんだ」
そこには両手に観葉植物の植木鉢を持った、
城咲が立っていた。
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